アーケードゲームの類に、数年前一世を風靡した「伊勢エビキャッチャー」というのがあった。一時は全国に広がり、エビだけでなく、アワビやら毛ガニまでが商品に登場したとか。しかし、今は昔。わずかに残るゲーム機を、東京・新小岩の寂れたゲーセンで見つけてしまった私は、何としてでも、伊勢エビを釣り上げてやろう!と突然思ったのだった。
01年4月中旬



 この落ち着かない精神状態はいったい何だ?
 水槽の中の生きた伊勢エビを、ちゃちな機械のツメでつかんでは落とし、落としてはつかむ。肌があわ立っているのにドキドキしている。

 「伊勢エビキャッチャー」と呼ばれるこのゲーム。
 ボタンでクレーンを操作すると、黄色い蛍光色の3本ツメがエビの真上に止まり、下りていく。

 つかんだ!

 獲物はしかし、その直後、体を反らせて水中に落ちる。見事なエビ反り。何だかホッとしたような、残念なような。

 よく見ると、ほとんどのエビは触角や足を数本失っている。「動物虐待」という言葉が頭をよぎる。でも、正体不明の衝動に突き動かされ、やめられない。ああ、気がつけばもう、5000円も使ってるじゃないか。

 このクレーンゲームは、一昨年秋から関西で流行した。一時は1台で1日20万円を稼ぎ出す店も出る人気で、全国に約100台が普及した。しかし昨年2月、動物愛護団体が「食べられるまでもてあそび、不必要な苦痛を与える」などと抗議。ゲーム機の販売・設置業者も「釣り堀と同じで食材の供給だ」と反論した経緯がある。

 ブームはあっさり過ぎ去ったが、先週通りかかった東京・新小岩のゲームセンターで、このゲーム機に遭遇したのだった。
 「まだいたんだ」。
 水槽の中で12匹の伊勢エビが長い触角を揺らしていた。ゲーセンの片隅で生きながらえているエビたちは、もはや生き物でも食べ物でもない悲しさを漂わせているようで、突拍子もない考えにとらわれた。

 「私が食べてあげる。ちゃんと『食べ物』に戻してあげる」

 それでもゲーム機のクレーンがエビを追い回し始めると、迷いが生じた。「キャッチアンドリリース」という釣りの思想を思い出した。釣っても殺さず、川に放すべきだという考え方だ。私はずっと「釣り針で口をボロボロにさせるくらいなら、食ってやるのが礼儀だ」と思ってきた。

 でも。釣られて食べられることと、口をボロボロにしながら死期を待つこと、本当はどっちが幸せなんだろう? 伊勢エビが丸焼きにされることと、狭い水槽の中で蛍光色のクレーンにいじり回されることは?

 何だか、急に悲しくなった。これが最後、と決めてゲーム機に向かう。狙ったエビは一跳ねであっさりクレーンを逃れ、意外な行動に出た。クレーンに体当たりしてきたのだ。

 「ひええ!」。

 水槽に顔を近づけていた私は、突然のエビの接近に思わず跳びのいた。
 もういやだ。ざらついた違和感に襲われ、ゲーセンを逃げ出した。




 ゲームセンターを出て、考えた。この違和感はいったい何だ? 動物虐待に対する自己嫌悪だろうか。

 「生き物を景品にするな」という批判がある。確かに「雑誌の創刊記念に犬100匹をプレゼント」というのはいやだ。飼う前には、生じる責任についても自覚するべきで、景品というのはいただけない。

 でも、伊勢エビは違う。これは食材である。

 動物愛護団体のいう「食材に与える不必要な苦痛」に抵抗があるかどうかは、食材によって違う。牛やブタが長く苦しむのは感覚的にイヤだ。では、エビやタコの踊り食いはどうか。

 私は口の中でエビやタコに動かれると、どうも「食べ物」として純粋に味わえない。
 でも残酷とは思わない。居酒屋の刺し身の皿にピクピク動く魚の頭を見ても「ああ新鮮」と感動するだけだ。

 だから、伊勢エビキャッチャーに感じた違和感は、動物虐待とは関係ないと思う。
 理由はきっと、ほかにある。
 もう一度、あのゲーセンに戻ろう。


 

 伊勢エビキャッチャーの前に再び立った。そして考えた。
 この違和感は、食べ物を「狩猟」するという動物本能への戸惑いなのではないか。

 伊勢エビの顔を見る。大きな目玉。目が合うと、ちょっと怖い。
 「この国の肉や魚には顔がない」。大学時代、アジアを長く旅行して帰国した時、しみじみと思った。スーパーに並ぶのは、魚の切り身とせいぜい500グラムの肉塊。
 ブタの頭も、逆さづりのニワトリもいない。

