9/11(月)

火曜日の打ち合わせと水曜日のミーティングを控え帰りは遅くなりそうだった。
家内にも夕食は先にとっておくように言っておいた。
自分はウィークデイスマイルの某ハンバーガーショップでハンバーガーとチーズバーガーを
1個ずつ、しめて税込み152円だな、などと考えていた。
もともと洗濯、庭の水やりなどを家内に任せっきりの私はその日、雨が降ろうが猛暑になろ
うがあまり気にしたことがなく、いつもそういった話題を口にする家内を不思議に見つめて
いたものだった。

その日も朝出勤する時点でも私は台風が沖縄に接近していることも東海地方の天気もまるで
興味がなく、家内の『傘はもっていく?』という声にも(いつも折りたたみ式のをもってる
よ)と内心に思う程度で当然、その後の雨のことなど考えもしなかった。
玄関に立ったときにはすでに小雨が降っており、しぶしぶ長い傘をもって家をでた。
長い傘は雨がやんだ後、荷物になるからあまり気が進まなかったのだ。
思った通り、某私鉄の最寄り駅までは大した雨足にもならず、『やっぱり折りたたみの方を
使えばよかったかな。』と少し後悔したりもしていた。
会社に着くまでも雨の状況は変わりなく、いつも通りに仕事にとりかかる。
残業を覚悟してくるぐらいだから当然その日は忙しかった。
適度に忙しい時というのは不思議と集中できるもので、事務所に3面ある大きな窓から見え
る景色も激しい雨が最上階の事務所の天井に降り注ぐ音も、私の気をそらすほどではなかっ
た。
もちろん、『土砂降りが長いこと続くな。』ぐらいの独り言をつぶやく程度には状況を認識
していた。
たしかに雷もなっていてあたりは夕方より暗いぐらいで時間の感覚がだいぶ狂っているなと
思ったようにも記憶している。
だが、ただそれだけだった。
だから、夕方6時頃、家内から事務所に電話が入った時は
(さみしいから早く帰ってきて、とか言うんだろうな)
などと決めつけていた。
事務所にはテレビもラジオもないので気象状況も交通機関の状況も全く入ってきていなかっ
た。
私にとってはただ雨の日の残業に突入する時間帯でちょうどくぎりがつき一息ついていたと
ころだった。
その電話で家内から、電車が止まっていることを聞かされた私は(やれやれ今日は泊まりか
・・)とすぐにあきらめ、さらには(近くに銭湯があったな)などと下宿時代の思い出にま
で心が飛んでいる始末だった。
家内の、迎えに行こうかという言葉も、激しい雨と生後3ヶ月の息子をだしに断って、やや
大げさだが、初めての会社泊まりに胸を躍らせていた。

昔から、天変地異、行事などによりもたらされる非日常に異常に興奮する性質を持った私は
その時まさに修学旅行を前にした小学生の気分に近いものを心に感じていた。
泊まりが決定したらまずは食事だ、とばかりに買い出しに出かけ、予定通りの夕食に加え、
夜食、翌朝の分もあわせてハンバーガーを5個も買い込んだ私は帰りにコンビニで月曜の習
慣である立ち読みを済ませた後、事務所に戻った。8時か9時だったように思う。
その時は、雨も小降りだったが電車が不通なせいか金山界隈には人が多くハンバーガーショ
ップもコンビニも大混雑だった。
そういった光景を目の当たりにしても私は(みんな大変だなぁ)ぐらいにしか思っていなか
った。
夕食を済ませた後も、家内から電話があったような記憶もあるが内容は覚えていない。
おそらく不安を訴えてきていたのだと思うのだが、私は(なにをそんなに大げさに)と感じ
たように覚えている。
夜も深まり、徹夜で仕事するほどでもないので10時頃からはインターネットなどで遊んで
いた私はいつしか時計が2時を示していることに気づき、
(明日もそのまま仕事だったな。そろそろ寝よう。)
と、普段昼寝するときのように応接の椅子を3つならべて簡易ベッドをつくるとすぐに眠り
に落ちた。
疲れているときはどこでも寝られるもので、明け方の電話の呼び出し音で覚めるまでよく眠
っていたようだ。


