ここでは、13年間の看護婦生活を振り返ってみようと思います。理不尽なことや、馬鹿なことなんかもあったけど、これも大切な私の想い出たちです・・・。
所々に看護研究の一部を掲載しました。

1年目・・・昭和63年
 看護学校卒業後、某病院に就職。ここは、私の看護学校の実習場所のひとつ。物品場所も、先輩看護婦もよく知っている。でも、配属されたところは、個室病棟で、初めてのところ。どきどきしながら、でも、とにかく、早く1人前にならなくっちゃという思いで、先走っていた。(今思うと目も血走っていたような・・・)。でも、毎日、毎日が空振りで。職場にも、なかなかなじめず、大きな失敗も多くて。いつのまにか、やめたいモードに駆られていた。そんな時、ある患者から、「病気について」の質問を受けた。それは、「死」に対する質問であって、1年目の私には、到底そんな質問には答えられなかった。でも、1年目の私に、そんな質問をしてくれた患者と接して、自分だけの狭いレベルで、物事を判断していた自分に気づき、もう一度、大きな目で、心で、看護にぶつかってみようと思った。

2年目・・・平成元年
 ようやく、周りが見えてきた。少しずつだけど、自分の意見もいえるようになった。この年では、皮膚トラブルを持った患者のケアにあたることが多かった。処置をしては、アセスメントして、次への工夫、患者と一緒に看護ケアを考え、実践することの難しさを患者、先輩看護婦から学ぶことができた。同じことを振り返りもしないで繰り返しても前には進まないことを。

3年目・・・平成2年
 病棟ではデスカンファレンスが導入された。医師と亡くなられた患者のケアについてのカンファレンスを毎日行い、看護の振り返りをした。この年に、私は、宗教観について、死生観について、患者を取り巻く家族について考えさせられることが多く、今の私の看護観の基礎となっている。
終末期看護関連 ターミナルケアにおけるデスカンファレンスの効果

4年目・・・平成3年
 病院では、学生指導者が入るようになり、夜勤業務では、いわゆるトップ(年長者)が入るようになった。この年、人を育てる難しさと自分の未熟さをいやというほど、知ることになる。いくら、話しても判ってもらえない、やって見せても、わかっていない。人の欠点ばかりが目に付く、といったないない尽くしであった。それでも、自分の傾向性を少しずつ知ることで、苛立ちや、欠点ばかりに目を向けることが少なくなっていた。でも、人が育つのって10年かかるんだなーって実感して、私を
教育してくれている先輩たちに感謝。

5年目・・・平成4年
 病棟を移動する。その病棟は、新しくできた病棟で、スタッフは、他の部署から集められた人ばかりであった。移動前からその病棟には、気の強い人が集まる、大変な病棟と噂されていた。案の定、物品の位置から、与薬の仕方など、みんなやり方が違っていた。毎日、毎日話し合いで、一つ一つを決めていた。話し合いは、時には、言い合いになったり、涙することもあった。みんな、最初は探り合っていたけど、だんだん率直に言える関係になって、私は、一番、いいスタッフにめぐり合えたと思えるようになった。ひとつの組織が波にのるまでには、やはり最低1年はかかることを知ることになる。

6年目・・・平成5年
 新しい病棟で行われている治療は、私にとって、生まれてはじめて見るもの、聞くものであった。そのために戸惑うことも多く、失敗もあった。なにから、勉強していいのかわからず、戸惑うことも多かった。そんな中、病棟での勉強会が始まり、わからないことが判るようになり、それが、患者に還元できるようになった喜びは高まりつつあった。また、患者との信頼関係も高まり、私の中で、充実感となった。患者から、「死」についての質問がたびたびあったのだが、私は、逃げることなく、患者と向き合って、医療スタッフと連携を取りながら接してきた。原発不明の腫瘍で、意識障害を呈しながらも退院への希望を捨てなかった患者、下肢、仙骨部の褥瘡処置に耐えながらも明るく闘病してきた患者、下半身の麻痺を来しながらもセルフケアに生きがいを見出していた患者が、私を育ててくれたと思っている。

7年目・・・平成6年
 病棟に移り変わってから、少しずつ、研究に取り組むようになってきた。学会誌に一度だけ投稿したことがあった。掲載されるまで、10回も書き直して、本当にいい思いではなく、大変だった。だけど、これが、私にとって、いい糧となった。これから先の看護研究に大いに役立っていた。

8年目・・・平成7年
 骨盤内動注を行っている患者の皮膚トラブルを経験した。私は、化学療法の口内冷却にヒントを得て、臀部の冷却を試みた。その結果、功を奏し、院外に発表することができた。初めての一人での発表ではあったが、楽しい、いい経験であった。そして、私は、戦いつづけた病棟から、別の病棟に移ることになった。このときは、正直言って、いやだった。慣れ親しんだ病棟を離れるというより、もう少し治療について、看護について深めたいと思った矢先の移動だったから。

