昭和の遺産と還らぬ青春


第三章 冬の時代と芽生え (1960年以降)

この時代については、父の残した文章は見つからなかった。1960年以降といえば私が生まれた時代に当たるのでそこで、父のの残した資料、および私の記憶から、父に代わり、文章をつづってみよう。


結婚と家族の誕生

父が結婚したのが1959年の3月だからここから私達家族の歴史が始まったのである。母は結婚しても、弟が生まれるまでは仕事を止めなかったらしい。また、勉強する事に燃えていた父は東京の大学に進学する事を夢見ていたようだ。最近母から聞いて知ったのだが、父は東京の大学に進学する為、会社に転勤の相談を持ちかけ、OKをもらい、なんと母までもが、東京支店への転勤を希望し、OKを取りつけていたらしい。
ここで彼らの障害となったのが、祖母のチエだった。父と共に家族を支えてきた祖母にとって父は必要な人間だったのだろう。母から聞いた祖母のエピソードとして仕事が休みの日曜日に新婚の父と母が町に出かけようとしたところ、祖母に「残った私はどうなるの?」と言ったらしい。母も祖母のことでは相当苦労したらしい。
また、長男の私が生まれた頃は、父の兄妹も同居していたらしく、私に乳を飲ませる為、母が勤めていた会社まで叔父が私を連れてきたこともあったらしい。叔父が結婚したあとでも、叔父の子どもは女の娘であった為に、私達兄弟をだいぶかわいがってくれた記憶がある。

製材所から事務所勤務へ

昭和30年6月に正社員として資材課に勤務した後、小金井の電車区の新設工事の現場に3年間、資材事務の仕事を経験、久喜駅の改良工事に携わり、日光の葛飾林間学校の改築工事に約1年勤め、事務所に戻ると庶務課に配属になり、工事契約の仕事、営業入札要員のお手伝いと大変忙しい時を過ごした。
暴風時期(台風?)になると、災害復旧に片岡や矢板の現場に非常召集に夜中に起こされての経験もあった。


本との関わり

この頃の父は、本の虫だった。読んでいた本は、資本主義、社会主義、経済、哲学など堅い内容の物ばかりだった。父は本に対しては異常なくらい執着していたと思う。自分ですぐに読む事のできないような、また読まないような内容の本でも、本を捨てたり、他人に譲ったりする事は絶対になかった。かといって手に入れた本を全て読むわけでもなく、ほとんどの本は最初の数ページの重要な部分に線を引いてしまえば、それで終わり。そんな本ばかりだった。
これは父が厭きっぽいとか、そんな理由からではなく、経済的理由で青春時代に自由に本を読めなかったのが原因であろう。
そんな父の血を引き継いだのか、私も弟も本は嫌いではない。例えば、音楽雑誌、ロッキンf、Guitar Magazine、などはは創刊号から、何年分かは家にあった。車の雑誌を集めた事があった。しかし父が集めた本には、質、量ともかなわない。

子どもたちに対して

そんな父も私達子どもに対しては非常に優しく接してくれた。時間に余裕があるときなどは、積極的に子どもたちと接していたし、基本的に子煩悩だった。
私が小学校6年生になったときあたりから、地域の子ども会活動や、学校のPTA活動には積極的に参加するようになった。サラリーマンにしてはそういった事には積極的だったと思う。
とにかくこの頃の父に対して私は悪いイメージはまったく持っていない。この章に父は“冬の時代と芽生え”という題をつけているが、結婚してから、我々が小さい頃、少なくとも、私が小学校低学年だった頃までは、父、母にとっては、世の中も、家庭的にも苦しい時代だったのかもしれない。そんな苦しい中で、私たち子ども3人は、父母の十分な愛情を受け、育った。


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