diary

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2004年8月


22日



昨日何かおもいついた。今朝目が覚めたときには忘れていた。多分いつものようにくだらないものだったのだろう。
確か美と醜と人間についてだったと思う。

もう院試が迫っている。あまり勉強する気にならない。どこかでいっそのこと落ちてしまえ、という気持ちがある。
でも落ちたら悲しいだろう。

夜眠れずにテレビをつけた。5年くらい前の音楽が流れていた。すこし切なくなった。
でも、何が切ないのか分からなかった。

夜もふけると、テレビも街の映像を映すだけの固定カメラになる。音は何もない。部屋の明かりを消してただそれを見るのが好きだ。
なぜなのか考えると、消えない灯りと車のヘッドライトが映っていたからだと思う。

車に乗るのが好きだ。別に運転してもしなくてもいい。延々流れていく街灯を見ていると優しい。
束の間の永遠をそこに感じられたから。

矛盾する言葉を二つ並べておけばいいらしい。それが現代で最も受け入れられるそうだ。
でもその言葉に何の意味もない。



7日


書評

なんとなくノリで友達のblogに「書評でも書いてみる」と書いてしまったので書きます。ちょっと時間経ってますが。 先月の21日(くらい)に阪大にアマルティア・センが講演にきていたそうです。で、そのときたまたまセンの本読んでたんで行こうと思ってたんですが、 せめて今読んでる本読み終えてからにしようと思ってたら、読み終わらずにしかもその日忘れてました(ノ∀`)
まぁせっかく読み終えたことだし、名前は知っててもどんなことやってる人なのか知らないこと多いんで感想程度ですが書いてみます。先に内容軽くまとめてみます。
まず本の題は「不平等の経済学」 です。名前から分かる通り、経済的不平等を題材とした、厚生経済学(?)の一種でしょうか。

で、 大まかな内容としては、これまでの厚生経済学に対する批判と不平等という言葉のもつ意味、不平等の尺度を明らかにしようという感じですかね。まず、これまでの経済学に対する批判。 効率的な資源配分によって効用が最大化する、 おなじみパレート最適に関する議論です。パレート最適による資源配分は、あくまで効用関数に準じた「全体での」 効用最大化であって、平等かどうかについては全く関係ありません。そしてパレート最適な点とは、個々人の効用関数によって決まります。まずここがおかしいので、現行の経済学では不平等は解決しえない、といってます。適当にまとめると、限界効用の高い人に財は流れていったほうが効率的だということですね。でもこれは、裏を返せば(厳密には違うし語弊もありますが)、最も欲張りな人に沢山財をあげましょう、ということになります。感覚的になんかイヤですよね。 だから不平等を解決するには、今の経済学の枠から出た議論をせにゃならん、ちゅーことです。
また、不平等という言葉自体が曖昧なもので、順序の完備性がないとかなんとか。まぁ、これとそれだとこっちのが不平等だとはっきりとは言い切れないってことです。それでも、大きな差がある場合には言えることもあるでしょう、なんでそういう概念を用いて話を進めましょうということです。

内容的には、これらのことを理論的に述べられていってるもので、結構小難しいこともでてきますが、読むと納得できるものでした。なんでこの人の評価がこんなに高いのか分からなかったんですが、読んでみて納得できました。著者はインドの出身で、カースト制度からくる世界でも最も不平等の大きな国の一つです。だからこのような業績が生まれたんでしょうか。
前半部は、もう四半世紀前の本なんですが、著者による補足と加筆がされた現代版が後半についてて興味深いものでした。余裕できたらもっかいちゃんと読み返してみようかと思える本だったんで、結構お勧めできるとは思います。ただ理論系に拒否反応でるひとは、とっかかりとしてはあんまり良くないかもしれません(笑)

読み終えたあとで、やっぱ講演会いけばよかったと後悔してたりもしますが、まぁまた機会があるでしょうきっと。興味あれば貸しますんで声かけてみてくださいな。




2004年7月


9日


動物

アマゾンを適当に徘徊していたら、偶然非常に懐かしいものを発見してしまいました。これ
懐かしさのあまり、つい購入ボタンを押してしまいそうになりました。やめましたが。これに限らず、日本のマンガやアニメって人と動物の交流モノがジャンルとして成立しそうなくらいありますよね(多分)。でも、アメリカやヨーロッパのマンガやアニメ、特に動物がよく出てくるディズニーですら、人と動物の交流というものは見かけないような気がします。動物モノは全部動物、って感じで。美女と野獣とかありましたが、あれって確か結局はその野獣も王子様だったかなんだかで人間でしたよね(適当)。この分け方はマンガ等に限らず、説話やら民話・昔話にもある程度共通しているような気がします。なぜなんでしょうか。

