父の小学校時代のクラス会があった。父にとっては何十年かぶりのクラス会だったようだ。
以下の文章は父が、恩師に宛てた手紙と、添付した随想である。


追憶のままに
-----終戦記念日三十五周年を前にして-----



宇都宮市在住 深海 弘

恩師 生田目 喜兵衛先生に再会して

1980年8月9日


 前略、過日は大変失礼もかえりみずに突然お電話を差し上げさぞ驚かれたと思います。 お許し下さい。
又、九日にはお忙しいところ私のために貴重なお時間までいただきほんとうにありがとうございました。
帰るときには記念の写真や同窓会の名簿、写真までいただき、更には「年月の音」までいただき光栄でございます。
ご家族の方にも大変お世話にあづかりなんとお礼を申し上げたらよいのか、よろしくお伝え下さい。

 帰りの車窓に見る水戸の街並み、田園風景、そして遠くに見える山並みの一つ一つが懐かしく久し振りに満足感なるものをかみしめながら帰宅いたしました。
そして昨晩、先生からのお葉書までいただきありがとうございました。
渡辺君へのご連絡まで早速ご配慮下され、恐縮に存じます。
来年の同窓会今から楽しみにしておりますのでよろしくおねがい申し上げます。

 先生の短歌、読ませていただきました。嬉しく思います。
おくればせながら、お礼の手紙と雑文を綴ってみました。
また、お借りいたしました、名簿と写真同封いたしましたのでご査収下さい。
またいつかお逢いできる日を楽しみにしております。
ありがとうございました。

敬具

 




雑文

追憶のままに


昭和16年12月8日 大東亜戦争突入 − 真珠湾攻撃。
「連合艦隊司令長官 山本 五十六の構想で1941年12月8日、 日本海軍の航空母艦6隻を主体とする機動部隊が、ハワイ真珠湾基地に集結していたアメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えた。
アメリカの主力戦艦など8隻が大損害を受けハワイの航空戦力も破滅した。
この勝利によって日本軍は戦争初期の制海権を確保した・・・。」
(日本近代史小辞典 角川小辞典 より 抜粋)  

戦争が始まった。学校長が朝礼で生徒達に知らせた。
時に私たちは小学校の4年生であった。39年前のことである。
「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は本日未明、西太平洋において米英軍と戦斗状態に入れり」
臨時ニュースのラジオ放送に人々は耳を傾けた。
「午前10時40分、大本営陸海軍部発表、わが陸軍は本日未明戦斗状態にはいるや、機を逸せず香港の攻撃を開始せり」
(物語 日本近代史 新日本選書 より 抜粋)

「戦争はハワイだけではなく広大な南太平洋に広がってたたかわれていることがだんだんあきらかになっていきます。」
(前出 資料より 抜粋)

こうして日本国民は戦争という大きな歯車の一部として組みこまれ戦場に若者たちはかりだされていった。
私たち年少者は戦争の実態もわからず、ただ「鬼畜米英」という合言葉に、そして「神国」という神話に事実を知る事も許されない状況の中で、多くの人たちが生命を失い、財産を没収され、生活の基盤は軍国主義一色に血みどろの戦いが続けられた。
私たちは、学校の勉強も続けられなくなり、軍事訓練や学徒動員にかり出され、校舎は兵隊の駐屯地に変わり、そうした時代の中に私たちが育ってきたことを決して忘れてはならないと思います。
戦争の悲惨さは、戦地も内地も変わらない血みどろの年月であったと思います。


「私の少年時代には、死ということが確実に予定されていた。
美しく死ぬことが、生きることの目的であった。
死 とは天皇のため、国家のために死ぬことである。
私という小さな滅びゆくものを、天皇あるいは国家という滅びることのない永久なもののなかに生かしていくのだ。
----------小学校6年生のとき、太平洋戦争がはじまった。
あの12月8日の朝からは、鮮やかな記憶が続く。
ラジオの臨時ニュースにとびおきて「とうとう、やったのか」と大きな不安と、同時に期待のいりまじった興奮にとらえられた。
だが、そのときまでは、戦争というのは、どこか遠くでおこっていて、新聞やラジオで見たり聞いたりするものだった。」
(加藤文三 著 昭和史歳時記)


