風に吹かれて、青らいおんは、今日も野原 を駆け抜ける。

やっとだ・・・。
 「マイ・ディア・ママ」では、かなりの重要なテーマとして書いたのだが、
「痴呆」という言葉を使うな、という声がやっと、いろんな方面から届いて、言葉を言い換える方向で決まったらしい。

 この間、「精神分裂病」という呼称をやめて、「統合失調症」とするなどの言い換えが行われたが、
まだまだ患者の人権を無視した病名や、誤解を敢えて呼びそうな病名は、横行している。

 「痴呆」にかわる言葉として、何が使われることになるのかは、わからないが、
少なくとも、個人の尊厳をおとしめることなく、脳の一つの機能の低下である、
という客観的な理解を得やすい呼称にぜひとも改定していただきたいと思っている。

 たかが、呼称、ではなく、人間は言葉から、いろいろなことを連想し、
その言葉を使って判断をしていくので、不用意な言葉が、人を傷つけるだけでなく、
必要な治療が行われず、時には、そのせいで助かる命をみすみす失うということだって、起こりうる。

 住民のレジスタンスを、「テロリスト」とたくみに言い換えるだけで、
多くの罪のない人々が今も殺され続けているような世界の情勢の中で。
2004年04月22日 22時00分39秒
☆携帯メール
先月、ふと思いついて、新しい携帯を購入し、叔母の家に持っていった。
一人暮らしの叔母は、毎日、誰かと話たくてたまらないので、私が電話すると、つい、電話が切れず、何十分も話してしまう。
私も、そうそう電話に時間を費やしていられないので、よっぽど時間がある時以外は、電話を避けるようになり、結果、まる一週間、音信なし、なんていうことになってしまっていた。

ファックスという手も考えたのだが、ファックスは、いちいち電話の呼びだし音が鳴ってしまい、電話と思って出なければならない。それに、手書きで手紙を書くのもなかなか手間がかかる。
そして、苦肉の策が、携帯である。
なるべく、操作の簡単な、文字の大きめの携帯を買い、叔母の家に持っていった。

私から、日に何度か、メールを送る。
叔母にメールの読み方を教えた。

だいじょうぶ、うまくマスターできた。

ただし、問題は、返信。
なかなか、返信は打てない。
だいいち、文字が小さすぎる。

困ったあげく、一つだけ「元気です」という送信メールを作り、いつも、それを返信で送ってもらうことにした。
おかげで、今では、毎日、私が近況報告のメールを、何度か送り、そのたびに、叔母が、「元気です」というお決まりの返事を返してくる、という形で、定着した。

そんなもので、何かの足しになるのだろうか、と思いもしたが、行ってみると、叔母は、私から来たメールの文章を、全部、メモ用紙に書き写して何度も読んでいた。

89才で、携帯メール毎日、やってる人、いないよね、と笑いながら、こんな小さなツールが、人の一日を、助けることもあるんだ、と思っている。
2003年05月10日 23時06分23秒

一年・・。
叔母が一人暮らしを敢行してから、一年が過ぎた。
満八十九才になった叔母は、がんばっている。
私が行くたびに、初めに私が持っていった額の言葉を、何度も繰り返す。
「一人じゃないよ、っていつも、いつもこれ見ながら言ってるのよ」
胸のうちの思いは、つらいこともまだまだ多い。そもそも、何故、何十年も一緒に暮らした次女が、それっきり何もいってこないのか。叔母には、それがどうしても理解できない。私にも、わからない。
おかげで、ここ、一年は、長女が頻繁に叔母の家を訪れていろいろな世話をするようになり、こういう巡り合わせというものも、ある、と思っている。
私は、週に一度は訪ねようと思いつつ、結局、二週間に一回、あるいは、一ヶ月に一回くらいの割で叔母を訪ねた。
一年前、すべての家財道具が持ち去られて殺風景だった叔母の部屋は、ようやく、叔母の部屋らしいやさしさとくつろぎを取り戻している。
私も、ずいぶんいろんなものを担いで運びこみ、部屋ががらんどうなのをいいことに、61鍵のキーボードまで、持ち込んだ。
叔母の家を訪れる茶飲み友達と、一緒に、昔の童謡を弾いて、歌ったり、楽しく使ってくれている。
人間のしあわせとは、なんだろう。
次女の家で、「おばあちゃんは何もしなくていいのよ」と言われて、何もかもしてもらっていたころと、 何でもかんでも自分の力でやらなければならない一人暮らしと、どちらがしあわせか。

