を記述してまっほー
ここでは
NO33NO34NO35NO36
NO33
NO34
NO35
 もう、当分続く、といわれているテロのニュース。

この事件が起きた当日、緊急報道が一斉にTV番組を制覇した。
おちゃには当日何がなにやらさっぱりわからなかった。。
「なに?!テロって・・そんなに大変な事件?」

そんな悠長な事じゃないと言う事は、次の日には理解出来た。

 あれから、1ヶ月以上たった今、状況は少しずつ問題を膨らました。
戦争と平和というテーマについて、しばし考える。

ニュースの中で誰かが言う。
「仕返しだろうが、死からなにも生まれない」
「何がなんでも、人を殺してはいけない」
「そこから平和は生まれない」

 たしかにそうなのかもしれない。
誰かが巻き添えになり、死んだとして、それに対して、いちいち仕返ししていては
世界の平和には繋がらないのかもしれない。。

 ただ、おちゃは、おちゃなりに考えてみた。
もし、おちゃの子供が、そのテロの的となった飛行機の中に居たとしよう。
勿論、おちゃの所に帰ってきた時は、子供達はもう、生身の姿を見る事なく
帰ってくる。
 おちゃは何度も想像し、考えてみた。
帰ってきた子供とは、もう、言葉すら掛け合う事が出来ないのか・・。

 そんな時、おちゃは冷静でいられるだろうか。このテロの事件を
今後冷静に見据える事が出来るのだろうか・・・
 平和を願う事で、自分の子供の先を無くされつつも、からは何も
生まれない。。と憎しみを消す事は出来るのだろうか。。

 この事件によってビルの中飛行機の中で、亡くなってしまった、そのご家族
身内の方の悲しみは、一体どこへ行くのだろう。。

 おちゃは人間が出来ていないのだろうか・・・
もし、その中に自分の子供が居たら。。きっと、平和などと言ってられない。

平和というものが、一体なんなのか・・そこから考えねばならないのかもしれない。
 イスラム教の一部の人が行った事。
では何故に、テロという行為を行ったのか。。
民主主義という事に対する反発とも言われていた様な気がするが・・・


 勿論、同じ宗教の中でも、全部が全部同じでは無いと、なんとなくきいた。
申し訳無いが。。イスラム教などについても、詳しく知らないので語る事も
出来ない、本当に、申しわけない。。

 しかし、NO33で書いた様に、相手がどんな人であろうと
きっと、おちゃは子供が死ぬ様な事になれば、正直、相手にも、「死」を。
考えてしまう。。やはり、これは間違った事なのだろうか・・

 たしかに始めに書いた様に、「死からは何も生まれない。平和は生まれない」のかも
しれない。しかし、、
愛するモノを奪われたという、この苦痛は一体何処に向うのだろう。
 
 その時、おちゃなりに満足(完全には出来はしないが・・)するとしたら
子供のを奪ったモノへ、そのモノのを奪う事を望んでしまうであろう。
 どんな事があろうと、どんな人であろうと、人を殺してはイケナイなんて悠長に
考えられないだろうな・・・・・・・・・・・・憎しみも怒りも悲しみも、全てを望む事に
変えてしまうだろうと。。おもう。

 しかし、戦争になったり、それこそ、罪も無い人はもう他に、死んで欲しくは無いのだ。
あくまでも、子供が死ななければならなくなった、主導権を握る人物。
そしてそれを計画し喜んで実行した人物である。

 「死んだ子供がそれを望むとおもう?」と誰かが問い掛けたとしても・・・・
罪も無い子供を殺された事で、「子供が望まなくとも。。自分は望む」と応えるだろう。
宗教や、考え方、民主主義の問題ではくくれない。単純に、死には死を・・と。

 ある宗教では、「憎しみ、妬みは持ってはいけない」と教えられる。
「悟りをひらいた」といわれる人は、その様な感情は、きっと無くなるのであろう。

 そうした人達、自分の愛すべき子供を、人の手によって奪われた人でも、
命を奪っていった相手に死を望む事も無く、乗り越えてきた人達には、おちゃは
かなわないと痛感する。

 「人間が出来ていない」と言われてもいた仕方ないとおもう。
子供の命を奪った人物に死を与えるまで、金も、時間も全て捧げてしまうだろうから。
それは、平和を願っていない事になるのだろうか・・・
 人は何故生きなければならないのか・・・

学生の頃、国語で習った教科書の一部を覚えている。

【生まれるという文を英語にすると、「I was born」 
直訳すると、”私は生まれさせられた”になる。
受身形だね。】

という文から、はじまっていた。
 この文は当時、馬鹿なおちゃでも「あ〜なんかすごい」と思い、
忘れられないでいる文だっ。おちゃにしたら今でも覚えてるなんて
すごい大発見した気分だったんだろうと、思う。

