昭和の遺産と還らぬ青春


第一章 軍国主義のなかの幼・少年時代(1832〜1945)

生い立ちの時代背景
昭和初期の時代は大正の末から昭和の十年代にかけての世界は大不況の暗い冬の時代であった。昭和4年(1929年)から同8年にかけて、アメリカを中心にした恐慌は、今までにない激しいものだった。アメリカは第一時世界大戦後、世界最大の資本主義国になり、ヨーロッパ各国をはじめ、全世界に莫大な商品を輸出し、工場や会社をつくり、繁栄をほしいままにしていた。
しかし、各国の工業も徐々に発展し、アメリカ市場は狭められ、さらにロシア革命で世界の六分の一の地域が社会主義国となり、資本主義の各国がこれを敵視して貿易を閉ざしたため、市場は一層狭められるなかで購買力は落ち込み、矛盾は一挙に爆発して、昭和4年10月、アメリカに大恐慌がおそい、株式取引相場が大暴落した。たちまち資本主義国家の各国を巻き込み大混乱を引き起こしたのである。
もちろん日本もその例外ではなく、生糸のアメリカに対する輸出と生産はその他の製品を含めて打撃をもろに受けて倒産が続発して、大量の失業者を生み出す一方、昭和6年の東北・北海道の大凶作でさらに追い討ちをかけていく時代背景があったのである。
 
幼年時代
私の生誕地は茨城県の水戸で下市である。当時、「銭谷」という地名のところで茨城鉄道の水浜電車の車庫があったところである。俗にチンチン電車(そう呼んでいた)で水戸駅と大7を結んでいた。

いくつ位までそこに住んでいたのかはっきりしたことは覚えてはいないが、この銭谷から学校に通学した覚えはまったくないから私が小学校に入学するすこしまえまでのようである。

住まいのそばには小さな川が流れていた。田畑の灌漑用水に使っていて普段はほとんど水はなかった。しかし、結構高さのある川であった。
私たち兄弟の遊び場所のひとつに、水浜電車の車庫かこの用水掘り位のものであった。いつか父親に買ってもらったのかどうかわからないが三輪車で遊んでいて、弟が三輪車もろともこの堀に落ちてしまい慌ててだれかを呼びに走ったことをいまでも忘れない。
日当たりのよい平屋建てで、大きな部屋が2部屋とガラス戸の玄関わきには広い空き地というか庭があった。床下が高くよく縁の下に潜ってははしゃいでいたらしい。
大病は弟が疫痢になり、私がチブスをわずらったことぐらいで知っていることといえば幼年時代の記憶はほとんど知らないことが多い。
父がその頃何をして生計を立てていたのかまったく知らない。それでもよく父は私たち兄弟を可愛がってくれていたようである。父は私を着物のあわせの懐に抱きかかえられて、飴玉や饅頭をもらいながら歩いていたことをあとで知った。父の子煩悩の一面が見たようなきがした。

少年時代
物心ついたころには、銭谷から今の本三丁目(当時の裡4丁目)に移転し、そこから小学校に通学したのを覚えている。だから、小学校に入学するまでは先の住所に住んでいたことになるが確かなことは今も知らない。
小学校は、水戸市立浜田尋常小学校で、周囲は水田が広がり、よく稲刈りの時期になると蝗(いなご)取りに学校授業のひとつの慣例になっていた。蝗は、母親にさらしの切れはしで袋を作り、縫い口には竹筒を切ったものを縛りつけたものをもちより、ワイワイと騒ぎながらとった蝗をその中に器用に入れながら競って遊んだ昔を、今では懐かしい思い出でになってしまった。
1年生の受け持ちは小沢やす先生で美人であった。優しい母親のようなところが印象に強い。低学年のころの私は、ひ弱な泣き虫で人前での話もできず、小心者であった。
しかし、通知簿の成績はさほど悪い方ではなかったから不思議である。悪い学科は体育と図工と理科の3科目である。「乙」が相場である。今でいう5段評価ならさしずめ2ないしは3であろう。それ以外はいつでも甲か優をいただいていた。

