朝10時、JR高崎線吹上駅に着いた。
寂れた駅である。
「駅から徒歩10〜15分」と書いた大学のパンフレットを頼りに歩く。広い直線道路の両側は住宅と田畑と資材置き場。上越新幹線の高架がようやく目前に迫ったころ、向こうに大学校舎がこつ然と姿を現した。
ああ。これが「職人大学構想」の名のもとに、技術立国ニッポンの再生をかけて生まれた大学か。駅から正門まで徒歩約20分。やはり1時間に2、3本しかないバスを待つべきだったか、とも思った。
敷地面積約12ヘクタールの広々としたキャンパス。正門に入って左手には管理棟と図書情報センター。右手には大きな実習室を備えた学科棟が二つ隣り合わせに建っている。学科は、製造技能工芸と建設技能工芸の二つ。既存の工科大と違い、授業の半分を実技が占める。「技」と「知恵」の両方を併せ持つテクノロジストを創出しよう、というのが大学の理念だ。
理想は高い。でも正直言って、大学の第一印象は少し心もとない気がした。真新しい大学校舎は、やっぱり田舎の風景から浮いて見える。1学年358人しか入学していないから、学内に人けは少ない。敷地内のほとんどは無舗装だ。建物と建物を結ぶ幅3メートルぐらいの通路分だけしか、アスファルト舗装されていない。とがった小石が転がる地面に重機のタイヤ跡が何本も残る。工事現場みたいだ。
「舗装はしないらしいよ。お金が足りなかったと聞いたけど」とある助教授。もしかすると、KSD事件のあおりで国からの助成が見送られたことが、遠因なのだろうか。それでも「学生と一緒に緑化計画でもやろうかな」と笑う助教授を見ていたら、アスファルト舗装に厚化粧された大学なんかより、ずっとこっちの方が生き生きしていると思えてくる。
「コンビニがないんだよ、全然!」。隣で、学生らしき男の子が携帯電話で話している。一番近いコンビニエンスストアまで、徒歩10分余。今どきの若者にはつらいだろう。1カ月3万円の学生寮に暮らす寮生は「ま、自転車買って頑張ります」と結構元気だ。構内に建つ学生寮の前には、ピカピカの真新しい自転車がずらりと並んでいた。
この大学は、ネーミングがいい。
「ものつくり」という名は、梅原猛総長が付けた。
当初「国際技能工芸大学」となるはずだったのを「何のことか分からない」と覆したという。日本で初めての大和(やまと)言葉の大学名は、その後、KSD事件で一躍有名になった。もしも「国際技能工芸大学」のままだったら、ここまで人の記憶には残らなかっただろう。それだけ名前に魅力があるのだ。
英文名は「Institute of Technologists」。「経営の神様」の異名を持つ米国の経済学者、ピーター・ドラッカー氏が命名した。
入学式の日。哲学者の梅原総長は時に両手を振り上げ、「日本のものつくりは今、滅びようとしてます。それを取り戻すのが、この大学の使命であります」と熱っぽく講演した。
戦後の日本経済の歴史は、モノ作りの歴史でもあった。ソニーやトヨタ自動車、松下電器に代表される高度なテクノロジーの進歩と、それを支えた町工場の緻密(ちみつ)な職人芸が、この国を経済大国に押し上げたのだ。しかし今、肝心のモノ作りが危機にひんしている。
「バブル経済の罪だ」「このままでは日本はダメになる」と誰もが言う。だからこそ、町工場の職人が、大企業の研究者が、経団連の幹部が、みな「ものつくり大学」に切実な期待を寄せている。
「ゴオォ」という地響きに驚いて顔を上げると、大学のそばにある高架を、新幹線が走り去るのが見えた。そう言えば1964年の創業以来、無事故を誇る新幹線もまた、日本のモノ作りの歴史の金字塔なのだった。
学科棟を歩く。実習設備がとても充実している。建設技能工芸学科棟の1階には三つの大きな実習室があり、最大10トンのクレーンや巨大な鉄枠、機械などがゴロゴロしている。木造建築を学ぶ実習室は床が土間になっている。建設現場を丸ごと屋内に持ち込んだ、というわけだ。
製造技能工芸学科棟の実習室には、巨大な機械やフォークリフトが鎮座していた。
学生たちは授業で、グループごとにカヌーを造り、夏には利根大堰(ぜき)で競艇大会を開くという。大学構内には、そのための人工池まで備わっている。そういえば、私も幼いころ、プラモデルや工作が大好きだったっけ。ふと遠い記憶がよみがえる。