9/12(火)

はっきり覚えていないが後で聞いたところによると朝6時前だったそうだ。
その電話は私が椅子から転げ落ちるようにして駆け寄ったものの間に合わず、切れてしまっ
た。
その後、もう一度寝直したと思うのだが、またすぐ電話がなって、今度は間に合い受話器を
とると家内だった。
その時初めて私は我が家、といっても借家だが、に危険が迫りつつあることを知ったのだ。
電話で彼女は家の前の道路は膝ぐらいまで水浸しであることを告げた。
私はいっぺんに目が覚めたものの気分はまだわくわくしたままであった。
『見られなくて残念だな』とか『カメラで撮っておいて』とか言っていたように覚えている。
当然、目の当たりにしている家内に怒られたが。
だが、『逃げるなら早く逃げたい』という家内の言葉には
(膝まで水があるのに車は危ないしつまずいて赤ん坊を落としでもしたら大変)
と考えた私は、大丈夫だから家にいるように、と言い聞かせ、浸水に備えて、床においてあ
るものはテーブルの上や2階にあげるように指示を出した。
その後も何度か彼女からは電話があり、水位が上がってきていることや不安を訴えられた。
その頃になってようやく私にも(本当にやばいな)という危機感が芽生えてきたと思う。
7時半頃、打ち合わせを予定していたお客様に状況を聞き、延期を確認するとすぐに家に帰
ろうと支度を整えた。
同じく出向先で缶詰になっていた社長にその旨を連絡してから、自宅の家内に帰宅すると電
話をかけた。
その電話でも彼女の不安がどんどん募ってきているのがよく分かったので、なるべく早く帰
らねばと足早に会社を後にした。
その時、ちょうど8時。

金山まで着いてみると、いつもはたくさん並んでいるタクシーは1台もおらず、逆にタクシ
ー待ちの客が多少の列を作っていた。
コンコースでもそこで一夜を明かしたと思われる利用客が床を占領していた。
その時点では地下鉄が一部を不通区間を残しながらも運行をおこなっていたので、不便なが
らもいつも通りに出勤する人も多く見うけられた。
いつも利用する某私鉄も某旧国鉄も我が家にむかう路線は不通であったため地下鉄でなるべ
く近くまで行こうと決め、鶴舞線に乗るべく、金山から上前津で乗り換える。
地下鉄は多少の混雑はあったものの通常のラッシュとは変わらない程度で伏見で乗客のほと
んどが降りてしまうと、客は1車両に5,6人となった。
当初、運転見合わせの区間をよく確認していなかった私は終点の上小田井まで行ってそこで
タクシーでも拾えればと考えていた。
ところが車内アナウンスによると終点は庄内緑地公園で通常より一駅手前になっていた。
終点も近くなった頃にそのことに気がついた私は
(まずい、庄内緑地ではタクシーは拾えないな)
と思い、家からほど近いところを通っている旧国道22号の先にある浅間町という駅まで引
き返そうと決めた。
戻るために乗っていた電車から降りたものの、その駅には反対に向かう電車を待っていた人
がかなりいた。

普段は人の乗り降りが多くないであろう駅と思えたが、これだけの人が電車を待っていると
言うことが何を意味しているかすぐに気がついた。
このまま電車が来ないのかも、といらいらしながら待つこと延々。しかし時間的にはおそら
く15分程度のことだったと思う。
ようやく到着した電車に乗り込み、思いの外空いてるなと感じたが、誰もがややくたびれた
ような表情で雰囲気も重苦しかったように記憶している。
ようやく浅間町に到着したものの地上にでると雲はかかっているものの、以外に空も明るく
道路にも車がまばらだった。
やっぱり市内は大したことなかったみたいだなと思いつつ、そこでいったん家に連絡をいれ
て現在位置とこれからタクシーもしくは徒歩で向かうと告げた。
自宅では水位が徐々に上がってきており、明け方には玄関のポーチが水面より上だったのに
その電話の時点ではすでにポーチが濁った雨水で見えなくなっているということだった。
浅間町から自宅までは直線距離にすると約4km。これは後で地図で計って知ったのだが、
普段車で移動しているのでもっと短いような気も、歩きならもっと長いような気もして本当
にたどり着けるか不安だった。

