雨の日
僕のすぐそばで,この雨は未だに止む気配がない。昨夜から降り始めた雨は,もう半日以上も穏やかに地面を濡らし続けている。
「強い雨は短時間で止み,弱い雨は長時間続く」。そんな話を中学校の理科で聞いた事がある。人間でいう,短距離走者と長距離走者のイメージと重ねあわせ,勝手に納得した。もう,ずっと前の話だ。
店の掛時計を見てみると,約束の時間まであと10分もある。
つい昨日までその存在を気にも留めなかったこの店に入るのに,駐車場の位置が分からないだの周辺の交通量が予測できないだので手間取るかもしれない事に配慮したのが無駄だった。そもそも,電話で僕を呼び出したのは向こうの方だし,僕も「遅れるかも」と先に言ったんだから,そこまで気を遣う必要もなかったのだ。
入店直後に思わず頼んでしまったコーヒーは,ブラックのまま完全に冷め切ってしまっていて,もう飲めたものじゃない。
さて,どうしてこのヒマを潰したものか。
窓の外は,相変わらずの景色が続いているままだった。
しかし考えてみれば,Iと別れてからもう半年も経っている。今更何の用事だろう。Iが僕の携帯の番号を未だに知っていた事すら,僕にとっては意外だった。Iなら,別れた男の番号なんて,ソッコーで消去してしまうだろうというのが僕の予想だったのに,見事に外されてしまった。
僕等が付き合っている当時,僕はIの行動の大部分は予想できているつもりでいた。
僕が予想し,行動を起こせば,Iは本当にその通りに動いてくれた。それが僕に優越感を与えていた反面,かすかな不安もいくらか生み出していたのも事実だ。
今だからこそ,そう感じているのかもしれないが,それでも,僕の予想に反した今回のIの行動は,新鮮に受け止める事が出来たのだ。
「ひさしぶり」
そう言われて振り向くとIがいた。
「おお。ひさしぶり」
僕が返すと,彼女は僕の正面に座り,じっと僕の顔を見つめてきた。
「ナニナニ?ちょっと照れるんですけど」
嘘っぽい表情で言ってみた。
「え?だってホントに久し振りだなーって思って。元気にしてた?」
このあまりにも真直ぐな対応に,正直,僕は混乱していた。
―――読めない。Iの表情も,口調も,あの頃と何一つ変わってはいないのに。でもどこかが変わっている。
いや。むしろ変わったのは僕の方なのだろうか?
「うん。まあ・・・フツーにしてるよ」
「・・・・・・・」
もう言葉が途切れてしまった。Iは僕が何か言うのを待っているのだろうか。それとも別の何かがあるのか。Iが僕の正面に座って以来,そらされる事の無いでいるその視線を,僕は未だに真っ向から受け止められていない。
「で,今日はどうした?」
本当は向こうの方から切り出させようとしていた話題を,僕はとうとう自ら出してしまった。
「うん。これ・・・」
Iはそう言うと小さな鍵を差し出した。
僕の家の鍵だった。
「ちゃんと返そうと思って」
「ああ。こんなの。そっちで捨ててくれればよかったのに。ていうか,捨てられてると思ってた」
僕はますます混乱した。今になって僕の家の鍵を返しに来るなんて。
「そんな事しないよ。はい。お返しします」
「あ・・うん・・・」
僕はIの言われるままに鍵を受け取った。
「じゃあ,私,帰るね」
Iが立ち上がった。
本当に,これだけだったのか?
「え?ああ。じゃあ,僕も」
慌てて僕も立ち上がった。
このままで良いんだろうか?
僕達は一口も飲まなかったコーヒーの料金を支払い,店を出る。
雨は,未だ止んでいない。Iが傘を差した。
「歩いて来たの?家まで送ろうか?」
「ううん・・・大丈夫。ありがと」
なんとなく,Iの「ありがと」が懐かしく感じた。
「・・・そっか」
もう僕は何も言えなかった。
「じゃあ・・元気でね」
「うん。Iもね」
「うん・・バイバイ・・」
そう言うとIは歩き出した。僕に背を向けて。
僕は車に乗り,Iとは逆方向に発進した。Iを追い越さないように。Iに背を向けて。
伸びていく二人の距離に,ただ,雨だけがふりそそぐ。
雨は,穏やかに地面を濡らし続けていた。