5月2日

私がうつ病といわれた

T病院の心療内科を受診して「うつ病」と言われ 抗うつ剤を出された。
ショック!父との暮らしが あまりに辛くきつい。これ以上はダメ。
母の病院の費用も一切父は払わない。
私が黙ってすべて支払ってきた。
それでも不満で私にあたりちらす父。
夜親戚の人にきてもらって みんなで父と話す。父は店を続けるという。
母の世話より 店を閉めたくない。もう店しかないという。
私は母の世話をしたい。後どれだけ生きるかわからない母のそばでいてあげたい。
父の仕事を手伝う時間も気力もない。
今のままでは土日でも 父は店を手伝えと言い 母のところに私を出さないだろう。
私は仕事にいってるから 土日お母さんのそばにいてあげたい。
私だけでなく 子供達が学校から帰って外に遊びに行くのを嫌がっている。
嫌味を言う。子供にまであたる。
修羅場だったが 私が家をでて お父さんは一人で店を続けることになる。
父は泣いたり わめいたり 親戚の人が帰った後も大声でどなっていた。
夜中も姉と二人 ほとんど眠れぬまま朝を迎えた。
これからどうなっていくんだろう。不安になる。でも 後戻りするわけにはいかない。

引越しの準備をする。
まずはアパート探し。
姉が不動産屋をまわるが ゴールデンウィーク中で ほとんど休んでいる。
母は 昼夜逆転していて 夜ふらふらとベッドからおり 部屋からでようとする。
危険なので 姉が夜母のベッドに添い寝する。


5月3日

父に追い出され ビジネスホテルくらし。

父に「家をでるなら さっさと出て行け」と怒鳴られ 身の回りのものだけもって家をでる。
子供と姉と ビジネスホテルに移る。
新しい部屋が決まるまで ホテルで暮らそう。
本気だということが 父にわかってもらわなければ 同じことの繰り返し。
怒鳴られているよりは ホテル暮らしのほうが気持ちが楽。
でも いろんな体験をするものだ。
私と姉はホテルから 病院へ通う。
二人の子供は ホテルから学校へ通う。
姉は夜母と添い寝を続ける。
母は少しずつ落ち着いてきた。
寂しかったのかもしれない。
夜中にうろうろしなくなって 目はあけているけど よう子のそばでじっと寝ている。
ベッドが狭く 朝母が目に青あざをつくっていた。
たぶん姉が母をおしてベッドの柵で ぶつけたのだろう。
かわいそうで 次の日からベッドの柵にタオルをまいて寝るようにしたとのこと。
母のためにA老健施設を見学 姉といっしょに行く。
先日みた 大きな施設より 母にはなじみやすいかもしれない。


5月4日

マンション探し 引越しの荷造り。
父の騒ぎ立てる声を ききながら 荷造り。

マンション決まる。
母が車椅子で出入りできる造りの 大きなマンションが見つかった。
一階だ。これで母をつれて帰れる家ができた。
それが超うれしい!


5月8日

雨のなか 引越し。
父は店で米をふみ続けていた。
父もつらいのだろう。
どんなにつらくても 今の父さんとは一緒には暮らせない。
昼には無事引越し完了。
やっと終わった。疲れた。本当に疲れた。とにかくホッとした。
どうぞ これから安らかに暮らせますように ただ祈るのみ。


5月11日〜12日

S先生の許可を得て 母初めての外泊  さちの新居へ
母を囲んで子供もいて お祝いのお寿司を食べているところに 病院から電話。
「お父さんが お母さんをどこに連れて行ったんだ?とすごい剣幕でどなってきました。
お父さんにすぐ連絡してください。」とのこと。
父に電話すると「誘拐罪で訴える。」とパニックになっている。
母の心配をしているというより 私への嫌がらせのように騒ぎ立てる父。
母の世話もすべて 私に任すといっときながら ひどい父。
母を囲んでせっかくの食卓が 一瞬に暗くなり 子供もシュンとする。
最悪 心無い父。


5月12日

気を取り直して 父も寂しいのかもしれないと思い 父の所に母を連れて行く。
父に味噌汁をつくってあげる。
父は少し落ち着く。


5月18日

姉 東京に帰る。
夜母が徘徊しないか 心配で病院に相談して 夜は毎日家に連れて帰る。(退院する日まで)
母は マンションにきたら ほとんど食べずに寝ていた。
時折目は覚ましていたが 徘徊はせず。

