がんからの贈り物


生きていると色んな事がありますが、どんな事もプラスにもっていく・・・・・。
そんなかんちの母の体験記です♪
きっと皆さんの参考になるのではないでしょうか。

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───第3回───

【 主治医との出会い 】

 ゴールデンウィークも終わり、いよいよ外科のお世話になる時がやって来た。
自宅で準備を整えていた半月の間、私はこれから迎える一大事に対して自分の力を精一杯発揮すべく、エネルギーを十分に蓄えていた。
5月11日火曜日、初めての外来受診。
私は、自分の手術をしてくれる医師がどんな方なのか、それだけが気がかりだった。
私自身は心の準備が万全であったが、主治医によってあとの運命が決まる、と思っていたから。
 外来での長い待ち時間が過ぎ診察室に入ると、カーテンで仕切られた待合室には先に呼ばれた患者さんが2人、椅子に座って待っていた。
カーテンの向こうからは医師の声が聞こえてくる。私は思わず耳を澄ました。
その声には関西なまりの優しい響きがあり、何故かとても親しみを感じさせてくれた。
診察中の患者さんは女性の様で、羨ましい事に病気は治癒し、今日で診察が終了するらしい。
「はい、よく頑張りました!!」
 という、医師の大きな労いの声が聞こえてきた。
女性の嬉しそうな声がほのぼのとした空気に乗って伝わってくる。
私は、自分もいつか同じ言葉を言ってもらえるに違いないと思って、そのフレーズを心の中で静かに繰り返していた。
 いよいよ自分の番がやって来ると、一気に緊張が高まっていく。
「小西さん、お見えになっていらっしゃいますか?」
診察してもらう医師から敬語で呼ばれたのは、これが初めての事だった。
カーテンを開けて中に入ると、担当の外科医は丁寧な事に、椅子から立ち上がって迎え入れてくれた。
その瞬間私は、患者を大切にしてくれるお医者様だ、と感じた。
廣瀬先生というこの医師は、中年を感じさせないほど若々しく、私の目を見て真剣に話をしてくれた。
先生は、目の前のレントゲン写真とデスクの上に山積みされた検査結果を見ながら、考え込むように腕を組み、私に言った。
「患者さんにはいろんな人がいて、手術をしないで栄養療法とか東洋医学で治そうとする人もいるんですよ。」
 私は内心、えっ?と思った。外科医は手術しか勧めないと思っていたのに、意外な言葉が返ってきたものだ。
しかし、私はもうとっくに手術を受ける覚悟が出来上がっている。
時間のかかる治療よりも、とにかく今、私の体内に居候している余分なものは出来るだけ早く取り除きたい――― そう心が欲していた。
私は夫と二人で、改めて廣瀬先生に手術をお願いし、暫しの対話の末に運命の日は5月31日と決定された。
 その時、先生はこう言った。
「これが始まりだと思ってください。」
私には、その言葉の意味がすぐには理解できなかったが、話が進むうちに少しずつ分かってきた。
どうも、今回の手術だけで終わりではないという事らしい。
それは、手術しても安心は出来ないと言う意味なのか・・・・
いやいや、私のプラス思考は、この手術は無事に終わるという事だ、と教えてくれている。
今回が無事に終わるから、又次があるのだと。

【 あなたの人生ですから 】

 一週間後の5月18日、入院の準備をすっかり整えて私は外科病棟に入った。
私の心は以前決めていたとおり、入院生活さえも楽しんでしまおうとしている。
だから先ず、第一に私は病人らしくない。
ガンと言ってもまだ自覚症状がある訳ではないので、見た目は全くいつもと変わらないのだ。
パジャマこそ着ていたが、部屋では他の患者さんと明るく笑談をし、廊下はスタスタと歩き周り、出される食事はすべて平らげる。
看護婦さんと冗談を言ったり、お見舞いに貰った花の手入れにいそしんだり、どう見ても病人とはかけ離れていた。
「あんたは若いのに、どこが悪いんだね?」
とうとう、不思議に思った隣のベッドのおばあさんが声をかけてきた。私は何の躊躇もなく、
「ガンなんですよ」
と、笑顔で答えた。おばあさんは、少し困ったように、
「ほう・・・」
とだけ小声で言った。
驚かせてしまったかしらという心配よりも、『笑いながらガンですなんて言う人はいないのかな?』と、少し反省をした。
 外科の婦長さんは、夫との面識があったのでとても身近に感じられ、お陰で楽天的入院生活を送ることは、より一層実行するのが容易になっていたのかも知れない。
 入院二日目、主治医の廣瀬先生がエコーをやりながら暫く話をしてくれた。第一声は、
「普通こういう病気の人は・・・・・もっと落ち込むんですが・・・・?」
と、やはり先生も私の明るさには首をかしげていたようである。
発病からこれまでの心理的な葛藤や昇華を全て説明する時間も無いので、私もそのまま首をかしげて微笑みでごまかした。
ただ、息子の心臓病の思い出から、私は病院というものに対しては感謝の気持ちを持っている旨を伝えておいた。
先生との話は、私の家族のことから始まり、過去の入院経験の事、息子の病気についての事、ベッドの棚に並んでいる愛読書の事、等々・・・。話が妊娠中の娘の事になると、
「娘さんとそっくりですね、姉妹みたい。」
などと言ってくれる。私が若く見えたのか、体型の感じが似ていたのかは定かではないが・・・。
 こんな風に先生がゆっくりと話をしてくれた事は、私と家族が病気に対してどのように立ち向かっているのかを把握する為の、コミュニケーションだったに違いない。
 ある程度の事が掴めたであろう頃、先生はこう言った。
「あなたの人生ですから、あなたの気持ちを一番大事にして治療します。」
 私は又もや、えっ?と思った。いわゆる医師に対する今までの私のイメージは、全く逆だったからだ。
普通、医師というのは威厳を持って患者に向かい、医師の考えだけで治療方法を決定し、患者はおとなしくそれに従うものと思っていた。
私は驚いて訊ねてみた、今の先生は皆そうなのですか、と。すると、
「いや、他は知りません。が、私はそうです!」
と、きっぱりと返事が返ってきた。
私は、この先生になら私の運命を委ねる事が出来る、とその時確信をした。
それは次第に、主治医に対する絶大なる信頼へと膨らんでいくのだった。