 ちょうどそのころ、東京の小学校教師が解体前のブタを1頭丸ごと教室に持ち込み、生徒の前で解体し、食べるという授業を行った。「いのちの授業」と呼ばれ、映画に記録された。教師を目指していた私は、自分も「いのち」を教えられるようになりたいと、定期的に上京し、授業を見学したものだ。
 最近では、家庭科の調理実習で切り身でなく丸ごとの魚を使う教師の話も聞いた。

 しかし、教えるどころか、私自身が顔のない魚や肉にすっかり慣らされてしまっている。
 生き物を捕り、食うために死に至らせた体験さえない。ニワトリをつぶしたこともない。旅先の外国で、ヤギやブタの解体に遭遇し、血なまぐさいにおいの中で「食う」ことの意味を体感したつもりでいたけど、実は自分が手を下したことなんてなかった。

 「生き物」を「食べ物」に変える経験をしないまま、パック詰めの肉や魚ばかり食べているうち、「生き物を捕って食べる」という原初的な能力さえ失ってしまったのだ。

 しかし、ゲームに感じた違和感はこれだけでは説明がつかない。私はエビを殺したのではなく、機械のツメでつかんだだけだ。肌があわ立った理由はもっと他にあるはずだ。




 またも伊勢エビキャッチャーの前で考えた。
 幼いころ、するめでアメリカザリガニを釣ったことがある。伊勢エビなんて、ザリガニがちょっとデカくなっただけだ。触れることに抵抗はない。

 ファッションジャーナリストのピーコさんは、あるコラムでこのゲーム機を批判した。「生き物をツメのような道具でつかむ遊びは、人間として傲慢(ごうまん)な気がしてならない」「(キンギョすくいは)機械でなく、人間の手で選ぶということから許容してもいいと思う」

 インターネットで検索した。
 動物愛護団体の意見に「釣り堀と同じじゃないか!」と反発する人の多くが、一方で「機械で生き物をいたぶるようでイヤな感じ」とやはり違和感を表明していた。

 多分、「機械で」というのが、キーワードなのだろう。
 生身の肉体を金属でいじられる恐怖。金属と生身の肉体との接触には、いわく言い難い違和感がある。カブトムシや切り花の自動販売機に「機械から出てくるのが気持ち悪い」というのも同じ感覚かもしれない。

 ふと、塚本晋也監督の映画「鉄男」(1989年)を思い出した。白黒の粗い画面の中で、男の肉体が鉄に変わっていく。男は鉄の肉体で、女を抱く。肉体と鉄との交わり。私は恐怖で悲鳴を上げながら、一方で興奮していたのだった。

 素手で犬やネコの背をなでれば心が温まり、血圧まで下がるのに、機械のツメがネコの背をなでるのを見ると「痛そう」と思う。こんなに機械に囲まれた暮らしをしているというのに、機械を触ることに慣れているのに、機械から触られることにたまらない違和感がある。

 肌があわ立つような違和感は、伊勢エビが機械のツメで何度もいたぶられることから来たのではないか。食材に対する感覚がうぶで、頭ではエビを「食べ物」と理解しても、心で「生き物」と感じてしまう私だから、機械にいたぶられるのを見ると、自分の肌まであわ立ってしまう。

 人間の根元的な皮膚感覚とは、なんて不思議なんだろう。

 ゲーセンを出た私は、その足で日本橋の百貨店・三越に向かった。
 「食べる」という動物的本能に、落とし前をつけたかった。それが罪悪感か自己満足か、自分でも分からない。でも「食べる」ことに理にかなった意味を探そうとする方がばかげている。

 いけすの伊勢エビは1匹約7000円なり。その値段に私は土壇場でひるみ、結局、隣にあったパック詰めの伊勢エビを選んでしまったのだった。

 刺し身3000円。
 みそ汁用の殻のぶつ切り1500円。

 だけど、刺身やぶつ切りを選んだのは、値段のせいだけではなかったんだと思う。機械でエビをいじり回した記憶も生々しいまま、台所で生きた伊勢エビと格闘する気力はもううせていた。

 不意に気付いた。ああ、そういえば私にも「捕って殺して食べた」経験が一つだけあった。潮干狩り。
 ははは。お話にもならない。なさけなさに涙が出そうだ。

 その夜。伊勢エビの刺し身とみそ汁を食べた。
 伊勢エビはようやく、私の体の中で食材となった。