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叔母は生涯を孤独に生きてきた。
大正の時代から昭和期を経て、バブルが破綻するころから、病に犯され、独り寂しく別れも告げず去っていった。
八十四歳の生涯を静かに閉じた。
私は、その生き方に同情し、悲しみも今はしようとは思わない。
叔母自身がその生き方を選び、他人には到底知る事のできない生き方、暮らし方があったのだから。
それも選択肢の一つであったのだろう。
大正時代に生を受け昭和に時代が変わるころには、もう分別できる少女に成長していたはずである。
家は貧しかったに違いない。父とは早くに死別し、祖母と私の母と妹の三人暮らしの日々は、想像に難しくない。
小学校を終え高等小学校に進み、やがて義務教育を終えたが、当時は、女子は上の学校には余程の財産家でなければ、学業の道は望めるものではなかった。
姉は、暮らしの支えに宇都宮の専売公社に勤め、生活の助けに僅かばかりの賃金を得ていた。
次女の叔母は、学校の成績もよかったのに進学を諦めざるを得ない境遇で合ったらしい。
母からずっと後になってその話を聞いた。
私は叔母をそう理解していた。文学的素養のある女性なのに、さぞ世間を恨み、かつ落涙の夜を明かしただろうと思う。
私は、子供のころこの祖母の家には、何度か来た記憶がある。しかし、本当の叔母の事はよく知らない。
母が過労がもとで肺炎を病み輸血騒ぎでいた時、叔母が水戸まで見舞いに出掛けてくれたことを、僅かに記憶している。確かその時初めて叔母であることを知ったようである。母はあまり実家の事を話してくれなかった。もちろん私が幼少であったからでもあろう。私が小学校五年生くらいの時の話である。
叔母は、東京の小さな電機会社に勤めていて、毎日四時間ほどの列車で通勤をしていた。多分赤羽駅に近い場所にその会社があったらしい。後日、赤羽のアパートで独り暮しをしていた。
私は何度か行ったことを、今思い出している。
祖母は、叔母の帰りを千秋の思いで待っていたのかもしれない。
叔母の結婚話を私は聞いたことはない。好きな男性が居たのかもしれないが、ついぞ結婚したという話は生涯なかった。そして生涯孤独な暮らしに慣れ、なに不自由もなく、祖母との二人暮らしの侘しい日々の生活が、そこにはあったのではないだろうか。
誰もそのことについては、良いとも悪いことだとも言えない。
祖母は、細々と、自転車で干瓢の買い出しに、上三川町(祖母の実家)と宇都宮を往復しては売り捌いていたらしい。干瓢は天候次第で、出来不出来があり相場が年々違い、またそれだからこそ商売になったのかもしれない 。
また、今は見られないが蚊帳の修復や染め替えをしていた。祖母は昔近所の人から「蚊帳ばあさん」と呼ばれ親しまれていた。
蚊帳は麻で出来ていて、何年に一度は染め直しをしなければ青い染料が落ちてしまう。
祖母の手は染料で青黒く、深い手の皺にまで染み込んでいた。当時は結構な内職仕事であったようである。
話が逸れてしまったが、叔母は決して親のやることには無関心でいたらしい。
自転車にまたがり、片道四キロの道程を往復し、男まさりの仕事に精を出して働き続けていた。
太平洋戦争が終盤になる頃に、私たち家族は水戸からこの宇都宮に疎開してきた。
叔母の家祖母の家である。このことはまた別の機会にでも記してみるけれども、昭和一九年の三月の事で当時はまだ祖母は元気でいた。
しかし、父と祖母とは相性が悪かったのか、父は体を悪くして半病人風で、まして母親の実家に身をおく気まずさが、二人を犬猿の仲のように激しく怒号し罵り合う毎日がそこにはあった。叔母はそのころまだ赤羽に住んでいて家にはいなかった。宇都宮の町が空襲を受けたのは、昭和二十年七月の十二日夜半のことである。その日はなぜか空は低く重たく雲に覆われていた。警戒警報のサイレンが終わると一緒に、今度は空襲警報が鳴り響いた。雷が落ちたように地響きと共に、きな臭い空気が辺り一面に漂い始めていた。
