1989年夏、僕と奥さんとまだ2歳にもならない将大は、トレーラーに積んだ荷物を引っ張って、それまで住んでいたシアトルからルイジアナ州バトンルージュ市まで引っ越した。ちょうど4000マイル、11日間の大移動だった。
別にルイジアナでなくても良かったのだ。たまたま僕の仕事があったという理由だけで、その後10年以上にわたって住む場所が決まってしまったのである。そのわずか3年後に、世界中に配信されるような一大ニュースの舞台となることなど、誰が予想できただろう。
日本には1983年までいた。僕は総合商社に勤め、奥さんは外資系の語学関連会社で働いていた。アメリカに来たのは「何となく」。こっちで仕事がなけりゃ、日本で英会話のセールスマンをすれば食うぐらい何とかなると本気で思っていた。「軽薄さの勝利」が合言葉だった。
シアトルにあるワシントン大学に6年、修士と博士をとった。その間に奥さんも心理学の学位をとり、予定していなかったことに、将大が生まれた。将大を連れた子育て出勤の様子は、「僕の子育て出勤 in U.S.A.」 に書いた通り。
全米60カ所の大学に応募し、たまたまあたったのがルイジアナ州立大学だった。住めば都とは良く言ったもので、茹でたザリガニ、ガンボ・スープ、ベニェと呼ばれるドーナツなどのケイジャン・フードにはまり、マルディ・グラと呼ばれるアメリカ最大のお祭りにも毎年参加し、家も買ってしまった。1991年には健太が生まれた。
1992年、服部剛丈君が撃たれて、わずか16年の命を落としたのは、このバトンルージュである。ハローウィーン・パーティの会場を間違えて7件手前の家のドアをノックし、驚いた妻に言われるまま44マグナムを構えた男の「Freeze!」という言葉を理解できなかったと言われる。「パーティに来たんです」と説明していたのに。
翌年行われた裁判で、剛丈君を撃った男は無罪になり、世界中を驚かせた。その後の民事裁判では責任ありと判断され、仕事を失い、妻とも離婚した。彼の人生はめちゃくちゃだが、それでも生きている。
僕はこの2つの裁判の間中、服部夫妻のボランティア通訳となった。銃規制の署名集めにも協力し、日米の交流活動にも協力している。それでも剛丈君は帰って来ない。
僕は裁判の記録を形にして残したいと「アメリカを愛した少年」(講談社)という本を書いた。あと2年で将大も剛丈君の歳になる。
一カ所に10年以上住めば、いろんなことがある。キリスト教原理派から中絶クリニックを防衛したり、バトンルージュを舞台にした小説が芥川賞をとり(吉目木晴彦、「寂寥郊野」)、映画になった(「ユキエ」)。
僕は社会学の助教授から准教授になり、永住権をとった。奥さんは地元の学校で日本語プログラムを始め、全米屈指のカリキュラムを創り上げた。僕はアトランタ五輪、長野五輪、ワールドカップサッカーなどで国際映像の制作に関わるようになり、スポーツコラムも書いている。
山あり谷ありでも、合計すれば悪くない生活だ。それでもうちの奥さんは早く西海岸に移りたいらしい。