昭和の遺産と還らぬ青春


第四章 平和運動の動きと政治 (1970年以降)

政治原水爆禁止世界大会報告

−−京都・大阪会議に参加して−−
第10回原水爆禁止世界大会は全国各地の地域、職場でとりくまれた百万人集会を基礎に7月30日、31日に国際会議、8月1日に東京会議がそれぞれ東京会場を中心に海外代表団を交えて開かれたのであります。
この大会が終わって8月3日会場を京都に移し、総会全体会議が府立大グランドで開催され、そこでは分散会議、階層別協議会、各県代表会議が次々に開かれました。閉会総会全体会議は会場を大阪に移し、扇町プールに於て熱気のうちに開催されました。

8月6日には京都で原水爆被害者慰霊祭が、翌日には広島で記念行動が、さらに9日には長崎で世界大会が、第10回原水爆禁止世界大会の全日程となりました。
私たち代表団は、その最も中心的な大会であった総会全体会議の「開会から閉会総会」にいたるまでの各種の会議に参加させていただきました。私は、そこで何かが、どのような状況のなかで「会議」が開かれ、どのような問題がそこで提案されたのかを報告し、今後この原水爆禁止運動がどのような形で発展させなければいけないのかということをご報告したいと思います。

原水爆禁止運動の基底とその意義について
この大会の中心的会議となった「総会全体会議」(京都市府立大グランド)の席上、長崎の被爆者である渡辺千恵子さんは半身不随の体で、母親のすがさんらに抱かれながらこう語っていました。

『みなさん!』(透きとおる甲高い声で)『広島での第1回世界大会(1995年8月)で私たちの仲間、山口美佐子さんが、私たちが訴えなければ、原水爆の恐ろしさを誰が世界中の人に訴えるでしょう。!と、涙で述べられた言葉をご記憶でしょうか。
この言葉は被爆者みんなの気持ちでした。みなさん、19年前あの『原子爆弾』は、私たちの命を奪い、幸せをも一瞬のうちに奪ったのです。そしていまもその被害者の命を奪いつつあるのです。しかし私が生きていられるのは、この運動が平和を願い平和を守る連帯感が私の命を支えているからなのです。もしこの運動がなかったならば私はいまここにこうしてみなさんの前でこの原水爆の恐ろしさについて訴えることはできなかったでしょう。同時に、19年前私の体をこのようにした原爆をあえて投下した国が、現在もおもにアジアで核戦争の危険を引きおこしわたしと同じような犠牲者をつくりだそうとしていることに我慢ができません。
わたしたちがこうして第10回世界大会の総会を開いている間にも、キナ臭い核戦争のにおいは一段と強くわたしどもの周囲にたちこめています。19年前にわたしたちが受けたあの悲惨な核戦争を再び繰り返させないために、そして日本を被害国から加害国にさせないためにも10年の伝統をもつ日本原水協の旗を高く掲げて、すべての人が力をあわせ、頑張ろうではありませんか』と。

一言一言力強く訴える渡辺さんの言葉に象徴されるように、原水爆禁止運動は被爆者たちの、核戦争の危険をなくし、平和を守り、二度と再び広島や長崎の惨禍をくりかえさせてはならないという悲願のもとに出発したこの運動でありまたそのことが運動の基底になてさせられてきたのであります。このことを抜きにしてこの運動を大きく発展させることはできないでしょう。
 

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