
私の場合
私は、心臓病の子供 でも述べている通り、先天性の心臓疾患である。入院や手術で、母には本当に心配をかけた。「お母さんの命を半分あげたから」冗談交じりに、よくそう話してくれた。それ程母は、私に精一杯の愛情で看病してくれたのだ。手術後の通院もあった。中学校の時は、修学旅行に同行してもらった(学校側の都合だった)。こんなことがあったから、より強く結ばれていたんじゃないかと、勝手に想像している。
母には、本当に感謝している。感謝し切れないくらい、感謝している。
だけど、その気持ちをきちんと伝えることができなかった。面と向かっては照れくさくて、なかなか「ありがとう」と言えないし、それを形にすることもあまりなかったように思う。まだまだ、いっぱい時間はあると思っていたのだ。親孝行する時間。感謝する時間。これから、する予定だった。
その時間を、何の前ぶれもなく突然失ってしまった。それは、後悔としていつまでも残り、自分自身が責められてならない。私が、母の寿命を縮めてしまったのではないかと言う気持ちに、苦しむこともある。本当に私は、母の命を半分奪ってしまったんじゃないかと。
母にとって、私と言う存在はどのようなものだったのだろう。母にとって私は、良い娘だっただろうか?心配させてばかりだったように思うけど、母を喜ばせたことはどれくらいあったのだろうか?これは、母が亡くなった後しばらく、ずっと考えていたことである。ある日、父にそんな気持ちを話した。父は、「おまえはお母さんにとって、とてもいい子だったと思うよ」と言ってくれた。その言葉にどれだけ安心しただろう。涙が、また溢れてきた。

感情を閉じ込めて
母が亡くなってからしばらくは、とにかく忙しかった。
病院から無言の帰宅をする母を迎える準備、葬儀屋への手配、勤務先への連絡、その日の夕方にはお通夜だったので、着替えてすぐに葬儀場へ。弔問客の応対、焼香順の打ち合わせ、弔電の確認、葬儀、そして火葬場でお骨拾い。家に帰ると、そのまま初七日の法要だったため、慌しく準備。この2日、悲しむ暇がないほど次から次へとすることがやってきた。こういう時、家族以外で実際的なことを取り仕切ってくれる人がいたら、と思った。いちばん頼れる存在の叔父が、ちょうど入院中だったことが残念でならない。父と私という冷静な判断能力を失った二人で、よくあの二日を乗り切ったと思う。
葬儀の後は、四十九日まで七日ごとにお坊さんが読経に来られる。また、四十九日までは線香を消してはならないし、毎日のお膳もある。満中陰志(香典返し)の手配も手間取った。近所の方や母の友人、知人など、名前だけではどなたかわからない人が結構いたからだ。その上、住所が不明の方もあり困った。ここのページとは関係ないけれど、お葬式に参列したりお香典をする場合には、記帳の際に住所と氏名を正確に書くこと、香典袋には住所も記入すること、会社名など故人との関係が家族の方にもわかるようなことを書くこと、をお奨めしたいと思う。反対の立場になって初めて気がつき、父と二人で痛感したことがらである。
そして四十九日の法要。ちょっと精神的に参り気味だった父に代わって、親戚の方々に連絡をした。「○月○日、母の四十九日の法要を行いますので、お忙しいとは思いますがお参りに来ていただけますか。お願いいたします。」
そんな私の姿は、周りから見れば「しっかりした」ものだったようだ。しっかりしてるね、と何人の人に言われたことだろう。私はしっかりしなければ、と必死で頑張っていた。私がちゃんとしていないと、母が笑われると思ったからだ。どんな育て方をしていたのかと思われて、母に恥をかかせることだけはしてはならないと、特に父方の親戚にそう思われないようにと、必死だった。親孝行できなかった母へのせめてもの償い。
それは結果的に、私の悲しいという感情を閉じ込めた。親戚などのお客さんへの応対以外に、毎日の生活もあった。家のことは全て母任せだったから、父と私は大変だった。食事作りも慣れないことで、母と同じ味が作れなくて落ち込んだ。必要なものがなかなか見つからなくて、家中探しまわったこともある。父が退職していて家にいたことは、ほんとに助かった。掃除や洗濯、買い物は私が会社へいっている間に全部してくれた。よくやってくれたと思う。それでも、日々の慣れない家事をこなすのに精一杯で、悲しむどころではなかった。それが実情だが、冷たい娘に見えたかもしれない。
しっかりしているとか、強いとかよく言われたが、それは自らそうしているから当然で、私がいちばん言われたかったことは、よく頑張っているねという言葉。でも、そういってくれた人は誰もいなかった。母だけは、私が頑張っていることをわかってくれている。小さな子供の頃みたいに、「えらいね」と褒めてくれている。そう思ったとき、忘れていた涙が止まらなくなった。

死を悼む
母の死に伴う行事が一段落し、父と二人の生活にもようやく慣れてきた頃、ふとしたことですぐに涙が出てくるようになった。
いちばんよく泣いてしまったのが、なぜか夕食後の洗い物をしているとき。料理をほとんど手伝わなかった私だが、後片付けはよく手伝った。「今日は疲れてるからお母さんがしてぇー」と甘えることもあれば、「今日はあんたがやっといてー」と頼まれることもある。洗い物が多いときは、お互いに押し付けあったりもした。もうそんなやり取りもないんだな、と思うと泡だらけの手が涙でかすむ。洗い物を終えた頃、テレビを見ている母は「コーヒーいれてよぉ」と声を掛けてくる。私は洗い物していたのに、コーヒーくらい自分でいれればいいじゃないか、と文句をいいながら、しぶしぶコーヒーを持っていく。「あら、悪いわねえ」という声は、全然悪いと思っていないそれである。そんな当たり前の日常だったことも、すでに過去のことでもうもどってこないのだ。母はコーヒー好きだった。そして、特別に気に入っていたコーヒーカップがあった。それは私が小学生の時に、母の日のプレゼントとして贈ったものだ。子供のお小遣いで買える程度のものだから、高価なものではなかったが、上品なデザインで、いいことがあった日や記念日など特別な日にだけ、母はそのカップでとても美味しそうにコーヒーを飲んだ。
母のことを思い出すたびに、涙。それは電車に乗っていても、道を歩いていても。慌てて、目にごみが入った振り、コンタクトレンズがずれた振りをして、ほかのことを考える。泣いても泣いても、涙はまた溢れる。それは今も変わらない。
本(母を失うということ)の中では、死を悼むことがとても重要であると書かれている。感情に蓋をせず、逃げないできちんと死を悼むこと。そうすることによって、前に進んでいける。人生のステップを上っていけるのだという。
泣くこと=死を悼むこと かどうかはよくわからない。でも、母のことをいろいろと思い出して、涙を流すことによって、少しずつ母の死というものを受け入れていったような気がする。どんなに悲しくてもお腹は空くし、どんなに泣いても朝がくればまた新しい一日が始まる。私は生きていて、お母さんは死んでしまったんだな、とその違いは明確で、もうどうすることもできない。生きている者は、生きていくしか道がない。