障害の受容

ある研修に参加して、目からウロコが落ちた。
【障害の受容の課程】というものを、看護学校で学んだ気がする。
『喪の作業』などと呼ばれているもので、一般的にこうやって人は
『心を寄せている何かを失った悲しみ』から立ち直っていく、というもの。
私はそれを聞いたとき、最終段階までたどりつけた人は、
もう受容できた人なのだと思っていた。
でも、その人が生きていく限り、そのプロセスは永遠に続いていくのだという。

たとえば、障害を持った女の子を産んだお母さん。
同じ時期に産まれた子と比較して、まだ首が座らない、歩けない、と嘆く。
その次は、お話ができない、と悲しむ。
小学校に入学する時期を迎えると、ランドセルを買ってあげられない、と思う。
年頃になると、彼氏なんて連れてきたりする心配もできない、とか。
結婚式をだしてあげられない、孫の顔を見られない、と乗り越えなくてはならない事柄は
次々に続いていく。
友人が亡くなり葬儀の席に参列したときに、娘さんが立派に喪主をつとめているのを見て、
「私が死んだときには誰が喪主をしてくれるのか」と嘆かれたお母様もいらっしゃる、と聞いた。

私は、もしかしてとんでもなく傲慢な看護師ではなかっただろうか。
前ページのお母さんにも、「もうとっくに受け入れたと思っていたのに」と、
一方的な考えを押しつけていたのではないだろうか。

本当の意味で、相手によりそうことの難しさを痛感した。

2003.02.02