急いで帰らねばと旧22号を下るべく歩き出したが、時折タクシーを探すために振り返りな
がらの早足は非常に足腰に負担があったようだ。
このあたりは西進している私の歩いている側、つまり道路の南側には小さな商店や企業が軒
を並べているが軒並み床上に浸水したらしく出勤した従業員や店主が店内の清掃に追われて
いた。
すでに水は側溝などから流れ出たようで地面もおおむね乾きややうす茶色の泥をうすくかぶ
っている以外は普段と変わらぬ景色だった。
700mほど歩いたところで運良く大きな交差点で客を降ろしたばかりのタクシーを拾うこ
とができた。
運転手も朝から空車の時間が0だと言っていた通り、タクシーが拾えたことは幸運だった。
浅間町で歩きだす前に買い求めたペットボトルのお茶を口に含み、
(これで時間はかかるかもしれないが家に帰れる)
そう思ったら少し落ち着いてきたのでタクシーの運転手から市内の状況をあれこれ聞いたり
した。

運転手によると、市内にはもうそんなに水はないよ、とのことだった。
ただ、庄内川は堤防から川の水があふれているらしいこと、国道41号は不通だということ
などを知らされたが肝心の自宅周辺の状況は分からないままだった。
自宅前まではタクシーで行けないことを覚悟していた私は、いけるところまでと運転手には
言ってあったが、ふと財布を確認すると4千円ほどしか持ち合わせがないことに気がついた。
そのことを運転手に告げると、折しも1kmほど走り庄内川の橋へ続く渋滞の混雑に巻き込
まれたらしいことと併せて急に『(200m先の)橋までまだ30分はかかるよ』と降りて
欲しそうな口調に変わった気がしたので、そこでタクシーをあきらめて歩くことにした。
幸いその頃は雨があがっていたので颯爽と歩きだした私は200m歩いて庄内川に近づいた
時、橋が通行止めになっているの発見した。
早くあきらめてよかったなと思う一方で、タクシー会社でさえその程度の情報も把握してい
ないのかと混乱に驚いた。

橋のたもとで土嚢をつんだトラックが警備している消防団か何かの人とやりとりしているの
を横目に橋に近づくと、川の光景が目に入った。
庄内川は名古屋では一番大きな川で普段は流量が多くはないものの河川敷はかなり広い。
だがこの時、その広い河川敷はすでに河川敷ではなくなっていた。
堤防から堤防までいっぱいに大濁流がうなりをあげていた。鉄道用の橋脚ものこりわずかし
か見えず、橋桁まで1mあろうか
という状況だったのだ。
歩行者と関係車両のみ通行可能だったのでほっとして橋をわたったがその間、ぼけーっと流
れに目を奪われていた気がする。
対岸にわたるとそこは西枇杷島町なのだが、あとでニュースで知ったがそこは今回の大雨で
もっとも被害が大きかった地域の一つだった。
橋を渡りきると300mほどしたところに某私鉄の線路があるため旧22号は高架になって
いる。
橋に近づいた頃から気がついていたのだが、野次馬が多いのだ。
それにズボンをまくって歩いている人も見かけるようになった。
最終的には自宅の前が水浸しなのだから自分もそうなること覚悟していたが、そこまでは順
調にきていたため私にはその必要もまだ感じていなかったし心の準備もできていなかった。
そして高架に近づくと、高架の測道はすでに水没していた。
(高架になっていて助かったな)などと見当違いのことを思いながら高架を登り切ると、眼
下に広がっていたのは一面の茶色の海だった。
高架の頂上付近には某国営放送局の中継車が停まっており、上空にはテレビ局か何かのヘリ
も数機飛んでいる。
夢でも見ているかのような気分で水際まで降っていったが、そばまでいっても水はそこにあ
り、あまりの不思議さ、見慣れぬ光景になんだか無性に可笑しくなってきたのを覚えている。
膝や腰ぐらいの水なら突撃していたかもしれないが、水没している家屋を見る限りうまくし
ても首、いやそれ以上の水深があることが容易に想像できたので(このまま、水に入ってい
ったら滑稽だな)と思って迂回を考えることにした。