この差の根底にあるのは、文化・宗教の違いだという説があります。日本では、古来よりアニミズム信仰が残っていて、身近な動物に対しても神が宿ると信じられてきていました。現に動物を祀った神社などもあります。お稲荷さんなんてまんまそうですよね。だから、人間と動物の間の友情と言われれば、心地よさこそ感じさえすれ、嫌悪感を抱く人間は少ないでしょう。また、人間と動物の間に大きな差はない、といわれても比較的すんなり受け入れられるのだと思います。
一方、西洋社会ではキリスト教が支配しており、人間は神に作られた特別な存在であり、家畜となる生き物は人間が食料とするために作られた生き物だという認識があると言われています。よって、人間と動物との間にははっきりとした線引きが為されており、決して同じ段階にいる生物とはみなされません。

どちらか一方が優れていて、他方が劣っているという話ではありません。世界を見渡すと、アニミズム信仰が残っている地域というのは、比較的人間の生存環境が恵まれている地域に限られています。一方、一神教が支持されている地域は、多かれ少なかれ、少雨や乾燥・冷涼な気候などといった不利な生存環境におかれたところが多く見られます。
ここからは、著者の勘おんりーですが、アニミズム信仰が残っている地域では、他者からの収奪といった(ここでの収奪は人対人に限らず対動物、対自然といったものも含む)非協調的行動を行なうよりも、協調的行動を取った方が利益が大きかったのではないかと思います。しかし、ゲーム理論で言われている通り、最大利得が非協調的行動を取った場合に存在するとき、そしてこれは非常に普遍的性質が強い事項であり、プレイヤー自身にとって有限回の繰り返しゲームでは非協調的行動を取り続けることが合理的だとされています。そこで、非協調的行動を選択する事態に陥らないようにするため、アニミズムという信仰の力を借り、収奪自体を悪にもっていったと考えられます。またさらに、有限回の繰り返しゲームで、現在最も効果的な戦略である、しっぺ返し戦略を用いることによって、集団内での強調的行動を強く勧める力としていたのではないでしょうか。しっぺ返し戦略の結果として、日本のムラ社会でいう村八分といわれる事態が起こったのではないでしょうか。
一方、一神教が支持される地域では生存環境が厳しく、非協調的行動を採る事が支配的戦略であることは容易に想像できます。この状態では環境への負担も自然と増大し、新たな資源を求めて移住することが多く必要となってくるでしょう。そして、移住先に先住民が居れば、それは争って手に入れるしか生きる道はないのでしょう。非協調的行動を採らないと生存の確率は格段に下がってしまうからです。よって、それをさらに確固たるものにすべく一神教が利用されたのではないでしょうか。自分達が生き延びようとすることは絶対的に正しいことであり、収奪は神に許された行為だと思うことで、罪悪感を無くすことに利用されたのでは、と。彼らがこの戦略を採ることを非難することは、彼らの人権を無きものとして扱うことと同列であり、今の社会において、それは妥当なものとはとても思えません。しかし、これらのことが後の植民地主義・奴隷制・人種差別へと繋がっていったと考えることも否定できないと思います。

これからの社会では、どちらの価値観が必要なのだ、と議論することは不毛だと思います。どちらかがいいといったところで、文化や信仰といったものは一朝一夕で変わるものではありませんから。
それよりも私が興味のある部分は、それぞれの信仰が、罪悪感というものを強めたり弱めたりしていることについてです。人の罪悪感というものは、生まれつき備わっているものなのか、社会や文化の中で学んでいくものなのか、という点です。まあ、罪の意識とか性善説とかの話はまた別の機会にでも考えたいと思います。

なにやらうざったい話が続いてるので、たまには気分転換。動物の話から始まったんで猫の動画。(ウィンドウズメディアプレイヤーが必要です) 猫好きの方、ごゆっくりご鑑賞ください。



5日


幻滅

とある小説家は言う。
「日本に現在最も蔓延している感情は、怒りでも悲しみでもまた絶望でもない。幻滅である。」 怒りのように心の向きが大きくあがるわけでもなく、また悲しみや絶望のように大きく下がることもない、ただゼロに落ち着いてしまう状態だという。ゼロになってしまっているので、怒りや悲しみで感情を鼓舞することは不可能であり、またそれは裏切られたわけではなく現実に気づいたことによって生まれた感情なので、安定的でもある。幻滅した人間への対処の仕方は分からない。また、幻滅した人間がニヒリズムに傾斜することに、そもそも我々は対処することなどできるのだろうか、と。

