昭和の遺産と還らぬ青春


第五章 昭和時代の終焉(1980年以降)






1980年代は父にとって良い意味で忙しい時代だったと思う。
3人の子供達は、それぞれ学校を卒業し、自分たちの道を進んで行こうとしつつ、
まだ父に頼らざるを得く、大変ながらも父にとっては良い時代だったと思う。
父はこの時代に関しては何も文章を残してはいない。(まだ構想がなかった?)
自分勝手ではあるが、私の記憶と感覚で思い出を綴ってみよう。



父にとっての大学


  1980年といえば私は20歳で大学に通っていた。高校はそれなりの進学校に通っていたのだが、この頃の私は学校での勉強をまじめにやっていなかったため、成績は落ちて行く一方だった。そのくせ、自分のやりたいことも見つからず、とりあえず大学に行く。とだけは考えていた。
  父は、自分の夢だった教師になる夢が適わなかったため、私に教師になることを勧めたこともあった。元来人に束縛されることがいやだった私は、公務員や学校などを好きになれなかった。
  3年になって志望校を決める時点で、東京の私立理系と決めていた私に、父は栃木県出身の学生ための寮を探してきて、母と3人でその寮を見に行った。十分な受験勉強もせず、入試に臨んだため、結果は散々なものだった。それでも何とか日大工学部に補欠で入学できることになった。私立で地方の大学という事で、東京に下宿するよりは安くなった。

  この2年後、弟も東京のデザインの専門学校に進学することになり、1年間川崎の寮に入り、2年目は自宅から通っていた。私が卒業すると同じに弟も卒業だったので、この4年間は父、母にとって大変な時期だったと思う。後から母に聞いた話では、この時期、父の会社が景気が良かったため、何とか凌ぐ事が出来たらしい。
   大学に入ることは、父の夢だった。経済的、社会的など、様々な理由から自分では果たせなかった夢だったが、自分の子供達を入学、そして無事卒業できたことにより、苦労はあったかもしれないが、父にとっては良い時代だったかもしれない。
この時期私は自宅にいなかった為、父の苦労、生活ぶりはよくは知らないが、自分が定期的に購入していた本をやめたり、それなりの苦労はあったようだ。

   晴れて子供達3人が学校を卒業して社会人となったのは、1982年で、同時だった。この頃から、世の中にはワープロとか、パソコンの走りであるマイコン等がはやり始めてきた。新しいもの、機械物が好きな父は、まずは、仕事で使い始め、80年代後半にはシャープ製のPCを中古で購入して、プログラミングの真似事などをして楽しんでいた。理解していたかどうかはわからなかったが、当時のマニア向けのPC雑誌がかなりの数、本棚には並んでいた。
   PCに触り始めたのは、私よりもずっと早かったのだ。周りにもっとPCに詳しい人間がいたならば、きっと父のPCのスキルももっと上がっていただろう。私がPCを触り始めると父のスキルを追い越すのはすぐだった。
   自分史を作る、本を発行するという考えは、父が以前から持っていた物であり、以前は手書きで文章を残していたが、この頃から、ワープロなどを使って文章をまとめることを始めたようだ。

 
メニエル氏病


  私の記憶の中では父はあまり体が丈夫ではなかったと思う。10代、20代の頃は肉体労働などもしていたようだが、私達が物心ついてからは、何度か入院をしていたことがあった。
  中でも一番父がまいったのは、メニエル氏病にかかった時だった。この病気が原因で死ぬことはないのだが、めまいがひどいらしく、会社も休むことが多く、家で寝ていることもしばしばだった。一番ひどかったときには、「自分はもうだめだ、後を頼む…」なんて事をよく言っていて、母によく怒られていた。
  死の原因となった白血病の時には弱音は見せなかった父だが、この時は余程辛かったのだろう。メニエルを患った事で父はそれまでとは性格がちょっと変わったようにも思えた。これは今になって思うのではなく、当時感じたことなので、父もそれまで神経質だった部分を自分なりに変えて行ったのかもしれない。
  この頃は子供達は、学校も卒業し、仕事をしていたので、父につきっきりで看病することはなかった。唯一、アルバイトをしていた妹が面倒を見ていることがあったような気がする。いつもながら、一番大変だったのは、正社員としての仕事を持っていた母だった。
  そういえば、この頃の母はめっちゃ忙しい人だった。自分の仕事は朝8:30頃の出勤で、帰ってくるのは早くても6時過ぎだった。それから、買い物、食事の支度をしていたので、8時前に夕食を食べた記憶はほとんどない。ほかの4人の家族は、たとえお腹がすいても、自分から進んで夕食の準備をしようなどという者は一人もいなかった。経理の仕事をしていた母は、給与、決算、の時期になると帰りが9時、10時過ぎることも珍しくなく、父をはじめ家族はひたすら母の帰りを待っていた。
 

父にとっての昭和

  父にとって昭和とは何だったのだろう?戦争のにおいのする昭和初期に少年時代をすごし、昭和中期の戦後の混乱期に青年期を過ごしてきた。生きるために、子供の為に、家族の為に自分の行きたい道も諦め、頑張ってきた壮年期。
  父が退職したのは平成5年だが、父の昭和は父が生まれてから、家族の為に働いてきた、その歴史そのものかも知れない。退職する少し前に、大洋村の存在を知り、記憶が薄らいでしまった幼い時期の記憶を海の香りの中に、そして大洋村での自然に囲まれた生活の中に見つけ出そうとしたのだろうか?
  父にとって昭和は、自分のための第2の人生を踏み出すためのステップだったのだろう。


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