高架を橋の近くまで引き返し、そこから斜めに入っていく道が自宅の最寄りの駅、須ヶ口に
続いていることを知っていた私は、やや遠回りになるがこの道を行ってみようと考えた。
その道を反対に歩いてくる人が結構いたので、スラックスを膝までまくったまま歩いていた
サラリーマン2人に声をかけて、この先の状況を聞いた。
それによるとこの道自体はだいたい冠水はしてないが須ヶ口の駅前がこの状態、と自分の足
を指し示しながら話してくれた。
2人にお礼を行って再び歩き出した私はよやく何とか帰り着けそうだと感じることができた。
その道は古い街道らしく狭い道の両脇に古い家が窮屈に立ち並んでいる。普段車で通る分に
はそれぐらいしか気がつかなかったが立ち並ぶ通り沿いの家の裏手にも同じように所狭しと
家が建っていたのだ。
通りを歩いていると何本もその道と直角に交差する細い路地を通り越すのだが、通りの右手
は通りよりかなり低い地形になっており、路地を10mもいくとそこから先は水浸しで家屋
も1階は水没しているものがかなりあった。
ボートで脱出か救助かしているのも見かけたが、大半は自力で脱出したようで近所の方と途
方に暮れている住人も多く見かけた。
いざ、そういう状況を間近にするとやはり自宅のことが気になってきて歩くスピードも知ら
ぬ間に上がっていたようだ。
情けないことに普段の運動不足がたたってここまでの道のりで私の足、特に左足のふくらは
ぎは悲鳴を上げていた。
それでもしばらくして道路が冠水している地点まで来ると靴を脱いでズボンをまくってさら
に歩き出した。
自宅まではおよそ2kmという地点だ。
サラリーマンの話の通り、水深があったのは須ヶ口の駅前の交差点だけで、その後は冠水も
なく普段通り通行できた。無論裸足で、だが。
ようやく自宅の裏手の線路にかかる跨線橋のたもとまでたどり着いたところで、携帯電話が
なった。
もう目前に迫った自宅から、家内がかけてきていた。
よく考えたら歩き出してから電話していず、心配していたとのことだったが、もう裏の跨線
橋にいるよと言ったら、2階のカーテンを開けて手を振ってくれた。
やっとたどり着いた、そうほっとした瞬間だった。
跨線橋の向こう側はまたしても海原だった。
通行止めになっているようで、そこまで来た車も引き返している。
ただ、さきほど目にしたのよりは水深も深くなく、せいぜい腰までといった感じで、これな
らいけるとざぶざぶ水の中に入っていった。
玄関までたどり着くと、そのあたりは膝上20cmぐらいの水位だった。
家内が玄関を開けてくれたが、水は玄関のすぐ下まできている。あと1〜2cmで玄関に水
が入るような状況だ。
荷物を上げてもらい私も玄関に上がろうとした時、そのはずみで玄関には水が流れ込んだ。
我が家が浸水した瞬間だった(笑)
何とか家にたどり着いたとき、午前11時だった。

家内にはすぐに脱出の準備をさせた。
もちろん基本的には準備は完了していたので大したことではなかったが、私はその間、隣の
組長宅に挨拶に行き、周辺の状況を確認した。
この方はアパートに取り残されているのが家内だけと知って避難先の奥さんの実家から戻っ
てきてくれていたそうで、本当に感謝している。
その後、車を試してみたが、5m走ったあたりの水深1mのところでエンジンが停止してし
まった。当然車内も水浸しだ。
道路で立ち往生した車を再び5mバックするのを手伝ってくれたのも、組長だ。
この組長、趣味で釣りをやるそうで、胸まである長靴を持っており、それを着用しての救助
はなんとも頼もしく感じた。
車での脱出をあきらめざるを得なくなった私たちは、歩いて脱出するべく、近くの人達に話
を聞いて回った。
だが、情報は錯綜し、確かなことは結局分からずじまいだったが、その時、それ以外に大き
な収穫があったのだ。
家の前のスーパーの方から私の家の方に向かって白い大きな物体が流れてきたのだ。
近づいてみると、それは材木の束だった。それもかなり太い柱のような材木で畳を縦に2つ
並べたほどの大きさで、それに白いビニールシートがかぶせられていたのだ。
(これは使えるかも!)
と思った私は、このままでは自宅の脇を通り過ぎて流れていくこの材木塊を自宅前に引っ張
り込んで確保した。
隣の組長も向かいの家のご主人も、何をするのかといった表情で見ていたが、のちのこれが
伝説のボートになるのだった。