そして昭和20年8月6日、広島に新型爆弾がB29機から投下され続いて8月9日 長崎に!
昭和20年8月15日、敗戦。日本軍は敗れたのである。
日本帝国主義の野望は無残にも崩壊したのであった。

「8月15日の正午、天皇はポツダム宣言をうけいれ、無条件降伏するとの録音放送をしました。
泣いてラジオを聞くもの、ひれふして皇居をおがむもの、ほっとして顔を見あわせるもの、歯ぎしりをして日本刀を腹やのどにつきたてる軍人や、軍国主義者たち --------
敗戦をむかえる日本人の心は、いいようのない複雑なものでした。-------」
(物語 近代日本史 3 より 抜粋)
「8月15日正午、整列して天皇の放送を聞きながら、とめどなく涙があふれてきた。
私という小さな自己を、そこに統一させるべき、永遠に続くはずだった、大日本帝国が崩壊してしまったのだ。そして、もう死ななくもよい。
死の代わりに、生があらわれた。 「生きる」----- それは不思議な言葉だった。だが、何のために生きるのか、生きることが何なのか、それがわからなかった。」
(前出 日本史歳時記 より抜粋)
戦いは終わった。私たちはそう思った。
戦いは敗れた。軍国主義者たちは確かそう思ったに違いない。
しかし、そのとき軍部は、戦いは敗れたのではなく、終結したのだと言って国民に伝えた。
事実は敗れたのであったことを、私たちは受け取ることによって太平洋戦争が誤ちの戦いであったことを、歴史の事実として、記すことが必要だったのである。
それは戦後の日本の進路や平和の問題、あるいは軍備論の是非をめぐる証として大切なことであるからと思う。

そして生きている事の事実と、生きなければならない現実のきびしさを同時にどう生きることが大切なのかも知らなければと思いました。

30数年間という時の流れはそういう意味では短いものでした。
昨日の出来事のようにも思います。
また、一方では、この短かったけれども長い流れの中で一体、自分は何を求め、何をどのようにしようとしていたのかも反省しなければいけないのか判らなかった。私に出来ることの一つは何か。
これからの時間は今までの時間よりももっと短いはずである。しておかねばならない事が山積しています。

戦争の恐ろしさを子等に伝えることも大切でしょう。
美しい日本を育て、貧しさをやわらげ、真実を確かめる中で豊かな社会を創造していくことも大切であります。
教育や健康や福祉やそして民主主義を守るということなど等。

私たち世代(昭和一桁)も、古い世代の部類に属しているのだろうか。若い20代の人たちからそう言われるのである。
しかし、私たちが今しなければならない社会的な責任があるとすれば、もっと多くの人たちと共に語り合い話し合っていく大切さみたいなものが必要であるように思います。


広島や長崎で毎年世界大会が開催されています。
いつか私も、第10回世界大会が京都であったとき、地域グループの代表団の一員として参加しました。
・原爆の被災者たち。
・民主団体の人たち
・教育関係の人たち
・そして各国の代表団の人たち
そこには日本人もアメリカ人もソ連や中国やベトナム人たち。白人や黒人や黄色人たち。-----
多くの人たちと語り合う中で、平和の大切さ、戦争の恐ろしさ、そして原爆のこわさ、そして各国の運動に対する苦悩、意見交換、等、人種や民族や思想や宗教の異なったものを越えて、世界は一つだという友情と確信とを分かち合うことの感激は、今も忘れはしない。
8月15日、今年も敗戦記念日を迎えようとしています。
戦争を知らない世代が多くなってきている現在、戦争のみにくさ、恐ろしさをいつか日本人は次第に忘れてしまうのではなかろうかと、不安になります。
軍備 -- 兵器の拡大、強化が国民の知らないあいだに、アメリカ一辺倒の外交政策の舞台裏で着々と進められている現実に対して、私たちはもっと真剣に考えねば・・・とそう思う。

