早いものでもう12月。将大は11才、5年生、健太は7才、2年生です。
1998年、一番の出来事と言えば、韓国旅行でしょうか。晶子さんが研究会に出席するのに一足先にアメリカに戻ったので、アメリカへ帰る途中、男3人でソウル旅行としゃれこんだのは良かったのですが...。
予約の再確認を忘れてしまい、スタンバイ覚悟で出かけた成田空港。何とか飛行機に乗ることが出来たのですが、ちょうどその時、韓国は何年かに一度かの集中豪雨。同じ日の午前中にソウルの金浦空港に着いた東京発の別の飛行機は、雨でスリップして何十人という負傷者を出す始末。ホテルに着いてみれば、テレビに映るのは各地で氾濫する川や浸水した地下鉄など、騒然とした雰囲気。ああ、前途多難。
それでもままよと男3人、勇躍出かけたソウルの町。ボウリングをしたり、地下鉄全路線制覇を目指したり、焼き肉も食べたけれど、何故かフライド・チキン、ハンバーガーを食べ、露天のトウモロコシやお菓子はもっぱら僕の担当。土産物と言えば日本より格段に安いヨーヨー、ミニ4駆のレール、釣り道具など。何とか韓国らしいのはカラフルな扇子くらいなもの。3人とも気に入ったスナックは韓国版味付け海苔。
それでも子供達、日本やアメリカと違い、バイタリティと混沌の溢れるソウルの町並みには感じるところがあったよう。将大は「韓国って日本やアメリカと違って古いところが残ってるね」と社会の発展段階の違いを感じたようでした。地下鉄に乗っているとどこからともなく現れる香具師風の物売り(くし、アルバム、レインコートなどを売るのです)も気に入ったよう。匂いに敏感な健太はマーケットではダウンしてました。
ハプニング連続の韓国旅行、極めつけは最終日。マーケットから地下鉄で帰ってくると、道路は冠水。ホテルまでわずか200m歩いただけで全身ずぶぬれ。ホテルで服を着替え、サンダルにはきかえてやっと来た空港バスに乗ってしばらく、僕の顔から血の気が引いた。「あー!パスポートと飛行機の切符、フロントに忘れた!」すぐに3人でバスを飛び降り、土砂降りの中、タクシーでホテルに戻る。そのまま空港に向かうも、大雨の渋滞で出発時間は迫る一方。途中で諦め、またびしょぬれになり地下鉄に乗り換える。
空港に着いたのは出発時刻の10分前。当然の如く乗り遅れ、何とか次の便に乗せてもらう。ロサンゼルスの入国でも足止めを食い、乗り継ぎの飛行機にも遅れ、夜中の2時の飛行機にスタンドバイすべく、空港で8時間キャンプ。2時の飛行機は何と席が1つしかない。しょうがないのでホテルに投宿、最後は丸1日遅れでやっと到着。ハプニングの連続だった分、子供達は荷物番など、それぞれの役目をこなしたのでした。「もうダディと旅行はいやだ」といいながら、その後また3人で魚釣り1泊旅行にも出かけました。
2年前からピアノを始めた将大に影響され、健太も今年からピアノを習い始めました。二人ともサッカー、バスケ、野球、ローラーホッケーをこなします。点取り屋の将大とゲームメーカーの健太、もう特徴が出ています。二人とも好きなのがボウリングと魚釣り。クリスマス休暇に行くフロリダでも大物を狙います。学校では二人とも校長室に呼ばれることもなく、日本での学校生活とも併せて楽しんでいる様子。
僕はと言えば1月15日から40日間余、長野五輪で「国際放送センターニュース」の編集という仕事をしました。大学はお休み。世界各国から来た放送局に各種情報を流す仕事でしたが、天候不順もあり、修羅場も何度かありました。それでも時折電話で話した晶子さんによれば、「電話の声が楽しそうで、一体本当に仕事してたんだか」ということです。確かに毎朝11時起床(仕事が遅番だったのです)、4時就寝、夜は毎晩が宴会という、大学時代以来の生活ではありました。仕事はちゃんとしました、はい。
もう一つのニュースと言えば、高校時代の友人が関わっている「Let's! DADDY」というその名もすごいオトーサン雑誌に「オトーサンのための家族社会学講座」なるものを連載しだしたことですね。まだ3カ月に一度程度の発行ですが、カメラマンも兼ねて楽しんでいます。本屋さんで見かけたらよろしくね。
晶子さんはと言えば、夏にはオレゴン州で行われた研修会に1週間、秋にはシカゴで研修と学会に10日間、と相変わらず日本語教育法の研鑽に余念がありません。ルイジアナ州で研究会をやるための助成金ももらい、順調にネットワークを拡げている様子。勤務先のエピスコパル学園の日本語プログラムも順調ですが、そろそろ「何でも屋」の徴候が出てきており、何か新しい分野がないか、探し出している様子。
という訳で恒例の季節のごあいさつ、今年は駆け足でした。
すばらしい1999年を!