「般若心経を読む] 2

牧師の般若心経談義
共立基督教研究所研究員
京都聖書教会牧師  大和昌平
まずは題名から見ていくことにしましょう。玄奘が漢訳したテキストの正式名は「般若波羅蜜多心経」です。知恵の完成の真髄をしめす経典、という意味です。そこで知恵(般若)、完成(波羅蜜多)心髄の経典(心経)と三回に分けて見ていきます。「般若」とは、インドの古典語であるサンスクリットではプランジュニャー、その俗語であるパーリ語ではパンニャーと発音される単語です。このパンニャーの音が漢字に写されて「般若」とされたのです。その意味は知恵なのですが、仏教が究極の目標とする覚りに導く知恵を言うのです。現代の仏教書でも「智慧」と元の表記が意識的に用いられます。
俗に「おシャカさん」と呼ばれる仏教の開祖は、最近ではゴーダマ ブッダと表記されます。
ゴーダマとはこの人の姓であり、最高の牛という意味です。ブッダとは悟った人を表す称号です。覚るとは人格の完成とも言う事ができ、ゴーダマこそ完成に達したブッダであると称するのです。この呼び方はイエスキリストを意識してか、西洋で言い習わせるようになったものです。キリスト(救い主)であるイエスに対し、ブッダ(覚者)であるゴーダマと呼ぶわけです。ここではゴーダマと彼の姓を呼ぶことにします。ゴーダマが到達した覚りに直接導くものが知恵だというのです。それはものごとの道理をわきまえる一般的な知恵ではありません。むしろ自らを含めたこの世界の本当の姿に気付くことといった方が近いでしょうか。それを彼らは救いとは言いませんけれども、「仏教を知恵による救い」を示す宗教と広くとらえることはできます。聖書の創世記には、「あなたは神のようになれる」とアダムの妻エバにささやくサタンの誘惑が記されています。これは神から自立して、神のごとく生き得るとする「知恵の誘惑」でした。そして、人間は神のような知恵をつかもうとして、人間としての本当の知恵を失ってしまうのです。聖書は人間の「知恵の喪失」を説いているとも言えるでしょう。「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである。」(旧約聖書 箴言9・10)だから、聖なる方に畏敬の念をいだくことこそが「知恵の回復」の第一歩なのです。神との信頼関係に生きていくことじたいが「悟り」だと言えるのです。神を信じることこそが知ることであり、主への信仰こそが知恵なのです。ここには、般若の知恵とはずいぶん異質な聖書の知恵の世界があります。