この頃初めて明らかになったのが同じ並びの隣家の住人がまだアパート内にいたことだ。
同じ並びなのにその家だけが停電していたが、かまわず読書をしていたらしい。
最寄りが近くにおらず避難するあてもないととのことだったが、後で考えたら一緒に連れて
こればよかったと思ったが仕方ない。
脱出用のボートをキープして私はいったん家にもどり、動きやすい短パンに履き替えるとと
もに脱出準備の最終チェックを行った。
1階の床下収納庫が浸水で浮力が発生して浮き上がっていたので、ふたと重石を取り除き浮
かぶままにした。
2階にあった出産祝いの現金なども、騒乱や空き巣をおそれて全て所持させた。
2階から見える、水浸しの光景を記念にデジタルカメラで撮影しておいた。
本当は浸水に備えてブレーカーを落としてくるべきだったが、冷蔵庫もあり浸水しないこと
に望みをつないで落とさないことにした。
いざ出発の時間が近づいた頃、ちょうど3ヶ月の息子がおっぱいをほしがり泣き始めた。
普段は午前中はぐずって家内を泣かせるのにこの日に限っては夜から、協力的な姿勢を見せ
ていたということだ。
出発したら、いつ授乳できるか分かったものではないことを考えるとベストなタイミングだ
ったと言えよう。

おっぱいを飲ませ終えたら最終戸締まりをして脱出だ。
家内の実家の姉が近くまで迎えに来てくれるとのことなので、どこまで行けるか分からない
が自宅の北1kmあたりにある避難所の保育園を目指すと伝えておいた。
この時、午後0時。
逗留しておいたボート(材木塊)を玄関にべた付けして、避難後の着替え、息子のおむつな
どを詰め込んだカバンを乗せ、ついで息子を抱いたままの家内をボートに乗り移させる。
予想通り、この大きな木材塊は人がのってもほとんど揺れることなく安定している。
家内には足を開いて前を向いて踏ん張りが効くように座らせた。万一揺れて落ちたりしたら
息子(と家内)が心配だ。
組長をはじめ数人の隣人に見送られ、希望の脱出ボートは出発した。

家の前の雨水は流れもほとんどなく、重いボートもなんとか押すことができたが、角を一つ
まがるとどうやらそちらが川上らしく緩やかながら進行方向から水が流れてくる。
こうなると大きなボートは水の抵抗を受けてなかなか真っ直ぐには進まない。
川(道路)の脇の住人も2階から見物している中、押しては針路修正し、また、押すの繰り
返しで、なんとか進んでいった。
50mほど行くと目指す保育園へとつながる通りに出ようかというところで再び流れが強く
なった。
その交差点(らしきところ)を左折しようと、ボートの舳先を左に振ったとたん、船体に横
から水圧が加わって、ボートは一気に左に曲げられそのまま左後ろに流されてしまいそうに
なったのだ。
まずい!と私は船体左側に回り込み懸命にボートを支えた。
ところが回り込んだわたしの足は、水の底で泥状になった畑の土にずぶずぶと沈み込んでい
ったのだ。
支えるだけでもしんどいのにこのままでは脱出できない、と、めり込む足を引っこ抜いては
半歩進んで、まためり込んで、今度は反対の足を引っこ抜いて、の繰り返しで5分はかかっ
たであろうと思うが何とか脱出をした。
交差点からはずれると再び流れはほとんどなくなり、順調にボートを押すことができた。
が、畑からの脱出で私の左足はつる寸前になり、後で気がついたが、右足の小指の爪もはが
れかけていたりと満身創痍というには大げさだが、かなりへとへとになっていた。
出発前急いで作った携帯ストラップで首に掛かった携帯も水に浸かりそうだったので家内に
預けて、さらにボートを押した。
通りに出てしばらくすると、先の方では組長の言ったとおり水がなくなっておりアスファル
トが顔を出している。
それが見えると(あと少しだ)と思えてボートを押す手にも力が入った。
300mほど進むとやがて底が浅くなってきて、ボートが地面に擦るようになったので脇の
歩道に乗り上げたところで乗客である家内と息子と荷物が下船した。
荷物は私が持ち、息子は家内が抱いて膝ぐらいまである雨水の中を歩き出した。
息子を抱く彼女がつらそうだったので肩掛けにしたバッグを駅弁売りのように前にして、そ
の上に息子をおいて寝かせてあるいた。
車から漏れたオイルなのか水面はあぶら独特のギラつきを見せ、かなり汚く見えた。
そういえば出発する直前に濁流が下水臭いようにも感じたと思い出したら、よけいに汚い気
がしてくるから不思議である。
水の中を歩くのはかなり疲れるなと実感しながら、見えている岸までが遠く感じて
『歩くスピードと同じぐらい早く浸水が進んでたりして』
なんて冗談も言いあったりもした。
それでも何とか水はくるぶし程度まで浅くなり、やがて岸、というか陸上に上がることがで
きた。

