この夏一番の人気者といえば、東京・多摩川で消え、神奈川・鶴見川で再び現れたと思われるアゴヒゲアザラシの「タマちゃん」だろう。見物人は1日延べ約1000人。今、人々を夢中にさせている「タマちゃん」騒動を炎天下の鶴見川に見に行った。




 27日正午。
 「朝は大綱橋付近にいた」という国土交通省京浜工事事務所の情報を頼りに、大綱橋を目指す。気温は30度を超えている。鶴見川の土手に木陰は少なく、熱中症になりそうだ。橋の下ではすでに、親子連れら約80人がタマちゃんを待っていた。「タマちゃん、出てきてー」と子供たちが叫ぶ。まだ、姿を見せないらしい。

 あきらめムードが漂い始めた時、アイスキャンデー屋さんがバイクでやってきた。
何でもこのアイスキャンデー屋さん、タマちゃんが多摩川にいた時はそっちで売っていたらしい。普段150円のアイスを「タマちゃんアイス」と銘打ち200円で売った、とスポーツ紙にも報道された「有名人」である。

 彼は、タマちゃんの居場所に誰より詳しい。途方に暮れていた私たちに「ここで待っていてもダメ。タマちゃんは潮(の干満)とともに移動する。今はずっと下流で見えているよ」。
 この情報に、人々は川辺を移動し始める。さながら民族大移動。自転車が、バイクが、ベビーカーが、川下を目指す。みんな汗びっしょりだ。うだるような暑さの中、土手を歩くうち「なぜ人はこうまでしてタマちゃんを見たいのか」という疑問が胸に膨らんでいく。

 歩くこと約1キロ。樽綱橋に着いた。周辺の川岸には、人、人、人。テレビカメラや望遠レンズも並んでいる。早速コンクリートの土手を下り、「見えますか?」と誰彼なしに尋ねたら、あちこちから答えが返ってきた。「5分か10分おきに顔を出すから、そろそろだよ」「あの辺を見てね」「カメラ、用意しておいた方がいいよ」。

 随分とみんな親切なのだった。すでに「タマちゃん」を囲んだ連帯感が川岸に生まれているのだ。








 待つこと数分。「出た〜」という誰かの叫び声。一頭のアザラシが深緑色の川面に顔だけ出している。「タマちゃーん」「カワイーイ」。みんな一斉にカメラを構える。

 しかし、それもわずか二十数秒。タマちゃんは水紋を残し、再び川の中へ。「見えましたね!」「やったねえ」。自然と隣の人と会話が弾む。「タマちゃんを見られた」という幸せを共有した者だけの不思議な連帯感。

 7分後。再び、タマちゃん登場。確かにカワイイ。
 が、やっぱり顔だけ。アザラシなら水族館にもいるのに、と思う。
 東京・池袋のサンシャイン国際水族館には2種5頭、千葉の鴨川シーワールドには5種19頭のアザラシがいる。アゴヒゲアザラシではないが、ガラス張りの水槽で泳ぐ姿まで見せてくれる。何より、館内は冷房完備だ。

 水族館で見るのとは違いますか――。
 川辺のウオッチャーに片っ端から疑問をぶつけた。

 「こっちの方がかわいい。だってこういうの、初めてだもん」とは川崎市の小学5年、安達未希恵ちゃん。「お友達に自慢するの」と大喜びだ。上流の大和市から4キロも歩いて見に来た男性(63)は「日ごろから親しんでいる東京の川にアザラシが来てくれた、ってところがうれしいんだよ。自然の中で見る方がいいに決まってる」。
 周囲の人も男性の言葉にしきりにうなずくのであった。




 タマちゃんが最初に多摩川で発見されたのは7日。北極圏や亜北極圏に生息するはずのアゴヒゲアザラシの迷子、という物珍しさもあって、見物人は日に日に増え、貸しボートで川に出たり、川に落ちる人まで現れた。
 ところが19日の台風13号関東到来を前に、17日からぷつりと姿を消した。多摩川での騒ぎも収まり、誰もがタマちゃんを忘れ始めた25日になって、今度は鶴見川でアザラシが見つかった。