私は、叔母を見ていて人間にとって生きていくのに最も大切なのは、自分が、存在することが必要とされることなのではないか、という思いを強くしている。

自分は、不必要な人間だ、と思えば、生きる意味もなくなる。
老人にも子どもにも、もちろん中年にも、生きていくのに必要なのは、自分は、誰かに必要とされている、という実感なのではないかな。(真)
2003年02月26日 09時53分06秒

生きることの自由
「風の中」も、書かないまま、一ヶ月半も過ぎてしまった。
その間、叔母のところには、一週間に一度くらいの割合で通っていた。
何度も通ううちに、少しずつ、どうして叔母が、突然、次女の家をでてきて、一人暮らしを始めてしまったのかの事情もわかってきた。
 そして、今回、叔母が手に入れたのは、「生きることの自由」なのだ、と、結論した。
 長い間、一人暮らしをしてきた叔母は、二年前、「もう、心配でこれ以上、一人暮らしはさせておけない」という理由で、次女の家に引き取られた。
 世間から見れば、実の娘がなんでもやってくれて、なんてしあわせなんでしょう・・とみられるような状態だったとしても、叔母本人にとっては、今まであった当たり前の「自由」がすべてもぎとられて、「おばあちゃんは、何にもしなくていいから」と、言われるたびに、もう、自分は、何の役にも立たない、いっそ死んだ方が迷惑をかけないんだ、とまで思い込むようになってしまうような、暮らしのあり方だったといえる。
 結局、次女とも断絶することを覚悟で、叔母は独立して、二年ぶりに一人暮らしを決行したわけだが、私が行くたびに、叔母は、「ああ、こんなしあわせがくるなんてねえ、思ってもなかったわ・・」と涙ぐむのだった。
 最近では、私たちが、行くと、帰りに、厚焼き卵を作ってくれる。
 長年、調理員として働いてきた叔母の作る厚焼き卵は、砂糖がいっぱい、中はほんのりとやわらかくて外側はしっかり焼けていて、なんともおいしい。
 「あたしにも、こんなことができたのねえ」
と、私たちが行くたびに、叔母は卵焼きを持たせてくれる。
 自分が誰かの役にたつこと、誰かに喜んでもらえること、それが、きっと、生きていることの大きな喜びなのだ、と叔母を見ていて、つくづく思う。
 私とみちるも、いろいろなものを持って、叔母の家まででかけ、叔母の喜ぶ顔を見るたびに、よかったな、と思う。
 私たちが、叔母のところに通うようになったことが、呼び水となって、ながいこと、音沙汰のなかった叔母の長女が、毎週、顔を出してくれるようになった。それだけでなく、長女の息子たちや、孫たちまで、訪れてくれるようになった。
 よかったな、と思っている。
 今日は、みちると二人で、新しく叔母のために仕入れた子ども用のキーボードを持ってでかけた。
 孫のためにと、日本の唱歌を何百曲も歌詞を手書きで、ノートに書いていた叔母は、みちるのさしだしたおもちゃキーボードを、抱きしめてよろこんでくれた。
「ほしかったの、ほしかったのよ、こういうの・・」
そうして、指遣いを一生懸命、みちるからおそわって、さいた、さいた、チューリップの花が・・と弾いてみた。
「ああ、楽しい。楽しいわあ・・」

 そう。音楽は、いいね。
 生きる希望が湧いてくる。
 
 89才になってから、生きる自由をかちとる、ということも、あるんだなあ・・と思っている。
                  真。
 
2002年05月04日 02時41分46秒

生きてるってこと。
 今日は、両腕がもげるほどの荷物をかかえて、叔母のところに行った。
 インド綿のうす水色ののれんをかけて、こたつの下に桃色の敷物を敷いて、鉢植えも今日は二つ増やした。やっと、人がくつろげるような空間になってきた。
 ほっとした。
 今日は、一人で行ったので、ずいぶん長い時間、叔母とゆっくり話ができた。
 これから、何をして生きていこうか・・。という話で、毎日、日記をつけているという叔母に、私は、「小説を書きなよ」と、無謀にも勧めた。「そういえば、あなたのママは、自伝を書きたいっていってたわねえ」「うん、でも自伝はね、相手が生きてるうちは、その人に迷惑がかかっちゃうから、書けないって、言って、なのに、自分の方が先に、死んじゃってね」
 そうして、私は、少しずつ、叔母の通ってきた道を、聴いた。
 叔母は、しっかりした記憶力で、50年以上昔の話をしてくれて、私は、不徳ながら、今日初めて、叔母が、東京大空襲で、五才だった息子を亡くしたということを知った。
 空襲に遭い、娘二人は、自分が連れて逃げたのだが、息子は、義理の姉がおぶってくれて、けれども、逃げ惑ううち、その二人は水の中で、亡くなったということだった。
 おととい、なかにし礼氏の、講演会で、なかにし氏が、満州から命からがら逃げてきた話を聞いたばかりだった。
 直接、本人から語られる話は、どちらもあまりにも鮮明で、心に受けた傷の深さを知らされる。
 でも、しっかり前を向いて、今日までちゃんと生きてきたんだ。
 「『○○さんの思い出』という形で、一人一人の人についての思い出を書いてごらんよ」と、私は勧めた。人に話したり、書いたりすることで、今まで抱えていたいろんなことが、自分からすっと、分離していく、という経験を私は、よくしているので。
 私が、100円ショップで買っていったピンクの手鏡と、口紅で、「80年も化粧しなかったのに、今さら・・」と、とまどいながらも、うすく紅をひいた叔母の顔は、とても明るくて、やさしく美しかった。
「化粧するだけで、ボケが治ったという、医学的な証明があるんだから、朝起きて顔洗ったら、口紅をひくこと!」なんて、口からでまかせの嘘を並べて、でも、一人で暮らす叔母が、鏡に映る華やいだ表情の自分に勇気づけられるのだとしたら、それは、素敵なことだと思う。
 今日も、生きてるって、なんて素敵なことなんだろう・・・と私たちは、共感した。
2002年03月18日 02時52分00秒