そこでは近所の方々が集まって臨時井戸端会議が開かれていたが、特に挨拶してくれるでも
なかったので、会釈だけして通り過ぎた。
(困ったときはお互い様で車に乗せてくれたりしないのか?)
とも思ったがそれも自分勝手な話だ、と自嘲して先に進んだ。
あと少しで保育園というところまできて雨が降り出した。
本降りになる前になんとか避難所である保育園までたどり着けたのは幸いだった。
保育園に着いたときは私は迎えが来るまでの雨宿りと考えていたので、始めは避難所になっ
ている2階にどうぞという職員の方の言葉を遮り、ここ(玄関)でいいです、と言ったりも
したが、よく考えたら迎えがいつ来るかも本当にたどり着けるかも分からないなと思いなお
して、避難者名簿に3名分記入し2階避難所に入った。

名簿にはその他にも1人程度の名前が書き込まれていたが、2階に上がると保母さんが1人、
お遊戯の大道具に色を塗っていた。
他には避難者らしき人もおらず、職員の方がござをしいてくれて毛布を3枚くれた。
私や家内はともかく息子にとっては敷き布団代わりになってとても助かった。
まぁ、ござの上でも平気で寝るやつではあるが(笑)
しばらくするとペットボトルのお茶とカンパンがひとつ出された。
私たちは出発前に家に冷やしてあったウーロン茶をペットボトルに詰めてきたのでそちらを
飲んでカンパンをかじった。
よく考えたら、私も昨日買ったハンバーガーを朝に食べたっきり、家内も昨日のおかずのの
こりのカボチャの煮物をを数個口にしただけだという。
だんだん、おなかが減っていることが分かってきて『たった1個か』などと愚痴をこぼして
いたら、そのあと避難してきた人には1人1個配られていて、どういうことかとも思ったが
じきに脱出できる思えば、それもそう気にもならなかった。
3グループ目の避難者が入ってきてしばらくすると、入り口から元気な声とともに家内の姉
が入ってきた。

『やっと着いたー』
そう言いながら避難所に入ってきた義姉の顔を見た時にはじめて
(あぁこれで本当に脱出できる)
と実感できた。
義姉もあちこちで冠水、渋滞、通行止めにあってくたびれていたので、飲み差しだがお茶を
一杯飲んでもらってからすぐに出発。
袖ふれあうも何かの縁、というわけでもないが他の避難者に挨拶をすませ、毛布とござを片
づけて避難所を後にした。
出発したはいいが、このあたりの地理に詳しくない義姉がうろうろしてたどり着いたため、
今度はどうやって帰ればいいのか分からない。
あれこれ話をしているうちになんとか来た道を思い出して走り出すが、やはり渋滞。
被災地に向かう方向は当然空いているが脱出方向は言うまでもない。
付近に他に通行できる道がないらしく、大型トラックも清洲の古い町並みの狭い路地にあふ
れていた。
たかだか2km程度の道のりに1時間程もかかったように思う。
それでもなんとか旧22号にでられた。
その道路はすぐ南のあたりで通行止めになっていたためそこから北向きには混雑はなく、
家内の実家までは問題なくたどり着けた。