大学の教授陣もまたユニークだ。日立や東芝の研究所で最先端の開発研究に取り組んできた技術者から、文化財の修復・復元が専門の宮大工までいる。教授陣の約6割がモノ作りの各分野からの出身者で占められる。
これは実験だ。下積みや修業がつきものの「モノ作り」を、大学の教育カリキュラムに乗せることが果たして可能か。ものつくり大は、その存在自体が、日本の将来をかけた前例のない壮大な実験なんだ。
入学式の日、あるテレビ局の記者が「茶パツが多いな」とつぶやいていた。が、新入生から私が受けた印象はむしろ「まじめ」だ。入学式で雑談する学生はいなかった。
携帯電話の着メロも鳴らなかった。
うんこ座りする姿も全然見ない。
KSD事件の騒動のさなかに、近所にコンビニさえないこの大学を選んだ学生たちだ。遊びたいだけの輩(やから)は、こんな大学にはまず来ないだろう。
新入生の一人、兵庫県姫路市の松原賢政さん(60)は零細企業の現役社長だ。従業員12人で窒素発生装置などを製造している。「零細企業でもいいモノが作れることを証明したい」という。「10年不況」の中、大手や中小企業に翻ろうされ、零細企業の悔しさを骨の髄まで味わった。生まれる前に父を亡くし、家庭の事情で大学進学を断念した松原さんは「8年かけても卒業し、事業にも生かしたい」と熱っぽく語る。
大学寮のラウンジでは、こんな新入生一家の会話を耳にした。
父 「茶パツが多いな。大丈夫かい、この大学」
息子 「何ゆうてんねん。この大学には、社長かておるねんで。昨日知り合ってん。名刺ももろてん。60歳やぞ。お父さんも入試受けたらよかったのに」
KSD事件のあおりか、社会人・留学生対象の特別入試枠(120人)には、48人しか集まらなかった。それでも社会人学生の存在は、間違いなくこの大学を元気づけている。
若い人の面構えもいい。「高校やめて大検(大学入学資格検定)取ってここを受けた。前から機械をいじるのが好きだったから。具体的にやりたいことは決まってないけど、この大学って他のと違うじゃないですか」と言うのは、製造技能工芸科に入った19歳の女性だ。
入学式にねじり鉢巻きの職人姿で臨んだ22歳の元大工は「言われたことをやるだけの職人じゃダメ。ちゃんと木造建築を勉強したい」と言った。KSD事件は「いいんじゃない? 東大より有名になったし」と全く意に介さなかった。
大学の隠れた名所に「ものつくりの道」というのがある。
二つの学科棟に挟まれた中庭で、大学が名付けた。案の定、ただの無舗装空間で、学生の間でも知名度ゼロだが、この名前を付けた大学側の思い入れにはふと胸が熱くなる。
授業風景をのぞいた。「ものつくりの道」で、学生たちが三々五々、大学校舎をスケッチしている。「このくらい描けないとモノは作れないよ」。そう言う教授自身もまた、学生と一緒に地べたに座り込み、熱心に鉛筆を走らせていた。
ふと思う。「ものつくりの道」の先に、どんな日本の将来が見えるのだろう。「もしかしたら、意外と明るいのかもしれない」。そんな気がして見上げると、道の向こうにぽっかりと春の青空が広がっていた。

(
番外編)
入学式で、梅原猛総長はこんな風に講演した。
「皆さんが逆風のさなかに、ものつくり大学に入学した勇気に感謝したい。この大学はKSD事件とは一切関係はない。理事の1人が大学というものを勘違いしただけで、大学の「応援団」が犯した事件に過ぎない。
今、ものつくりには日本の命運がかかっている。日本は科学技術立国で、発展の背景にはものつくりの人たちの力があった。ところが今、若者は職人を嫌い、ぬれ手であわの仕事にあこがれる。技能も衰えている。
日本のものつくりが、今まさに滅びようとしている。それを取り戻すのがこの大学の使命だ。
この大学は知行合一、つまり知と技を併せ持つ人材育成を目指す。授業も半分が座学、半分が実技だ。私もまた「ものつくりの道徳とは何か」をテーマに講義したいと思う。
大学は今、とても貧しい。先生も事務職員も少なく、最低の体裁しか整っていない。
それでも高い理想を実現しようとしている。この大学から、匠(たくみ)な人が出てもいい。起業する人が出てもいい。高い理想を心に持ってほしい。
大学のある行田市は古代、ハスの自生地だった。ハスは泥の中に茎を伸ばし、清廉潔白な花を咲かせる。ものつくり大学もまた、泥の中から茎を出したと言わざるをえないが、泥の中から茎を伸ばし、見事な花を咲かせるのが我々の使命だ。
皆さんも、いつかハスの花を咲かせる人間になってほしい。