〜 保育室から 〜
xxx エッセイ xxx

◆感情を表現する  (2009/7/12)



◆「のだめカンタービレ」で考えたこと

 音楽や美術といった芸術と保育とは いくつか共通する点があると私は思っている。
 と切り出したところで、私が今はまっている漫画は「のだめカンタービレ」である(笑)。ドラマから入って 原作を読み始めたクチだ。
 最初ドラマの予告を見た時は アニメっぽい演出が嫌いで、録画予約をしていた旦那に「あんなの見るの?」と言っていたのだが、たまたま途中の回を見てから どんどんのめりこんでしまった。もともと音楽は好きだし、のだめのようにオーケストラに憧れもある。今は原作の続きを読みたくて 次回が待ちきれない状態になっている。

   その「のだめカンタービレ」の中で 考えさせられる場面がふたつあった。
 ひとつは単行本8巻の マラドーナ ピアノコンクール第三次予選。ピアノ科の大学生・主人公の のだめがドビュッシーの「喜びの島」を弾く場面だ。ドビュッシーが「恋しちゃってるんるん♪」で南の島で書いた曲と聞いた途端、のだめのピアノはキラキラした音を放つ。しかし審査員のオクレールは のだめが恋に我を忘れたドビュッシーを「表現」しているわけではない、と見抜く。のだめは 自分の恋しちゃってるんるん♪の気持ちのままに その曲を弾いた、ということだろうか。

 それから20巻の やはりコンクールピアノ部門、ターニャ(のだめのパリ留学仲間でロシア人学生)の二次予選。シューマンの「クライスレリアーナ」op.16を弾くターニャは この曲に自分を重ねて演奏するが、「心の中に湧き上がるものを 客観視するもうひとりの自分」までを表現しきれずに そこで敗退する。そして のちに同じあぱるトマンに住むピアノ科の学生・ユンロンに「自己陶酔プレイ」と サラリと言われて はっとするのだ。自分自身に曲を重ね合わせていただけで、楽曲を理解して 表現するまでに至っていなかったことを。

 のだめもターニャも 曲の中に入り込んで自分の気持ちを弾いただけ。曲の表現者になれなかったのだ。

 
◆感情的にならずに 感情を表現する

 保育の中でも これと似たことがある。
 子どもたちとの関わり方で、いつも笑顔で穏やかに、という方針を掲げている園もあるようだが、私は喜怒哀楽の表現をはっきり示していいと考えている。
 人とのコミュニケーションはことばだけではなく、表情や声音や話し方、すべての情報から判断するもので それらを読み取る能力もコミュニケーションにはたいせつだと思っているからだ。

 保育士は保育のプロ。感情的にならずにプロの姿勢を貫くのが理想だけれど、過って玩具で叩かれるといった危害を加えられたら 痛みを感じるし 自分が暴力を受けたことで頭にくることだってある。人間なのだから感情があるのは自然なことで、無理に怒りを抑えて 作り笑いをしなくてもよいと思う。問題は 自分の感情を相手にどう伝えるか、ではないだろうか。
 叩かれた-> 痛い -> 怒る -> その激しい感情のままに 発言したり怒鳴ったりするのは 好ましくない。
 怒りをただ相手に伝えてはいけない。「私は怒っている」ことを 相手に伝えるのだ。
 言葉遊びのようだが、感情をただあらわにするのではなく、感情を表現する冷静さが求められるのではないかと思う。

 喜び、楽しい、といった正の感情は そのまま伝えてもいいかもしれない。が、負の感情―哀しい、怒り― を そのまま伝えるのは ある種のストレス発散でしかない。
「痛い!叩いたら痛いでしょう!!」ではなくて「先生、叩かれて痛いから怒ってるわ。痛いことされると、いやな気持ちになるわ」
 まだこんな風にしか書けないが、私たち保育士が 自分の感情を的確に表現することで 子どもたちが相手の気持ちを理解し、やがて相手を思いやれる人になる ひとつの経験になったら これほどうれしいことはないと思う。そのために日々よい表現を模索している。

 のだめは8巻から進歩して 表現者になりつつある。
 私が追い付けるのは、いつのことだろうか・・・(凡人には遠い目標か・・・)。



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