このことは実感として私にはよく分かる、というのも自分自身ニヒリズムに囚われている部分が大いにあるからだ。夢や目標に向かい努力、邁進できる人間に対し「そんなことをして何になる」という否定的な感情とともに、羨望と劣等感を抱く。どうして彼らはニヒリズムに陥ることなく生きていられるるのだろうか。

ニヒリズムを回避してるパターンとして、二つのパターンが挙げられると思う。それは、そもそもニヒリズムへの傾斜を回避することができた人間か、もしくはそれを克服した人間か、だ。前者について考察することは、私にとってあまり意味はない。既に傾斜している人間が、その前の段階へ立ち返ることは不可能だからである。強いてあげるとすれば、強烈な動機や志向を持ち続けられた人がそこから逃れることができたのだろう。注目すべきは後者である。時には思考すらも虚無へと帰してしまうニヒリズムというものから、なぜ抜け出すことができたのだろうか。
一般的かどうか分からないが、自分の中でたどり着いた一つの考えが「諦観」である。こういうものなのだ、と割り切ってしまえ、ということだ。そうすれば、少なくとも生きていくことはできる。自分自身、一時期はそう思うこともあった。しかしこれは本当にニヒリズムから脱却しているといえるのだろうか。諦観自体がニヒリズムの中で存在するものではないだろうか。私の中の一部分が諦観を拒否する。

そもそもニヒリズムとは何なのか。歴史に名を連ねる哲学者であり、奇人として知られるニーチェは、「最高の諸価値の無価値化こそがニヒリズムであり、現代においてそれは不可避だ」という。諦観とは即ち、無価値であることを受け入れることであり、無価値性の否定ではない。あくまでニヒリズムの枠内にある言葉だ。
しかし、私の知る範囲では、日本においてニヒリズムに対する最も有効で用いられている方法であるとも思う。これは日本とヨーロッパの精神社会の差異ではないだろうか。
ヨーロッパの精神社会は、唯一の神と絶対的な価値を置くプラトン主義に基づいている。それゆえ無価値化は人間のもつ価値観を崩壊せしめ、人間から「目標」を強奪する。
他方、神教と仏教が合わさった価値体系を持つ日本の精神社会では、相対的な価値でしか語ることができない。よって、ニーチェの定義によれば、日本には古来からニヒリズムが蔓延していることになる。敢えて否定するならば、生き神とされる天皇の存在なのだろうが、亡くなったものが神や仏として祀られる日本では、やはりそれも相対的なものでしかない。
やはり日本人にとって、諦観はニヒリズムへの傾斜に対抗するだけの可能性を持っているのではないだろうか。例えば仏教では、四苦として生老病死を挙げている。生そのものが苦であるというものだ。また日本人にとって死とは絶対的に負である存在ではない。死ぬことで神や仏と同列になるからだ。このことが、「死ぬときまで生きる」ための諦観が、日本版ニヒリズムへの対処法となる理由ではないだろうか。
しかしながら、自分で仮説を挙げておきながら、情けないことに私自身はこの説を信じることができない。やはり日本においてもニヒリズムからの脱却は非常に難しいものだとしか思えない。



最後に、ニヒリズムへと導く感情の幻滅、人間は何に対して幻滅を抱くのだろうか。人間社会か、国に対してか、自分自身についてか、はたまた人間そのものについてか。或いはそれら全てについてなのだろうか。



2004年6月


30日


小説

「小説」は、英語のnovelの訳語として当てられている。しかし、漢字の意味としての「小説」には、novelという意味は含まれておらず、「取るに足らない言説」という意味を持っていたらしい。坪内逍遥だったかが、これまでの文学と一線を画した文学をつくりあげるという決意を込めてnovelの訳語として「小説」という字を当てたのだ、ということをどこかで読んだ。文学的な素養に乏しい私では逍遥の決意に沿うことはできないが、「取るに足らない言説」としての小説なら名乗ることも許されよう。

この間、控え室でドラクエの話題がでて、ふと思い出したことがある。
高校3年の夏にドラクエ7が発売された。小学生時代からのドラクエファンだった者としては非常に興味をそそられたが、受験を控えていることもあって買うのを諦めたことがあった。 なんとか無事に大学に入学できたので、早速購入し童心に帰ってプレイした。そのストーリーの中で次のようなシナリオがあった。