これは本物の爆撃であると思った。
家の前に少しばかりの畑に家財道具を出して身を屈めた。農道を町の人たちが続々避難してきた。父は病弱な体を家の中に一人で爆撃の去るのを待っていた。
町のあちらこちらで火が上がっていた。町の中心街の爆撃が済むと、今度は逃げ惑う人々に目標を変えて、郊外が選ばれ逃げ惑う人々に多くの犠牲者が出たことを翌朝聞かされた。
私たち家族が避難した畑には焼夷弾の破片がバラバラと散在していた。そして爆撃は町を焼け尽くし、戦争の痛ましさだけが至る所にその傷痕を残して、空襲は終わった。
そして迎える敗戦の玉音放送が、人々の涙と異常な興奮とを醸し出し、魂を抜かれた藁人形のように漠然と佇んでいる光景は子供心に今も焼き付いている。戦争が終わった。日本が負けたのだという実感は、ずっと後になってからだった。
食糧難が始まったのはそれからである。ひもじかった。空腹であった。誰も彼も、大人も子供も。しかし、祖母は気丈だった。私は祖母について田舎通い、食料調達に四里の道程をリアカーを引いて、上三川の実家に物々交換のための衣料や金目のものを持参して、買い出しに出掛けたものである。砂利道の農道を一日係りで宇都宮を何度も往復した。
それでも空腹が一時は凌がれ、また少し日が経つと同じように田舎通いが始まる。
叔母は赤羽にその米類をせっせと運び、闇米列車に鉄道警察の目を盗んでは鼬ごっこの生活が続いた。
私も何度かそのグループの一員になっていた。
昭和二十年九月二十二日の夜遅く、祖母の実家に寝泊りしていたところ、宇都宮からの使いで父の危篤を知りその翌日、父は永眠した。四十八歳の短い生涯を終えた。そこそこに葬儀を済ませたのは言うまでもない。
東京に住んでいた叔母は赤羽生活を引き上げて、自宅からまた東京通いが始まった。
通信機器の部品会社らしい。朝早く家を出て通勤列車での日々が続いたのである。
祖母は七十を過ぎていたが昔ほどの元気さはなかった。叔母の帰りを毎日首を長くして、待つ日が多くなっていた。夕方雨模様になると駅まで傘の心配をしていた。夕食の準備も早くからしていた。
叔母は、その祖母の気持ちも充分に理解する暇も惜しげに、東京通いの生活に疲れていた。
そして、祖母は七十八歳の生涯を閉じた。
叔母はその何年かは東京に通いながらの日々を送っていたが、詳しいことは口にしなかった。
私の妹が結婚して身重になり子供が出来てから、叔母は東京の生活を止めて会社を辞し、姪の家に厄介になるのであるが、それでも十年近くは子供たちの世話をしながらの暮らしに、明け暮れていた。
祖母との暮らしや姪との生活にも際立っての個性は微塵もなく、叔母自身の生き方などは回りの人間には理解することが出来ない寂しさがそこにはあったのだろう。
女としての身だしなみは、地味で派手さはなく、独りよがりのところがあったように感じる。
生きてきた時代や環境やの背景が、そうさせたのかもしれない。
姪の家から宇都宮に戻ってきてからは、同じ屋根の下で生活が始まるのであるが、私の子供たち三人にも特によい年寄りの叔母さんではなかった。糸紬の内職な些細な手内職に、その日暮らしの生計を立てていた。
しかし、昭和も終わりに近い頃になると、目立っておかしな行動が見受けられるようになってきた。
昨日今日の出来事はすぐさま忘れ、昔のことは記憶の衰えはみえなかった。
夕暮れの灯かりが点るころに、よく買い物に出掛けたりするようになってきた。
スーパーでの買い物籠まで平気で持ち帰り、店員に注意されたりしていた。しかしその後も何度も繰り返すようになってきた。
