東京・上野公園の一角にある東京国立博物館。23日からの特別展スタートに先立ち、22日に美術関係者ら約1500人を招いてのレセプションが開かれた。
「日本美術応援団」の団長の山下氏は明治学院大教授(美術史)で、雪舟研究家としては著名な人物。団員1号は「老人力」と「トマソン」の作家、赤瀬川原平氏。団員2号はイラストレーターの南伸坊氏というメンバーだ。96年、雑誌の企画をきっかけに「日本美術を応援しよう」と結成された。
「日本美術応援団」のモットーは「日本美術をゲージュツ扱いしない」ことである。
「ゲージュツ」と思うから、距離が遠くなる。あえて「歴史的に見ない」ことで、もっと自由に日本美術を楽しめるのではないか、というわけだ。
さて3氏はまず、レセプションに向かう黒塗りの車の群れを睥睨し、「ここは高級国産車が多いねえ」「何か、自民党支持率90%って雰囲気ですね」「京都の『平等院展』はベンツだらけだったね。全然『平等』じゃなかったよな」。
山下団長持参の広角24_ズーム付きカメラで、あちこち撮るわ、撮るわ……。3氏の姿をながめるうちに、緊張気味の記者も肩の力が抜けてくる。
「日本美術」の展覧会場はさすがに構えも大仰だ。おまけに「雪舟」といえば一画家の域を超え、すでに日本の偉人だ。雪舟作品の前で、歯を見せて笑ってもいいのだろうか、とつい固くなろうというものだ。
さて、いよいよ展覧会である。
最初の絵は何か。どんな展示構成なのか。いや応もなく興奮は高まる。展覧会はなまもの。「ライブ」である――というのが、応援団のモットーだ。コンサートの1曲目の選曲が客席のノリを決めるように、やはり最初の絵のインパクトは大きい。
「これを最初に持ってきたかあ!」。
一同、どよめいた。1枚目は「雪舟七十一歳像」だ。雪舟自画像の精密な写しで、実際、雪舟はこんな顔だったらしい。
赤瀬川団員は「長嶋茂雄そっくりでしょ」と自説を披露した。山下団長が解説する。「雪舟がかぶっている烏紗(うさ)帽は中国の高位の禅僧がかぶるもので、雪舟は本来はかぶれないものでした。が、雪舟は中国から帰国後、好んでかぶった。フランス帰りの画家がベレー帽をかぶりたがるようなもんですね」
署名の部分に「天童第一座」の文字が読める。
雪舟は48歳で遣明使に交じって中国大陸に渡った。この時、高名な天童寺から「第一座」の称号をもらったのが雪舟の自慢らしい。第一座とは、その寺で座禅を組む時に一番上座にいたという意味だ。彼の作品の多くにはこの称号が誇らしげに記されている。
「もしかして、自己顕示欲の強いタイプだったんですか」
記者の質問に、山下団長は「無邪気に自己PRするタイプだったんでしょうねえ」。何だか、500年前の「画聖」も急に人間臭く思えてくる。
雪舟は室町中期の1420年、備中(岡山県)に生まれた。40代後半に中国で絵を学び、それまでの日本の水墨画にはなかった力強い筆致と大きく堅固な構成を特徴とする新しい画風を確立した――というのが世間一般の評。
名前を知らぬ日本人はいないが、一方で「屏風(びょうぶ)や掛け軸の水墨画を極めたエライ人でしょ」程度の認識の人が多いかもしれない。実は私もそうだった。
さて、いよいよ雪舟の絵である。
「慧可断臂図(えかだんぴず)」。修行中の達磨(だるま)と、達磨に弟子入りを望み、覚悟を示すために自らの手首を切り落とした慧可を描いた絵だ。「おお、いきなりこれですかあ!」。赤瀬川団員は興奮気味だ。
1987年の展覧会で初めて見た時は、「掛け軸の元祖」「教科書に出る人」にすぎなかった雪舟のイメージが吹き飛んだそうだ。ゴツゴツした岩肌と、柔らかな白布をまとった達磨の姿。手首の切り口ににじむ血。2人のえも言えぬ表情。実に人間臭い絵なのだ。
赤瀬川団員は「最初の出会いの感動にはかなわないなあ」といいつつも、「初恋の人」との15年ぶりの再会を堪能している。
今回の特別展の目玉の一つとも言える有名な絵だが、よく見ると、国宝指定ではない。
いったい、なぜ?
