昭和の遺産と還らぬ青春


終章 バブルの崩壊と定年退職 (昭和から平成へ)

昭和という父にとって束縛された、負の時代を過ぎ、平成という新しい時代を迎えた父は、
この新しい時代を自分の為に生きていこういう思いがあったのだろう。
ここでは私の目から見た新しい父の姿、そして母の姿をも綴ってみよう。





深海家のルーツ


  父のライフワークの中で“深海家”のルーツを探る事も重要なことの一つだった。通常、これのことは、自分史を作る上で、必然的に必要になる事ではあるけれども、父も深海家に付いては詳しくは知らなかったようだ。
  言われて見れば、私は父の父(深海 卯一)のことは父母から聞いたり、少しの写真を見せてもらい、これがおじいちゃんだと教えられただけだった。祖母に関しては、私が小学校低学年の時になくなったので、私の記憶の中にはあった。母方の祖父は私が大学生の時まで健在で、祖母に関しては平成15年の今では93歳を過ぎて、健在なのだ。
その為か、父方の祖父がいなくても子供ながら不思議には思わなかった。

  父は生まれは水戸市であるが本籍は九州、佐賀県の有田だった。聞いた話によれば、祖父は有田の生まれで、家は焼き物をやっていて、日本全国行商に歩くような仕事をしていたらしい。
  しかし、祖父は飽きっぽい性格らしく、行商で関東にきた際に、水戸に住み着いてしまったらしい。その後は父の自伝にあるように水戸で露天商などをやっていたらしい。後で父の祖母に聞いた話によると、一時はコックなどをやっていたことがあったらしい。
実際、実家には有田焼の食器や、仏具が結構ある。
  そんな訳で、父は九州で暮らしたことは無く、近くの親戚の人間に人伝に話を聞いたり、九州の親戚に数回会っただけだったようだ。私も父や母(特に母)に何度か、そう言った話(誰が誰の兄弟で、誰と誰が夫婦でといった話)を聞いたことがあったが、話を聞くだけで、メモをとったわけではなかったし、そう言った話を好きにはなれなかったので、記憶は曖昧だ。こう言った話は、弟や妹のほうが得意そうだ。実際弟は父と一緒になって家系図を作った。後でそれもこのHPに追加する予定である。

  父のルーツ探しは九州に行って、父を知る親戚に会うことから始まった。その人達は、旅館を経営している人、焼き物の窯を持っている人などで、祖父、父を知る最後の世代の人達だった。その時にはすでに高齢だったので父が会えるのはこれが最後だろうとのことだった。
  また同じ頃に父は有田焼に関する本もてい入れていた。その本によると、戦国時代末期、豊臣秀吉が朝鮮出兵をして帰ってきた際に何人かの朝鮮人を連れてきたらしい。その中にいた陶磁器の職人が日本に帰化し、深海新太郎と名乗ったらしい。百婆仙と名乗ったその人の妻がその後職工を引き連れ、焼き物を始めたということだ。
  ここからの系図が本に載っていて、父が知っている祖先の名前が出てきたので、父も自分の祖先が韓国からきた、深海新太郎であると確信をしたのだろう。ここまでわかってくると、その先を知りたくなるのが人間の性ではあるけれど、父が調べた限りでは深海新太郎の韓国名はわからなかったらしい。韓国では家系図がしっかりしているので、出身地と苗字から、家系を特定するのは簡単らしいが。
  深海新太郎の名前の名前の由来は、彼が日本にやってきて日本名を決める際に日本人が出身地を聞いた際に“金海(キムヘ)”を“キンカイ”と発音した際に日本人が“シンカイ”と聞き違え“深海”という字を当てた。という説があるらしい。職工の世界のことなので、実際は血の繋がりの無い弟子達が“深海”を名乗ることもあったかもしれないが、父は自分のルーツがわかったことで満足したことだろう。また、私自身も韓国人をルーツに持つということを自分なりに納得している。




大洋村の生活

父は、大洋村で過ごした中で、友人に手紙を何通か出しています。
その手紙には、大洋村での父の暮らしぶりが描かれています。
どなた宛かは、わかりませんが、何通かを以下に掲載させていただきます。

No 1

大学へ行きたいという希望も夢もかなわず、ひたすら家族の為に半世紀の年月を終えた今、この茨城の地(生まれは水戸市内)で晴耕雨読の生活(単身赴任?)に明け暮れている毎日です。作物を作る喜び、土地に親しむ楽しさ、収穫への期待と満足感を満喫しているところです。農家から40坪ほどの畠を借りての仕事はきついけれども、健康維持には良いのではないかと思います。

昭和60年代にワープロが出回り会社に導入を依頼し覚えたのもその頃で今、最近村の教育委員会主催のパソコン教室に月2回出席して勉強中です。
今の会社の新社屋になった当時から全社的にパソコンの導入に関わり自分でもベーシック(パソコン言語)を独学で学びましたが、現在のような進歩したものは初めてでこの6月にやっと購入し、今苦闘しているところです。

