昭和の遺産と還らぬ青春


第二章 敗戦国日本と暮らし (1945年以降)

『1945年』〜

敗戦の色濃くなった昭和20年2月、家族と離れて水戸から母の実家であるこの宇都宮に疎開してきた。 当時、私は高等小学校の1年生であった。

13才で2才下の弟と水戸線で小山経由の列車で宇都宮に着いたのは確か夕方の4時時分の頃であったように記憶している。宇都宮には小学生のころ、母と来たことがあるので道順は知っていた。
その後、両親が下の幼い妹3人で、古ぼけた自動車に家財道具を載せて疎開してきたのは3月も末のことであった。実家には祖母が一人で細々と暮らしていたが、元気な祖母であった。父は水戸で小さな商売をしていたが、体を悪くして思うような商いもなく、やっとのことで『疎開』を決意したようである。私は高等小学校の1年生の卒業式も待たずに今の一条中(南国民学校)の高等小学校の1年生に転校した。

戦火は日増しに激しくなり、空襲警報のサイレンは日課になり学校での授業など殆どなかった。空いている土地を探しては、野菜や馬鈴薯、さつま芋作りを授業の実習としてさせられたのは2年生になってからも同じであった。
『学徒動員』は水戸にいるときから強制的に『お国のため』と日立の勝田工場で(小銃の)薬きょうか何かを製作していた。宇都宮に来てからも中島の飛行機工場でジュラルミンのリベット打ちをしていた。工場内はシンナーの臭いで頭痛がして、朦朧とした空気の中での作業である。金属音と塗料の臭気が渦巻く騒音の中で張り詰めた戦時下の緊張が当時の戦況の重苦しさを語っていた。


終戦〜

以下の青色の文章は、父が友人に宛てた手紙を私が編集をしたものです。

終戦直後の昭和20年9月に病弱な父が他界し、母と3人兄弟が残された。戦後の時代に生活も苦しく、食料も家もまして収入もないわれわれ家族のなかで、国民学校高等科を終了したばかりの私は、働くことを余儀なくされた。

昭和21年6月「東京鉄道工業株式会社宇都宮支社」今泉製材所に、伯父の須田金三氏の世話で入社した。一時、母、チエもこの製材所に勤めていた。戦災復興の中で、ここ、製材所で、忙しい毎日を送っていた。冬になると北風の吹きさらしの工場で丸太かつぎや貨車下ろしに、いろいろな仕事をした。冷たい水を使う製材職工も経験し、手はアカギレになり地下足袋は湿ったオガクズでびしょびしょになっての仕事だった。ここ製材所では9年間働いた。

高校生時代

昭和26年3月に栃木県宇都宮商業高等学校に入学する。定時制(夜間部)である。19才の春である。
国民学校高等科2年を卒業したのは昭和21年の3月だから5年の歳月が過ぎ、世相もわずかながらも落ち着きを取り戻しつつあった頃である。
しかし、敗戦そして復員さらに食糧難、物資不足という戦時からの痛手は、心身共に荒れ果てた世相に人々は深い痛手からは未だ程遠いものであった。
このことは、更に長い年月を要する『戦争はまだ終わらない』課題となったのだが。

学制制度が戦前、戦中、戦後という混乱期にあった中で、国民学校高等科2年の卒業資格では、高等学校を受験することは出来なかった。中学課程の履修が必要であったのである。
止むなく今の栃木県立宇都宮高等学校での中学課程(通信教育)に入学した。スクーリングもあった。
しかし当時、私の家計は母と兄弟3人と祖母との5人家族で働き手は母と私の2人では生活のゆとりさえもない有様で勉学は二の次、三の次であった。
上級の学校を卒業しておきたい夢は決して脳裏から離れることはなかった。半年ほどで通信教育は挫折したけれども、会社での休憩時間にはそれなりの学習は怠らなかった。
哲学書、宗教書、バイブルなどをむさぼるように読み、そして悩み、社会の出来事に関心を寄せたのもこの頃であった。

昭和26年の3月、会社の先輩であった『小池光二』さんの紹介で高校の教師をされている方(草島先生)に私の向学心を伝えて頂き、栃木県立宇都宮農業高校の定時制(昼間部、変則定時制)に入学手続きが認められた。1ヶ月後、転校して宇都宮商業高等学校に編入することになる。
商業高校を選んだ理由は特にない。高校を卒業できることで夢は叶えられたからである。
けれども、授業は殊更に追付くことで精一杯であった。
商業簿記、珠算などは初めての教科である。労働で太くなった指にはソロバンは苦手である。

高校3年の11月に会社から事務所の仕事を手伝って欲しいということで、今泉の製材所から川向町にあった宇都宮支社のほうで資材課の木材計算(ソロバン)をするようになり、やがて昭和30年6月には正式に社員登用となった。
 

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