9年目・・・平成8年
 消化器外科、泌尿器外科のメインの病棟であった。システムもまったく違って、戸惑うことが大であった。この戸惑いは、ある意味、いろんな人がいる、いろんな考えがあるんだなぁと感心させられるものであった。また、スタッフとも馴染むのに時間がかかり、大変だった。そして、新しいことや、管理の新導入に関して、浸透するまでの難しさなどを知った。
看護管理関連(院内研修課題) 自己防止を考慮した行動〜お針箱の使用推進を通して〜
 消化器外科ということもあり、また、在宅へ移行する背景となったことから、HPNの看護に身を投じることなった。研究をするにおいても何をしたらよいのかさっぱりわからずにいた。たまたま、ある患者さんに出会うことで勉強意欲が出てきた。
泌尿器科関連 陰茎切断術を受ける患者の看護

10年目・・・平成9年
 少しずつ、スタッフ、システムに慣れてくる。それでも、今まで、私が学んできたことを、少しでも実践できるように心がけていた。そして、口だけでなく、行動をすることで、スタッフに見せてきたつもりである。学生で指導してきた人たちも少しずつ、同じ職場に働くようになって、成長してきている状況を見ると嬉しく思う。しかし、私の中には、以前のような患者に対しての思いが薄れていくのをなぜか感じるようになった。HPNの指導を通し、患者への在宅生活は、本当に患者にとって、有意義なものなのか、家族の負担はどれだけのものなのか、そして、在宅生活への意向は、患者の気持ちを本当に優先させているのかなど疑問に思うようになっていた。家族の支えがあれば、在宅も有効なのかもしれないが、患者すべてに家族の支えがあるとは限らないのでと思いながらHPN指導に携わっていた。また、殿部にこれまでの経験を超えるほどの大きな褥瘡(床ずれ)に出会う。今までは、先輩に聞くことで、処置をしてきたが、そうもいかなくなり、立場的に率先して動かなくてはならなかった。でも、大変ではあったが、褥瘡に対し、新しい知識・技術が得られ楽しくなってきた。
創傷処置関連 仙骨部にある褥瘡ケアの看護〜観察と洗浄方法・消毒薬の使用について〜

11年目・・・平成10年
 病院の中で、HPNの導入する患者が増え始めたため、私は、院内で使用できるパンフレット作りに精を出すようになった。約1年間かけて、作り上げることができ、HPNに移行となった患者とその病院にパンフレットを配布することで、啓蒙することができた。このころから、在宅で治療している人たちがどんな思いでいるのか、気になりだしていた。
他の病棟のスタッフと一緒に勉強することが多くなり、学ぶことも多い年であった。
化学療法関連 肝動注化学療法による自覚的副作用の日常生活への影響

12年目・・・平成11年
 私は、HPNを通じて学んだことをまとめ、学会に発表することができた。このことは、HPNに移行する患者と家族の気持ちに目を向けるようになり、接することができるようになったと思っている。院内では、HPNに関連した内容の講義もできるようになった。1人の人に説明するのと、多くの人にさまざまなレベルの人に理解してもらえるように講義することの大変さを知る。
在宅関連 消化器悪性疾患におけるHPN導入時期の一考察

 仕事の中で、私は、少しずつ、管理職にある人たちに不信感を抱くようになり、考え方に違いを感じるようになってきた。(それは、とても当たり前のことなのだが)

13年目・・・平成12年
 4月ごろ、私は、おぼろげながらに、もうこの仕事は続けられないように思えた。今まで、多くの患者と接してきて、多くのことを学び、体験できたと思っていた。しかし、これ以上、このまま続けていてもジレンマを感じるだけで、喜びは得られないような気がしたからである。当たり前のことだが、この年にもなれば(自分で言っちゃぁおしまいかしら?)、管理面が少しずつ私の中に支配され、周りから求められるようになり、看護に対する純粋な喜びが少なくなってきた。また、管理職にある人たちへの不信感が広がる自分も感じるようになった。そして、自分の時間を犠牲にしてもがんばっても、この仕事には代わりがいること、もっと自分を大切にしてあげたいという思いが強くなり、私は、13年間の看護婦生活に幕を閉じたのである。

その後・・・
 私は、やめるときに、おなかの中に新しい命を宿していた。しかし、途中で、その命は断たれた。私は、主治医の先生から、赤ちゃんの病気のことや、これからの生活、及ぼす影響など多くの事を聞いた。それは、絶望に近く、希望を失い、自分の命の意味さえも考えさせられた出来事だった。でも私は、なぜか、冷静に主治医の話を聞くことができた。そこには、きっと、今まで看護という仕事を通して得られた死生観が、幼少のころから信仰してきた宗教観が、私に冷静さを保たせたのであろうと思う。そして、今までの看護という仕事に対し、いかに未熟であったか、そして、傲慢であったかを知った。入院中、看護婦さんから、頑張ってといわれた。「がんばって」。この言葉ほど、無責任さはない。けど、勇気ももらえることもある。私、現役のとき、患者によく、「頑張って」といっていた。このときの言葉には、気持ちが入り込んでいなかったことに気づいた。でも、今は、痛みがほんの少しだけわかる人間になって、気持ちのある「頑張って」がいえるような気がする。