この辺りは霞ケ浦の東にあたり、北浦湖畔の南東で海に近く村自体は11,800人ほどの小さなそして不便な所ですが、森があり、湖あり、海あり、太陽と夜空には星がいっぱい、澄んだ空気に包まれた半農半漁村半未開の地です。 買い物には不便で郵便局も遠く、車がないと若い人には生活するところではありません。(私は免許がなく自転車族ですが)健康な老人には良いところでしょう。既に5年になります。
街頭がちらほらあるだけの静かな村ですが、夕方日が落ちると辺りは真っ暗です。退職前に土地を求め、退職時に家を(バラック並)建て健康第一の生活の日々です。犬が現在3匹と私家族4人。犬は留守番部隊と盗難避けに飼っています。

梅の咲くころ桜の開花には水戸の千波湖や夏の海浜には、大勢の若者や家族づれが多くなります。海なし県には見られない賑わいを見せます。
徳川慶喜展も開かれ、北関東自動車道路の建設もそう遠くない日に開通すると、この茨城の姿も21世紀になると変貌するように思います。



No 2

もう間もなく、今年も暮れようとしています。 時間が過ぎるのは早いものです。

お元気ですか?その後いかがお過ごしでしょうか。 お孫さんも大分大きくなられたことと思います。

晴耕雨読、格好いいいことばで月並みでしょうが、こちらに来てから2ヶ月になりますが、やっとなれてきたところです。
朝4時には目を覚ましまだ夜が明けないので6時になるのを待って起床、午前中は散策や掃除、洗濯、食事などに時間を費やしてしまいます。午後になってやっと自分の自由な時間ができる始末です。

この間、農家の人に菜園の話をしましたところ家の近くの畑を貸してもらい今から、作物の勉強を始めていますが本当にできるでしょうか。

前にも書きましたように、今までできなかった「読書」ができ嬉しく思います。時間は十分にあり、第一静かな環境が嬉しい。
また、天気のよいときには、この辺の地理がわからないのでカメラをぶらさげて自転車で2〜3時間歩いてきます。

こちらの人は純朴です。
買い物には51号線まで出ないと店がなく、色々と教えて頂きます。「別荘の人ですか」。「どこですか」。「東京の人ですか」
吾妻原ですよ。 宇都宮です。 生まれは水戸ですが。

最近ではお互いに親しくなり先方でも忘れないでいてくれて、「今朝漬けた白菜 まだよく漬からないけれど、あげますか」。それが肉屋のおかみさんで、恐縮したり、嬉しくなったり。
漬け物でも自分でできるのに面倒なのか、そのうち覚えてみたいと思っています。

何事も経験だし、自分でやってみないとありがたみや、苦労がわからないと最近思います。
長年会社勤めのあげく会社以外の世界に疎かった自分を反省するのには絶好の機会かと思います。
「奥さんの苦労がわかるでしょう」といわれるでしょうが、仕方がありません。できることは何でも挑戦ですね。

ここ大洋村の人口は一万人強で、半農、半漁村の静かな村ですが高度経済成長時代のバブルの波にのって、東京近辺の不動産会社が入って、やれ別荘地だの、ユートピアロッジだの、オーシャンロッジといった謳い文句でにわかに脚光を浴びて、一方村でも無許可で、いわゆる調整地域の計画もせずにいたるところで開発に無秩序に今では、この不況の嵐に不動産会社は手を引いている始末です。
今は細々地元の建築会社や不動産会社があとを引きついでいる現状でしょうか。
それでもポツポツ家ができ別荘の改築やが少しずつ建ってきています。このことはこの大洋村に限らずどこでも同じなのかも知れません。

しかし、魚は新鮮だし、安いし、空気はきれいですし、排気ガスの心配や、自動車の騒音に悩まされないだけ長生きできるところです。
先日、しばらくぶりで一日、生まれ故郷の水戸に出かけてきました。浦島太郎ではないけれど、駅近辺はもちろん、生まれ育った周辺のたたずまいからそこに住む人達までが、異国の世界のように変わっていたのがなぜか寂しくセンチになり、ある知り合いの隣に住んでいた幼なじみが不慮の事故にあい少し前に他界したとか。
人生の悲哀みたいなものを感じてきました。

生きることの刹那さと同時に、生きとし生きることの大切さ、尊さを大事にしたいと思い、生きてきた証を人生というかけがえのないものにしたいと思います。
そのためにも、健康が何よりだと思います。お陰様でこのところ風邪もひかずに頑張っています。

12月から2月までは冬をこの地で過ごすことになると思いますが、多少宇都宮よりも温暖ではないかと思われますが、どうでしょう。
春先の梅の咲くころもし都合できたら遊びに出かけて来て下さい。
人生、時には休息も大切な生き方です。


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