 同一アザラシだとすると、京浜運河を経て約40キロも泳いだことになる。
 あまりにドラマチックな展開だ。「保護し、海に返せ」「いや、自然に任せる方がいい」などの議論もわき起こり、26日には国交省、環境省、神奈川県、横浜市が「アゴヒゲアザラシに関する連絡会」を結成。異変が起きた時は、捕獲も視野に入れ対応することが確認された。

 しかし、「捕獲」といってもアザラシの場合はやっかいだ。現行の鳥獣保護法ではアザラシは対象外。同法はこの春改正され、アザラシなど海のほ乳類も対象となったものの、改正法施行は来年4月。「それまで国、県には保護する権限はないのです」
と国交、環境両省はいう。

 一方、タマちゃん報道はヒートアップしている。川辺でカキ氷屋を開く菅野達也さん(34)などは「今日だけでテレビ局3社、新聞2社から取材されました」。つまり、私で6社目だ。

 菅野さんも多摩川からの転戦組。「『タマちゃんアイス』のキャンデー屋さんとは、多摩川以来の商売敵です。僕らの悩みは、タマちゃんが潮に乗って移動すること。屋台のように移動できる店にしようか、って考えているところです」。何でも新顔のキャンデー屋さんや、タマちゃんの生写真を売る人まで現れているという。




 タマちゃん騒動を見ていて、ふと既視感を覚えた。
 93年の「矢ガモ」騒動だ。
 東京・石神井川で矢が刺さったままのカモが見つかり、「矢ガモ」と名づけられた。結局、約1カ月後、都が矢ガモを保護。矢を抜き、治療をして、上野の不忍池に戻した。

 それにしても、と思う。矢ガモを守れ、タマちゃんを守れ、とみなが叫ぶ陰で、今も年間50万匹以上の犬と猫が殺処分されている現実って何だろう。

 当時の新聞報道を見ると、矢ガモウオッチャーの数はせいぜい「連日100人」程度だ。今回の「タマちゃん」は「約300人」「1日延べ1000人」というからずっと多い。この手の騒動に夢中になる人が年々増殖しているのではないか。

 「ヒトと動物の関係学会」監事で獣医師の井本史夫さんは「今の日本人がみんなで夢中になれる対象がアザラシであっていいのでしょうか。今回の騒動も結局、消費されるイベントの一つに過ぎません。アザラシの姿が消えて1週間もすれば、誰もアザラシの将来や、鶴見川の汚染問題など忘れてしまうのではありませんか」と問題を投げかける。

 鶴見川の水質は、国交省が管轄する166河川でもワースト3だという。「汚い水じゃタマちゃんがかわいそう」となげく私たち人間自身が汚した。タマちゃん騒動をきっかけに、鶴見川浄化の機運は高まるのだろうか。そういえば遠い空の下、南アフリカでは今「環境開発サミット」が開かれているのだ。

 じっとタマちゃんを目で追っていた60代の男性が、ぽつりとつぶやいた。「なんかさ、タマちゃんがいると川が浄化される気がしないかい? そんな夢みたいな話、あるわけないか」

 濁った深緑色の水面の前にたたずみながら、都会人たちはタマちゃんにいろいろな思いを託しているのかもしれなかった。




 再び綱島駅まで1キロ強を歩いて戻った。途中、川辺でこんな光景を見た。見物帰りの老夫婦が肩を並べて歩いている。
 「あなた、紫色の花が……」
 「かわいいねえ」
 「川を歩くっていいわね」
 水辺では、タマちゃんに飽きた男児が、虫捕り網を振り回している。
 
 タマちゃん目当てにやってきた老若男女の心を和ませているのは、実は愛くるしいタマちゃんの仕草だけではないのだろう。ヒートアイランド現象でますます暑くなるばかりの東京に迷い込んだアザラシ一頭。その存在が、都会の川に残るわずかな自然の魅力を私たちに教えてくれているのかもしれない。

 空を見上げると、この夏初めての赤トンボが飛んでいた。