 それから「じゃぁー・・なんで生まれさせられたのに、生きなきゃならないの?」
と時折考えていた。
その疑問に対し、色んな先生達の話をきいたり、大人の回答をきいても、
なかなか、おちゃの中で、しっくりくる回答は得られなかった。

 その後、ある授業の中で、ある先生が、いった。

「僕が思うのは、生まれた時から、それぞれに色んな可能性を持って生まれてくる
のだと思う。その可能性を見つけ、生かす事が出来るかどうか、
どこまで、何を自分が出来るのか、自分を試すチャンスなのだ」 と。

そこに補足して「だから、勉強をしたい奴はとことんすればいい。他に何か
見つけたい奴は、そこに向って突き進めばいい。それを生かすチャンスだと思う」と
おっしゃった。

 生まれさせられて、やるベキ事は、自分の力を試す事。

「成る程・・・」と思った。
生きている時間は、全てにおいて、チャンスなのかもしれない・・・
自分がどこまで何をやれるか、何を得られるか・・・

 しかしながら、何故生きなければならないのか、という回答としては。。
今一つしっくりとはこなかった。
 そもそも、自分の命は誰のもの?

 おちゃ自身、中学の頃から自分の命は自分のものだと解釈していた。
そんなおちゃは時折、親ともめる時
「誰もあんたに、生んでくれなんて頼んでない!生まれたくて生まれたのでは
ない!」
そう言い放っていた。
 その度、母親は悲しい顔をし、それについて返す言葉なく、おちゃを見る。
が・・自分の命だからこそ、自分が何をしようと、親に干渉される言われはない。
そう、おちゃは思うばかりだった。

 今思うと、なんて親不幸な事いってたんだろな。。と思う。
しかし、当時のおちゃには、そんな親の気持ちまで理解する事は皆無だった。
 自分のしている事で親に罪悪はあるものの、理解ない親に対する反発意識
ばかりもち、わざとバレル様な事をして、親に「ザマー見ろ」と言った風な行動
をしていた事もある。おちゃにとっては、今の自分を理解してくれない親へのいましめのつもり
だったのかもしれない。

 おちゃは今、都合いい話かもしれないが・・子供を持って、おもう事。

 自分の命は誰のもの?
の問いに対し、
「自分のものでもあるが、親のものでもある」と思ってしまう。

 何故ならば、妊娠期間(10ヶ月、又は数ヶ月もの間)母親は自分の栄養をお腹の子供に
与え、さまざまなハンデを乗り越えつつ、お腹の無事を祈りながら生活するのだ。
 勿論、生まれたくて生まれるのではないのかもしれない。しかし、そうなら、
「生まれてきたくなかったんなら、精子の時から卵巣に着床すんなよ」といいたい位。

 そして、辛い妊娠期間を経て出てくる子供に対し、愛情が湧かないとしたら嘘になる。
(馬鹿な子程かわいい)辛い思いをすればする程、愛は深まるもの。

 ”生き方”と”命”は別物で、命は与えられたものであり、自分だけのものではない
生き方は自分のものであり、親に対し、「生んでくれた存在」という意図が心にあれば、
「心配かけまいとする自分の行動」が自然と出るものなのかもしれない。

 自分の命は、親が与えたもの、それゆえ、自分のものだけでは済まないのだ。
与えられて(しまった)命、これをどう、自分で生かす事ができるのか。。
それは自分自身の問題だ。
 死ねば楽になる、という保障は何処にある?
死によって、それまでに自分の命を築きあげた親の悲しみは何処へいけばいい?
生きている限りチャンスは幾度も、自分の手のひらにあるものだと、、思う。
そう、おちゃの子供にしても、勝手におちゃが親になり、おちゃが勝手に生んだ命だ。
NO36
罪無き命を奪った人間に対して、死を願い、行動したとして・・それは間違いなのだろうか・・・
ただ、今回のテロの事件により、なんの罪のない人間(他)が死んでゆくのだとしたら
それはたしかに、起きてはいけない事なのであろう、と思う。

しかし平和とはなんなのだ、これはまだ解答は得ない
ただ、一つ分かった事は・・・
たった一人の指導権を握る者が、たった一言で沢山の命をも左右するをもつ事が出来る。
信じる力とは、恐ろしいものなのかも知れないという事。。



そして、私達が忘れてはいけない事・・・・
命には誰でも限りがある、だからこそ、大切にしなければいけない
という、当たり前の意識なのかもしれない。
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