プー時計
 今日は、13日ぶりに叔母の家に行ってきた。
先週行くつもりで、いろいろおみやげを用意していたのだけれど、みちるが風邪で寝込んでしまったので、行けなくなり、今日、ようやく二人で届けに行けたというわけ。
 ともかく必要最低限の物だけ持って、叔母は引っ越してきてしまったので、あの折り紙やら人形やら水彩画やら、ところせましと飾られていた叔母の部屋とは信じられないほど、一切の飾りのない、殺風景な部屋で、この一ヶ月半を暮らしていたのだから、なんとか心のなごむ部屋に変えなくては、というのが、今日の私とみちるのプロジェクトの趣旨。
 結果は、こんなに喜んでもらえるなんて・・・。と、みちるが本当に目を丸くしておどろいてしまうほどだった。
 みちるがえらんだ、タオル地のまくらのようなうさぎのぷわぷわしたぬいぐるみも、「かわいいねえ、かわいいねえ」と、何度も何度もほおずりして喜んでくれたし、毎日、届けられる健康重視、薄味の野菜中心のお弁当にはないメニューは何がいいかなって考えて、出がけに、たくさん作って持っていったお好み焼きも、「おいしいねえ、おいしいねえ」といって、食べてくれたし、くまのプーの掛け時計と、絵手紙ふうの額絵にいたっては、もう、眺めて、何度も何度も泣いてしまう叔母だった。
 時計を壁にかけようと思ったけれど、釘もなく、紐もなく、私は、コンビニに、ねじ釘でも売っていないかと走ったけれど、売っていなくて、ゼムピンと、荷造り紐を買ってきて、なんとかうまく壁にかけた。私もみちるもディズニーキャラクターは好きではないので、自分の家には絶対に飾らないけれど、たまには買ってみたかったくまのプーの掛け時計が、こんなに喜ばれたのは、予想外だった。
 私は、メッセージ入りの絵ぐらい自分で描いて贈ればいいようなものだけれど、先週、ともかく叔母が元気になれるようなものをと思って、急いで買い集めたので、どこかの若い女性の絵描きさんが描いた、ノートぐらいの大きさの額絵を、急場しのぎに持っていったのだけれど、電気コードのパッケージかなんかに入っていた針金で、なんとかその額を壁に飾ることに成功した。
 叔母は、なんどもなんども声に出して読んでは泣いていた。
「そうね、そうね、そうよね・・」
「そうだよ、こうやって、遠くからくる二人組だって、いるんだしさ」
なんて、みちるもだいぶ、励ますのが上手になっている。
その額絵はね、天使のように羽のついた女の子の絵柄で、メッセージがこんなふうに書いてある。
「ねえ ひとりじゃないよ しっかり瞳をあけてごらん ゆっくり周りをみてごらん 
 ほら あなたのそばには こんなに愛が あふれてる」

 そうだよ。よーく周りをみまわせば、世間は愛に満ちている!