山下団長が説明してくれた。実はその昔、この絵をめぐって真贋(しんがん)論争さえあったという。「昔のエライ美術史家はこういう絵が嫌いだったのかも。下品だと映ったのでしょう。雪舟はもっと高尚なはず、とね。国宝とか、重要文化財とか、最高傑作とか、絵の肩書にとらわれずに見た方がいいですよ」
雪舟に絵を教えた画家、周文のものとされる水墨画もあった。説明に「伝周文筆」
とある。1文字目の「伝」は、「周文の筆と伝えられる」の意味だ。
南団員は「昔、教科書で『伝周文筆』というのを見て、画家名が『伝周文』だと勘違いしてたよ。『画家には伝さんがバカに多いなあ』ってねえ」。
山下団長が説明する。「雪舟が若かった時代、いわゆる朝廷お抱えの正統派画家の絵がこんな感じです。ま、今で言う東山魁夷さんでしょうかね」
絶妙な講釈である。あまりのわかりやすさに、周囲の客たちもうなづいている。
ただし、この周文については、確実に彼の手のものと説の定まった作品は一つも残ってないという。「その当時、絵に署名を入れる習慣がなかった。実は、絵にやたら署名を入れ始めたのは、日本では雪舟が最初です」
いったい、雪舟ってどんな性格だったのだろう。
お次は「破墨山水図(はぼくさんすいず)」。雪舟が弟子の宗淵(そうえん)に与えた絵だ。縦長の絵だが、上部3分の2は文字で埋まっている。「これは弟子への卒業証書であり、かつ推薦状でもあります。『おれのところで一生懸命勉強した見どころのあるヤツだ』などと雪舟が書いてます。が、弟子に触れたのは10行のうち最初の3行だけ」と山下団長はいう。
雪舟は弟子をほめた後、「私は中国へ渡ったが優れた画家は、ほとんどいなかった」と書いている。「中国に行った」は彼の強い自負なのだ。
「ほら、5行目の『入』という文字の墨だけが濃い。この字を書く前に墨をついだのです。『おれは中国に、入、ったぞ』と気合が入ってるのが分かります」
教科書でおなじみの「天橋立図(あまのはしだてず)」もあった。畳1枚分の大きい絵だ。山下団長は、海を描いた空間に落ちた朱色の染みを指摘する。朱が乾く前に紙を畳んだため、折り目と左右対称に朱の染みができてしまったらしい。
赤瀬川団員が早速、オペラグラスを使って別の「染み」を発見する。「下書きとはいえ、国宝なんですけどねえ」と山下団長。「国宝でも、絵が乾く前に紙を折っちまうわけね」と、赤瀬川、南の両団員は大笑いだ。
山下団長は著書でこの絵に触れ、「1000分の1ぐらいに縮小された教科書の絵から、この名画に触れることはほとんど不可能だ」と述べている。「雪舟、天橋立図、室町時代、東山文化、日本的水墨画」という言葉の連なりをただ記憶するよう強いられる受験生を気の毒がり、「お仕着せの『日本の伝統』に触れるから、日本美術を嫌いになってしまう」と憂うのだ。
なまで雪舟を見るのは初めてという南団員が、改めて「うーん、雪舟はなまに限るね」と感じ入る。
確かに、なまで見るのと画集とでは全然違う。3氏の話を聞いていると、雪舟の絵が生き生きと見えてくるから不思議だ。
山下団長は「伝雪舟筆」や模本と説明された作品を順々に論評していく。
「明らかに模本」
「これは際どい。本物に極めて近い」
その判断基準を知りたくて、尋ねた。
「なぜ模本と分かるのですか」。
山下団長はいう。
「だってうますぎるでしょ」
「は?」
「この模本は上手だけど丁寧で整い過ぎている。雪舟はねえ、もっと勢いがある。『乱暴力』があるんですよ」
乱暴力――。「日本美術応援団」が生んだ名言の一つだ。
線に勢いがある。割れた筆でぐいぐい押す。緻密(ちみつ)過ぎない。計算し尽くされてない。そんな力のことを指す。「乱暴力」は、なまで見るとよく分かるのだ。
それにしても、「日本美術応援団」の一行は目立つ。それぞれに著名な3人である。「あら、あの人、テレビに出てた雪舟研究家よ」てな感じで、おばさんの群れがぞろぞろと集まってくる。その真ん中で、応援団メンバーは言うのだ。
「雪舟の絵って変だよねえ」
「こりゃ模本だ。うますぎる」
「雪舟って曲線が苦手だよなあ」。
強烈である。
「あの……、いったい彼らはどういう人なのですか?」とこっそり私に聞いてきた女性客もいたほどだ。
雪舟には失礼かもしれないが、彼の絵は確かに変なところがある。遠近法に矛盾する岩や島があったり、妙にボテッとした墨のベタ塗りがあったりする。それがやけに気になる。だけど、妙におもしろい。
山下団長はこれを「逸脱」と呼ぶ。「逸脱のおもしろさは、何から逸脱したのかが分かって初めて面白い。だから同時代の他の画家や先達の絵を見るべきなんです。あとは『変だ』とまっすぐ受け止めることです」
気がつけば、最初の緊張はどこへやら。3氏と一緒になって私も「変だ」を連発しながら、「おもしろい」と歯を見せて笑い、「不思議だなあ」とため息をついた。見始めて2時間。ちっとも飽きない。いつの間にか、雪舟が好きになっていた。