昼間病院で母のそばで 入所の準備をした。
嬉しいような不安なような気持ちで一杯。
母の一つ一つの衣類に名前を書く。
果たして母は入所しても大丈夫なのか?
入所の日が近づいてくるが とても不安になってくる。
5月23日
T病院退院

今日は最高に長い一日であった。
T病院を退院するにあたり S先生はじめ リハビリのK先生 
ソーシャルワーカーのRさん Eさん
母を身近で世話してくれた看護婦さん ケアーさん
みんなと離れていく不安 寂しさはひとしおだった。
新しい施設に母がなじんでいけるか 私がなじんでいけるか不安で
それぞれの人に お礼の手紙(母は自分で名前が書けた)を渡すたびに涙がでた。

午前中にはK先生が最後のリハビリをしてくれて 
Rさんとも話ができた。
「今度いく施設のかたもしっかりしているから 信頼して任せたらいいよ」と言われ
る。

あれやこれやと準備しているうちに長引き 私は母を降ろして
病院の前に自分の車を止めていたことを すっかり忘れていた。
昼過ぎに母と散歩にでて 車をレッカー車で持っていかれたことに気がついた。
あわててタクシーで警察に。罰金代+レッカー車代で27000円とられた。
フーあせったよ。
施設の人が14:00に迎えにきてくれた。
K先生 Rさん Eさんが 見送ってくれる。
母がRさんを見つけた途端 車を降りようとしている姿を見て
また涙が出てきた。



    <ソーシャルワーカー Rさんへの手紙>

  母のことを親身になって考えていただき そして 私や姉の気持ちを全身で受け止めていただき
  本当にありがとうございました。
  母が無事入所できるようになったのも すべてRさんのおかげだと深く感謝しております。
  今まで母の苦労をずっと傍でみて 母と二人三脚で生きてきました。
  結婚してもずっとそうでした。父のことではずいぶん苦労し泣かされましたが
  苦しいときはいつも一緒で 母と二人で なんとか今まで耐えてきました。
  結婚後私が一番苦しかった時も 私を守ってくれたのは母でした。

  2月に母が倒れ いつ亡くなるかわからないという思いで 2週間ずっと母の言葉や様子を記録しました。
  次第に命の火が小さくなっていく気がしてあきらめかけた日々でした。
  父にずいぶん無理を言われて生きることに苦しんでいた母でしたから このまま死んだほうが
  楽になるかもしれないとも 何度思ったことでしょう。
  それでも2週間後に 命はもう大丈夫だろうと聞かされ 久しぶりに心が軽くなったことをついこの間の
  ように思い出します。
  母の病気のおかげで 母に甘えていた私 父 子供達も少しづつしっかりしてきたようなきがします。
  どんな状態になっても 母は母です。
  母の苦労を一番傍でみてきた私には これからの母の人生は幸せなものであって欲しいと切望しています。
       痰をとるのをもがき苦しむのを見ているのが辛かった日々。
       熱が下がらず苦しそうな表情で 全く手足を動かさなかった日々。
       動く両手を縛られた日々。
       ミルクをほとんどはいてしまう日々。
       部屋を替わり落ち込んでしまった日々。
       父の言葉で疲れ果てた日々。
  それでも ここまで回復できたのは T病院の先生方をはじめ 皆様のおかげだと 深く感謝しております。
  本当は 皆さんのおいでるこの病院をでていくのは とても寂しく不安です。
  新しい環境にうまくなじめるか とても心配です。でも 母の第2の人生のために 
  挑戦してみようと思っています。今度ともどうぞ宜しくお願いいたします。