  
 
 
2002年03月13日 00時52分03秒

ふくろうたち!
今朝の朝日新聞を見て、びっくりしてしまった。
自宅で「ふくろうギャラリー」を開いている私の叔父夫妻が、30年以上かかって世界中から集めたふくろうコレクション一万二千点を、豊島区に寄贈することになった、と書いてあった。「自分たちがいなくなったあと、分散していくことが忍びなく・・」うーん・・。たしかに・・人はやがて、消えてゆく。でも物は残される。でも、まだ、70代のうちに、それほどの覚悟をしてしまうなんて、心のうちの寂しすぎるだろう決意に、しばし呆然とする。
 でも、豊島区の小学校に寄贈されれば、ふくろうたちは、この先、ずっと子どもたちに何かを伝え続けるのだろうか。人は、いつまでも生きられるわけではないんだ、ということを、思い知らされる。でも、生きた証をいつまでも留めることはできるのかもしれないね。
2002年03月07日 08時46分19秒

リモコン。
 さすが、地元の小売店は、早い。
 今日、叔母から電話があって、もう、電気屋さんが、リモコン持ってきてくれたって。
 よかった。これで、暖房だろうと、冷房だろうと、バッチリ。
 三日前に、新潟に住んでいる姉に電話して、「おねえちゃんは、おかずを作って小分けして冷凍して、クール宅急便でおばちゃんに送って!」と、頼んでおいたら、それも今日、届いたといって、叔母は、大喜びだった。
 「お赤飯とか、ぜんまいとか、いろいろ入ってるの。軍手で作ったお人形さんや、ひなあられまで入ってるのよ。悪いわねえ・・」
と、電話の向こうの叔母は、涙ぐまんばかり。
「まかせてよ、こっちは、協力体制は、完璧だから。なんたって、七年の実績があるからね」

 そうなのだ。
 母を家で介護していたころ、文字通り、一日24時間、誰かが母のそばについていなければならなかったため。一緒に住んでいる私と父は、交替で眠るのだが、さすがにスタッフ二人では、一ヶ月もすると、限界になる。そこで、S.O.Sを送ると、新幹線に乗って、姉が駆けつけてくれる、そういう、暮らしを私たちは、7年半、やった。
 
 おかげで、困った時には、即座に助けあえる家族の関係ができたんだなあ・・。しみじみ・・。
2002年03月03日 01時19分52秒

遠くの親戚でも・・
 ☆離れて住んでいるから、何もできない、というのは、大間違いだった。
 今日は、いいことをした。
 昨日、叔母の家に行った際、エアコンのリモコンがなくなって暖房がつけられずにいたので、手動で強制作動させて帰ってきたのだけれど、早いうちにリモコンをなんとか調達しなくちゃと思いながら、高い位置にあるためエアコンの機種名も読み取れず、どうしようかと思っていた。
 案の定、うちのそばの電器店で聞いたら、「機種がわからないとリモコンは注文できませんねえ」とあっさり言われた。
 でも、なんとかしなくては・・。
 そうだ、と思って、インターネットタウンページで、叔母の町内の電器店を調べて電話した。そうしたら、明日にでも叔母の家へ行って、機種を調べてリモコンを取り寄せてくれることになった。
 そうだ。「遠くの親戚でも、近くの小売店」(を手配!)。
 離れていても、できることはあるんだね。よかった。
2002年03月01日 02時11分10秒

らいおんは風の中・2
・・と思っていたら、急に、また、介護が身近になってしまった。

 今年、89才になろうとする最愛の叔母が、なんと、いきなり「一人暮らし」を始めたのだ。
「みんなに世話になるばっかりで・・あたしね、とうとう『一人で暮らしたい』って、頼んだの・・」
そう。
 家族は、離れて暮らしているのがとても心配で、この年では、一人暮らしは無理、と判断して自分たちの家に引き取っていたのだけれど、でも、本人は、どうしても、「今までどおり一人で」暮らしたかったのね。
「介護保険のお世話になって、一人でやっていこうと思うの」

 叔母の89才の冒険を、私も応援しようと思う。
 はからずも、叔母の大決断により、私は、また「介護」にちょっと近い暮らしを始めることになり、叔母と一緒に「人間が人間らしく暮らしていくには」という、一番大事なことを、また、少しずつさぐっていきたいと思う。
 
2002年02月28日 02時36分58秒

☆らいおんは風の中・1。
 ☆「マイ・ディア・ママ-在宅介護 愛の日々-」(旬報社)を、世に送りだしてから、この春で、もう二年の月日が過ぎた。
 私は、長かった介護生活に一応のピリオドを打ったけれど、今、まさに介護生活真っ最中の人は、たくさんいるんだろう。
 今さらながら、何か役にたてないかな、と思って、ふと、こんなページを作ってみた。
 介護は、つらいし、きつい。
 でも、私の介護生活時代、もし、そういうつらさを分かち合える仲間がいたら、ずいぶん心も救われただろうに、って思う。
 ☆「マイ・ディア・ママ」については、私の連絡先を記さなかったので、読者の人と、あまり交信がもてなくて。
 でも、今からでも、何かできるかもしれない・・。   (M)
 
2002年02月21日 15時31分51秒

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