私の小学校の通知簿(当時は「学校手帳」といったの最初のページに戸籍の表示がある。
  児童名 深海 弘
  生年月日 昭和7年2月19日
  本籍地 佐賀県西松浦郡有田町 四五四ノ四 番地
  現住所 水戸市裡4町目 1217 番地
  入学年月日 昭和13年4月6日
    第1学年ニ入学
  保護者名 深海 卯一
  職業 露天商
  現住所 同上
     
そして三頁には「訓校」があり
至 誠
勤 労
協 和
奉 仕
努 力
とある。
尋常科第一学年の通知簿欄には、月毎の出欠表と学業成績表があって科目には
修身・国語(読方・綴方・書方・平均)、算術、図画、唱歌、体操、手工の評価欄があり、最後に通約と操行が載っている。
その当時の標語は甲乙丙の三段階で記載されている。この評価は小学校4年生以上になると学校制度が尋常科から国民学校諸島科に変わり評価の仕方は優良可になり更に上・下と細分化される。つまり良の上とか良の下という風に教育は戦争色に染まっていく端緒を標していたようである。すなわち、昭和16年12月8日の大東亜戦争勃発の悲劇が始まる。
ちなみに、学業の方も国民科のなかに修身・国語(読方・綴方・総括)国史、地理、理数科に算数、理科があり、体錬科に体操、武道が、芸能科に音楽・習字・図画・工作・裁縫と戦争教育色が静かに忍び寄っていったのである。
高学年になると好きな学科は体育が得意になっていた。鉄棒(器械体操)がなかでも好きであった。誰にも負けない自信があった。国語と算数は好きな科目の方で、理科と図工だけは余り好きな科目にはなれなかった。4年生になると、今までの男女共学ではなくなった。

-戦争と紀元二千六百年式典-

金鵄輝く日本の 栄えある光身に受けて いまこそ祝えこの朝
紀元は二千六百年 ああ一億の胸は鳴る

小学校4年生であった私は、朝礼で長い時間校庭でたたされていたことを今思い出している。昭和15年11月10日のことである。来賓の偉い先生方や見慣れぬ軍服を着た軍人たちが大勢並んでいた。教頭先生はいつになくかん高い声で号令をかけていました。
校長先生、そして大勢の挨拶の話を聞きながら皇国日本のただならぬ定めの張りつめた緊張感が少年の胸に重くのしかかったようなものを感じていた。神武天皇即位から二千六百年記念式典である。子供心に大きな運命とは違う責任感みたいな日本男児の気構えにも似た忠誠心がどこかで踊らせられていたに違いない。

そして『戦争』がその年代の時に始まった。朝礼の時に校長先生からそのことを知らせれたのである。穏やかな空の青さが奇妙に眩しかったことを覚えている。

疎開
昭和18年後半から19年代の日本の戦況は、日増しに後退を余儀なくされていった。
しかし、依然として、大本営の報道は戦勝を伝えていたが撤退に次ぐ撤退と本土決戦の色濃くなっている戦況は、祖国を守る銃後の人々にとって不安は不安を呼びながら沖縄そして本土への空襲が激しさを増す中で、人々の焦燥は暗く重くおののきを隠せないものであったのである。

昭和19年の春2月、私は高等小学校の一年生で、3月の終了式をまじかに控えていた頃であったように覚えている。父が突然『疎開』の話で担任の先生に転校を申し出たのである。挨拶もそこそこに親しかった友人とも別れて、一路母の郷里である宇都宮に疎開してきたのは忘れもしない2月の19日であった。二つ年下の弟と水戸駅で列車に乗せられて、郷里を離れた。

翌年の8月15日、太平洋戦争を敗戦で迎えることになる。そしてその11月に病弱な父(卯一)は他界した。翌年の3月、国民学校高等小学校2年を卒業することになる。私の人生の船出が始まるのが、昭和21年の戦後の歴史の幕が開くのである。
 

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