退院後そのままA老健施設に入所

A老健施設に到着するが 誰もでむかえてくれず 少し寂しい入所だった。
施設のHさんと話す。
  ・河野さんは 在宅をめざしているから(私はそんなこと今は考えてないのに)
   退所しようと思えばいつでも退所してくれて結構です。
  ・歩くためのリハビリは そんなに期待してもらっても こまります。
  ・ここは 歩けない人が歩けるようになるための施設ではありません。
   生活をする場所です。
  ・何があっても すぐT病院に運べるとは限りません。
などといわれ 思わず泣き出してしまう。
始めてきて心細い気持ちの中 なんとかなれていこうと思っている私たちに
「いつ退所してもらってもいいですよ。」とは 一体どういうことなのか・・・不安がよぎる。
母も緊張したのか夕方5時前から寝はじめて 晩ごはんも食べなかった。
母が寝たので私も帰った。
帰るときでも だれに母を頼んだらいいのかわからなかった。
長〜い なが〜い一日だった。
後ろ髪をひかれながら私も帰った。
母はどうしているのか?ちゃんと眠れているのか。


5月24日

私は歯が痛くてがまんできず 歯医者に行ってから A老健施設へ。
母は昨夜はよく寝たらしいが朝6時ごろ起きて トイレにいこうとしたのか 
ベッドからおちて おおきなたんこぶを作ってた。
それからまた食事前に 自分から歩こうとして頭からこけて 再度たんこぶを作っていた。
食事はゆっくりだが 少しづつつついてよく食べる。びっくりした。 

A施設のリハビリの先生より
  母は高次機能障害で痴呆とは少し違う。
  いいたいことはいっぱいあるけど それがうまくつながらない。
  したいことも。
  方向がわからない。月日がわからない。名前がわからない
  とパニックになっている状態。
  混乱している。生活環境がかわるとますますパニックになる。
  コンピュータのこわれたようなもの。
  母は壁に向かって「テレビつけて」といったり
  車椅子から 急に立とうとする。
  急に歩こうとする。
  「あの人みたことがある」と急に妙な名前を言い出す。


5月26日

母を外泊させて 父の所へ連れて行く。
店の入り口のピンポンがなると「はい」と大きな声で
返事したり 「誰かきたで?」と聞くお母さん。
さすがだね。
トイレの場所も覚えていて 自分で這っていく。

姉より…痴呆症の本の中に・話の腰を折らないこと。
     間違いを訂正しないこと。
     病人の世界を黙ってそのまま受け止める」というのが目に止まりました。
     お母さんの心に近づきたくて ずっと福祉・痴呆症の本を読んでいます。  


5月27日

N先生(精神科医)に診察に行く。母も連れて行く。
手術後6ヶ月までは回復する可能性があり それ以降は横ばい状態。
昔のことをいいだしたら 同じように昔の話をいっぱいしてあげたらいい。
昔好きだった場所にいったり 好きだった食べ物を食べさせてあげる。
新しい状況をうけいれるのに 時間がかかる。
時間はかわるものだから 余計につかみにくい。


5月28日

入所当日に いつでも退所してくれていいと言われたが どういうことなのか?
私は お母さんをたらい回しにしたくなくて 施設になじんでいって欲しいと思っているのに。
最初に言われた この言葉がずっと胸につかえている。
この施設は病院でいるときより 刺激がぐっと少ない。
このままここにいて いいんだろうか
お母さんの表情も暗い。
N先生は6ヶ月間は回復の見込みがあると言われているが
どうしよう。このまま6ヶ月までここにいて いいんだろうか?
昔の話ができるのは 私くらいなのに。


5月29日

音楽療法の時間
こんにちは (オウム返しの歌)
ラバウル小唄   
タンバリンやカスタネットをたたきながら 母は手をたたいていた。
ドレミの歌
幸せならてをたたこう
八十八夜の歌  歌を歌っている間 くまのぬいぐるみを隣の人にまわす。
夕焼け小焼け めだかの学校 シャボン玉  前に出てマイクで歌わせてあげる。

お母さんはタンバリンを少したたいたが 歌には余り興味を示さず。
それより 自分の服のボタンをいれたり はずしたりして一人遊ぶ。


5月30日

婦長より
昨夜は夜21:00〜1:00までぐっすり寝て それからずっと車椅子に乗っている。
この施設は病院と家との中間地点だから 家にどんどん連れ出してくれていい。
ケアプランは2週間後くらいにできる。

施設では母のことを「意欲がない」と言われる。
じゃあ 意欲を引き出すどんなことをしてくれてるんだと言いたい。
ほとんど 声かけもなく 母だけでなく他の人もボーっとしてる。

          


          




      
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