随想 父への回顧−過ぎし日の想い出

はら ひろし

序章-1

私の父は家族の私たちに多くの事を語らないままに、この世から去っていってしまった。父に対する想い出はそう記憶には残っていない。そしていま私は父の年令まで生きてみて父の生涯について回顧してみるとき、その想いは決してそう遠い想い出とはなってはいない。私の像と父の像が二重になって投影されているのである。

人には人それぞれの生き方があり考え方があるが、それらは決してまったく自由に好き勝手に」生きることのできないものがこの世の中であろう。 どうすることもできない大きなものが人間を人生を変えていくのだろう。
 

序章 -2

私の父はあまり多くのことを語らないままにこの世に別れていった。享年48才という年令である。私が15才の時である。 そして今、私の年令がこの父の年令になってしまったのである。 父に対する私の記憶はあまりない。ただこわいという親父のイメージと弱々しい.....
 

あとがき

人生への回顧は時として美しく懐かしいものである。 それはかぐわしい甘い余韻を残してとおり過ぎ去った時代への憧憬でもある。
しかしそれらはいつでもそうであるとは限らない。むしろ現実という世界からの逃避を得ようとする人間の隠れ蓑になってしまうこともある。 現実を直視する人間の悲しい断面である。 悲哀というものかも知れない。
私はそれでいいと思うし、人として自分というものに対して素直な感情でもある。唯、その回顧への憧憬はそれのみに止まってはならないと考える。
現実を直視することは、明日への人間としての生きる証でもあるし、跳躍のステップとして把えることがによってのみ、それらは美しいものとなる。 私はそれを「人生」と呼ぶことができるのなら、もっと美しいものであってほしいと思う。
現実という「生への執着」が明日から未来にかけて生きる存在が、やがて回顧するであろうその時に立ってそれらが本当に自分自身が生ある者として生きとし生ける者としての証であり、美しさという名に値するものになることを願いたい。

人生は余りにも短くはかない存在だとしても、それらが余りにもみにくいそして苦しい世界だとしても、生きることに最大の努力というか対決ということに真剣に生きてみることも、人として大切な事であるように思う。

自己に対してごまかしや、なぐさめや、愁いや、更には自己嫌悪からくる焦燥感だけで右往左往することだけでなく、もっと素直に生きることに懸命な「生への執着」心が新たな人生の強さとして現象する事で、人生への喜びを見つめてみることが大切ではないかと思う。

断片的な記憶の想い出の一つ一つを記してみることによって、何かそこに確かな「生」というものが見出せたとしたら、それらの回顧は決して私にとって少なくとも人生が無意味なものでなかったことになるのではないか。と考える。

1977年8月27日 夜

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