すでに午後3時頃だったように記憶しているが、カンパンをいくらかかじっただけだったの
で何か食べ物をということになって、ラーメン屋にでも行くか、という案も出たが義姉のバ
イトの関係で残念ながらコンビニ弁当を購入して帰ることにした。
家内の実家に着くと、家の前が冠水している。
(おいおい、こっちも危ないんじゃないか…)
とも思ったが、雨が降ったときはこんなもんだという話を聞いて一応ほっとした。
布団に息子を寝かせ、畳に腰を下ろしたとき、本当に力が抜けた。
まず、買ってきた弁当を平らげると今度は急激に眠くなってきた。
ただ、精神的、肉体的な興奮状態が解けていなかったため、とても寝られる気はしなかった。
家で迎えてくれた義母や義姉に脱出劇を披露したりしていると再び興奮が高まってきて落ち
着きを取り戻せたのは夜も深くなった頃だった。
風呂に入ってゆったりしてくると今度は体のあちこちが痛くなってきて、擦り傷やはがれか
けた爪、筋肉疲労等がどっと気分的に疲れたーという実感を呼び起こさせてくれた。
また、脱出する頃から夜までにいろんな人たちから心配の電話があってありがたかった。
私はその夜、案外すんなり寝付けたが家内は興奮が収まらず、あまり寝られなかったと言っ
ていた。

9/13

翌朝、ボートでの脱出を見送ってくれた組長さんに脱出先を連絡したときに聞いたところに
よると、家は床上浸水を免れたこと、現在水位はすね程度とのことを教えてもらった。
その後、私は仕事の打ち合わせのため髭ぼうぼうTシャツにスリッパという出で立ちで出社
した。
そういった些細だがいつもと違うことが自分が被災者なんだと実感させる。

9/14

某私鉄が開通したのは9/13の夜。
14日にはその私鉄で出社したが、その際、列車の窓から見える我が家の近辺はすでに水は
引いており、うす茶色にそまっただけのいつもと変わらぬ地面が顔を覗かせていた。
こうして色々なことが普段通りに戻ってくると、あの時のことがまだ夢だったかのように思
えてくることもある。

9/15

敬老の日だが、悲しいことに仕事が入って出勤する。
必要なものがあったので出勤前に被災後初めて立ち寄った。
組長の話の通り、床上には浸水していなかったため部屋の中はいたって普段のまま、といっ
ても脱出したときの状態なので、いろんなものがテーブルの上やら2階やらに移動されてい
るが。
多少、湿気が多く、むっとするかなという程度でほっとしたが、やはり床下収納庫をとりは
ずして覗いた床下はまだどろどろで完全に乾燥させるには石灰をまくか何かしないと無理そ
うだった。

その後

その週末には避難先から自宅に戻ったが、後日2度ほど賃貸管理会社の方が床下の消毒、断
熱材の張り替えなどに来てくれた。
その消毒薬、クレゾールの臭いが強烈でしばらくは2階で食事をしていたし、窓は全開、換
気扇もばりばりかけまくりだったが、10月中頃まではすっきりしなかった。
それよりも痛かったのは車だった。
運んでもらったディーラーから修理に120万かかると言われ、
(車体128万の車だっつーの!)
と心の中でつっこみながらも、泣く泣く廃車を決意。
10月に入ってからだが新車を購入すべく地元のディーラー(当然被災)へ足を運んだ時、
『今回の水害で大変だったんだからまけてよ』
と弱者が弱者をいじめた結果、当然のように大幅値引きをゲットして契約。
いとしいZとの本当のさよならがやってきた。何もなければあと4年近くは乗っていたはず
だ。
最後に、と記念撮影なんかもしたりしたが、さびしいものだ。

今回の教訓

『ディアブロやってる暇があったら、すぐ帰れ!』
今日は一晩やりほーだい!などと浮かれているから…

『救助ボートに乗ったら、ヘリに向かって手を振れ!!』
もうちょっとアピールしていたらニュースになってたのに。ちっ。