姪の家に泊まりに出掛けても、所轄の警察から電話で身元の確認にお世話になることが目立つようになって、宇都宮市内だけでも数回ご迷惑をお掛けし、また警察からの呼び出しも受けた。
ボケの始まりなのかとも、独協医大病院に通院してみたけれども効果もなく、ただ現状維持さえも無理という診断であった。
アルツハイマー病患者特有の徘徊の日々が、日増しに次第に悪くなり、素人の私にもその兆候が見られるようになって心配の連続であった。「恍惚の人」という言葉通りの老女が一人ここにいた。脳細胞の断層写真には、はっきりと空洞の影が写っていた。叔母が息を引き取った後、医者はこの病気は現代医学ではどうすることも出来ない、ポツリと話された言葉が私の胸に刺さった。
叔母の介護に私の妻は奔走の日々であった。良い話があれば人に会い、治療薬があれば求め、老人ホームの入所には行って話を聞き、痴呆の叔母に献身的に尽くしてくれた。義理の母でもない叔母をである。
ショートステイで一週間預け、見舞いや世話に明け暮れた。
私のセカンドハウスが茨城に出来たので、平成の五年十二月に叔母と二人での生活を始めた。
少しでも静かで、緑の木々の林の澄んだ空気のなかであればと思い、定年後の私が半年間妻に代わって暮らしてみた。
夕飯の食事時には、昔の思い出話を毎日試みてみた。昨日も今日も、明日も。
話は尽きなかったし、結構思い出しては苦笑していた。ただその顔には、一抹の影が見え隠れしていた。
まだ開けぬ夜半に、せっせと夜具をたたみ勝手場を右往左往していたことも、日課のように毎日起こされた。
ここは何処だとか、家に帰りたいとしきりに口にするようになって、痴呆特有の姿を見る日々であった。
やっと宇都宮市に申請していた、特殊老人ホームに入所できると知らせがあったのは、二年の月日が過ぎていた。
茨城の地を後にして列車で帰宅してたのは平成六年五月三十一日のことであった。
そして翌日、芳賀町にある特別老人ホームに世話になるのである。
施設には五十人ほどの老人達が暮らしていた。
職員は若い男女が交代で介護の世話に当っていた。現代の医療介護保険制度の垣間見る思いでした。
高年齢の人々が車椅子や杖をつきながら、あるいはベッドに寝たきりの老人が暮らしていた。
六十代そこそこの人たちも数人いた。
それらの人たちの目が深く印象に残った。皆、空ろな眼光だけが異様に感じられ、哀れさと空しさが一種悲哀さえも、それらがいっしょくたにごちゃまぜにされた社会の縮図のようなものを意識せずにはおかなかった。
病魔に冒され、不自由な体に判断力も失い気力さえもなく、ただぼんやりと施設の日課に歩調を置く老人の姿に目頭に熱いものを感じたのである。
叔母の気持ちはどうなのであろうか。仲間と一緒に生活が出来るのだろうかと、不安な気持ちが先に立った。
一ヶ月が過ぎ、三ヶ月が経ち、やがて半年が経過して行ったが、痴呆症の症状は思わしくなくいたずらに日だけが過ぎていった。
妻は、宇都宮から芳賀町へバスで施設に訪れた。勤めから夕刻のバスで毎週のように、叔母の安否を確かめるのが日課になった。衣類の支度から体の具合を職員に問いながら、自宅では介護のできない手厚いホームの作業に感謝する日々が続いた。
入所して三年の夏、叔母は風邪がもとで肺炎をおこして病院に運ばれた。
家からも近い病院にお願いしてまた、新しい看護の日々が始まる。点滴を受けての治療である。
それから、寝たきりの生活が始まる。食事も流動食になり、会話がほとんどなくなりいつも目を閉じていた。
名を呼んでもうなずくだけの反応しかできない。微熱が長く続いた。
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