また、戦後35年、戦後の復興期時代の物不足を経験したものにとって、現在の余りにも「物の豊かさ」みたいな環境の中で人々はほんとうに平和で豊かな生活をしているのだろうかと不安になる。
物の大切さ、ありがたさ、をほんとうに知っているのだろうか、と心配でならない。「資源を大切にしよう」と叫ばれている一方で不必要とも思われる物が大量に、そして使い捨て・・・・の生活がある。
物は豊かになってきているけれども、人の心の貧しさということからすれば、あまりにも暮らしにくい面をもっているようでならない。
新しい食品からくる公害が健康な子供たちの体を蝕んでいる。
心も体もである。

 広大な原っぱで自然のふところで自由に遊ぶことさえも忘れてしまっている子供たちの貧しさ、塾と受験に追われて明け暮れる孤独な子供たちの考えていることは何だろう。主体性のない浮遊動植物のように夢も希望もない、身を流れにまかせていく若者たち・・・そして日本人。

私たち世代には青春と呼べるようなものはなかった。
しかし、生きていく底力みたいな強さは持っていたし、今でも失ってはいない。生きることのけわしさと同時に生きることのよろこびというものや大切さも知っている。

 わたしの追憶の時の流れは、決して私個人の故里への郷愁の想いを綴ってみることではなく、戦後の社会の変化のかかわりの中で生きてきた私の精神的な変容がどんな意味を持っているのか、そして追憶の故里に帰ってみることによって私自身を見つめてみたかったからだといったら過言だろうか。



 八月のよる、水戸駅前にある京成ホテルの屋上に近い階の窓から市街の情景を見て、この三十数年の時の流れを静かに想うとき、水戸ではない故里を見ているようで実感はすぐには湧いてこなかった。
あえてあるとすれば、仙波湖と吉田、酒門あたりの森と丘陵とそして彼方にみえる大洗方面の地平線であった。
勿論しないは、戦火にみる影もなく新しいビルや道路が、そして駅南付辺には新しい大きな建物が視界をさえぎり、方角さえもがレンズを拡大してみたように記憶がぼやけてしまっている。
 友人の名簿をみても、写真を見ても、子供のころの顔形が浮かんではこない。記憶の糸は「戦争」という歴史の断層の中に埋もれてしまい空白だけが私の頭のなかで残畄していた。


 それだけに先生との再会は感激であったし、嬉しかった。
故里の郷愁みたいな温かさが胸中を走りまわった。
確かなものがわたしの胸中でずっしりした重さとそしてさわやかな静けさとなってとめどなく過ぎ去って行った渇きをうるおしていった。
 以前堀の流れに夢中でたわむれていたころ。・・・・・
 吉田神社の境内で遊んだこと。・・・・・
 学校のポプラの大木の影で夏の暑さをしのいだこと。・・・・・
 大洗街道を自転車で友達と走りまわったこと。・・・・・
 学校の鉄棒から落ちて気を失ったこと。・・・・・
 級友とケンカして大きなコブを作ったこと。・・・・・
 石ぐらの薄暗い中で真っ黒にほこりだらけになってさわいだこと。・・・・・
 学校の中庭に作ったサツマ芋畠のこと。・・・・・
 中庭になった青梅を食べてしかられたこと。・・・・・

 想い出してみるとそれらの一つ一つがわたしたち少年時代の姿であった。

 先生の話を聞いているうちにそんな情景の一駒一駒を懸命に連なげようと記憶をたぐりよせては昔を想ったりして、次第にわたしにお緊張感はほぐれ、いつまでもそうしていたかった。
生きていてよかった幸せみたいなものがこみあげわたしを包んでくれた。
ありがとうございました。
ごぶさたしてしまった失礼もかえりみずにやはり、水戸へ来ることが出来てよかったと新めて今になって大きくなってきています。


 古い木造の校舎の面影は記憶の中にしか存在しなかった。
鉄筋コンクリート造りの立派な校舎が夏の強い光の中でゆらいでいた。・・・・・・・・・・・・





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