「何か」によって封印された土地を解放すべく、その根源を断ち切るために、主人公達がその封印された時代に行く。行き着いた先には一つの村があった。その村は常に魔物の脅威に脅かされており、以前に神父と数人の強者が魔物退治にでかけていったことがあった。しかし、彼らが帰り着くことはなく、代わりに村に戻ってきたのは神父の服を纏った醜怪な姿をした魔物だった。村に来た神父の格好をした魔物は何をすることもなく村のはずれで静かに暮らしていたが、その姿に恐怖を感じた村人はなんとかその魔物を退治しようとする。 しかし、その魔物は以前に退治にでかけた神父その人だった。魔物退治にでかけた神父たちは返り討ちにあい、魔物は神父に「おまえが魔物の姿で村にいる間は村を襲わない」という話を持ちかけた。その話を受けて神父は魔物の姿で村のはずれに住んでいたのだった。村人は、村を守っていた恩人を退治しようとしていたことになる。そこを主人公達が間一髪で救う、ということだ。そして、村人は神父への感謝と謝罪をこめ、二度とこのような悲劇が起こらないように、事の経緯を綴った記念碑を建てた。
ここまでは、よくあるRPGの物語だと思う。が、この話には続きがあった。
現代のその解放された村に主人公達が訪れると、記念碑の経緯が書き換えられていた。魔物の姿をした神父を退治しようとしたのは旅人たる主人公達であり、村人はその危機から神父を救ったというものになっていた。いつの時代かの為政者が、この事実を村の恥とし、村人の尊厳を損なうとして書き換えたのだった。偶然子供たちが正しい記念碑を発掘してしまい、それを大人に突きつけるが、大人はそれをなかったものとして破壊し、「こんなものはないほうが良い」といって子供たちを無理やり説得してしまう…

小学生も遊ぶだろうゲームに、歴史の改竄や劣等感といった問題をテーマにシナリオが作られていることに、製作者の驕慢を感じないでもないが、非常に分かりやすいプロットであると思う。初めてプレイしたときは、童心に帰っていたので素直に「真実を受け止めろよ」と思った。どう思うかは読者の判断に委ねるほかない。だが、現実に生きていく場合は多かれ少なかれ、このようなことをしているのではないか。後悔や罪悪感を常に背負って生きていけるほど強い人間は少ないのではないか。人が生きていく上で必要なのは、「真実」なのか「現実」なのか。

私なら、ためらわず「現実」だ、と答えるだろう。逆説的だが、「必要なのは真実だ」と断言できる人物を求めているのも事実だ。真実を受け止めて生きることを人間の理想だとすれば、これはRealist現実主義者とIdealist理想主義者との差なのかもしれない。私の立場を明らかにしておくと、私は紛れもなく現実主義者であろう。しかし、理想論を捨て切れるほどしっかりした人間でもない。たまにマルクス経済学批判を口にしているので、マル経嫌いだよね、といわれる。これはRealistとしての批判である。現実的アプローチを持たない理想論は存在しないに等しい。なぜならばそれは実現不可能だからだ。
しかし、私の中でIdealistとしてマルクスの思想に共感する部分は決して小さくはない。全面的に賛成というわけではないが。理想を持たない現実もまた泡のように脆いものだ。もし現在、超大国が暴走し帝国主義に走れば、現実的にはその尻馬に乗ったほうが勝算がある。それに対抗するなど非合理的だ。しかしそれでは社会的な前進、いや、維持すらも放棄している。


私に確固とした考えがあるわけではない。自分の思考の立脚点を定めるために、今は学ぶことが必要だと思う。幻滅によって引き込まれたnihilismから脱却するために。

アルコールがまわってきたのでこの辺で。



25日


かふぇ

暑さにかまけて日記放置してましたすいません。一時期違うところで書いてたんですが、こっちでやれという要望が色々でまして戻ってきた次第でございますです、はい。
日記とは若干違うんですが、kyoto-u.com にてblog.kyoto-u.comっていう企画が始まりました。blogってやって話題になってて、やってみたいなぁと思ってるけど、どうせ書くなら沢山の人にみてもらいたいし、でも自分でページ立ち上げるのは面倒・・・って方にぴったりです。現在βテスト中なんで書いてる人少ないからねらい目です(以上宣伝。

で、控え室でしゃべってたら新企画が飛び出しました。水田先生による京都カフェ論がそのうち始まります。目次頂いたので掲載。

京大周辺カフェ/京都カフェ

第1回 茂庵/オ・グルニエ・ドール

第2回 進々堂/HELLO!

第3回 YAMATOYA/柳野

第4回 猫町/リュ・エルゴ

第5回 しずく/フランソア喫茶室

第6回 柳月堂/たま妓

第7回 アッサム/祇園小森

第8回 日仏会館ル・カフェ/ル・フジタ

第9回 ル・ブレ/イノダコーヒー三条店

第10回 京大サロン/エフィッシュ

カフェによく通ってるらしいので期待大です。

俺の方もまたそれなりにこちらで更新していこうかとは思いますんでよろしくです。ネタは貯まってるんで。んじゃま今日はこの辺で。



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