【 肝臓カテ―テル 】

 入院4日目、手術前の大きな検査が行われる日であった。
肝臓にも転移をしていたガンの病巣を詳しく診るために、私は肝臓の血管造影検査を受けていた。
検査と言っても、手術と全く同じような準備をして部屋を出て行くのである。
じわじわと緊張感が増していく中で、緑色の手術着に着替えて点滴を打ち、それでも元気に手を振りながらストレッチャ―で出て行く私。
見送る夫の様子は、心なしかおろおろしているように思えた。ところが、娘はいつもと変わらぬ笑顔で見送ってくれている。
さすが、女は強し…などと感心しているうちにストレッチャ―は検査室に着いていた。
 一時間以上にわたる検査は、確かに大変なものだった。
太腿の付け根にある動脈からカテーテルを入れるのだから、仰向けに寝たまま絶対に動くことは出来ない。
私は、次第に襲ってくる腰の痛みをこらえるのがひと苦労だった。
 廣瀬先生は、レントゲンに映し出された病巣を見ながら、
「悔しいなあ!」
 と、しきりに悔しがってくれていた。
その声には本当に悔しさがこめられていたが、当の私は、ガンと仲良くしてしまっていたので、
「私はあまり・・・悔しいという気持ちは無いんですが。」
 つい本音を言ってしまった。
だが、私の為に何度も悔しがってくれる先生の暖かさが身にしみて、私も少しは悔しいと思わなくてはいけないのだ、と、また反省をした。
 部屋に戻ると、自分のベッドに移ることさえ自分でしてはいけない。
ストレッチャ―からの移動は数人の看護婦さんたちが、掛け声よろしく私を寝たままの格好で動かしてくれた。
さぞ重かっただろう、と申し訳なく思ったが、明日の朝まで安静にしなくてはいけないと言われ、気が遠くなる思いがした。
だが、そんな状況でも、夕食はとても美味しく頂くことが出来た。
もちろん自分では食べられないので、夫が口まで運んでくれる。
嬉しいような、恥ずかしいような、このまま甘えていたいような・・・・・
ところが、後から聞いた話によると、この日は4人の患者さんが同じ肝臓カテーテル検査を受けたのであるが、夕食を平らげることが出来たのは私ひとりだけだったと言う。
 前向きな考え方は、食欲も守ってくれるのだという事を初めて知った。

【 ガンの本 】

 翌日、廣瀬先生は手に分厚い本を持って現れた。
それは、暑さ10cmくらいもありそうなガンの医学書であり、その所々に付箋がつけてある。
開いてみると、付箋のついたページが私に関係のある所なのだとすぐに分かった。
私は喜んで早速読み始めることにした。
この本のサブタイトルは〈自分で選び、決定するために〉と書かれていて、ガンというものの一般的な説明から始まり、それぞれの発生部位ごとに分けられたガンの詳細、そして、ガンを受け止める心の持ち方など、微に入り細に入り記されていた。
 私は先ず、自分のガンの進行がどの辺に位置しているのかを知りたくなった。
読んでいくと、その進行度はステージと言う言葉で表現されていて、ステージ0からステージ4まであるという。
説明を見ると、既に転移したガンは全てステージ4であるという事が分かった。 『私のガンはステージ4・・・・これより上はないのか・・・・』
 だが、がっかりしている暇はない、私はすぐに治癒の可能性を調べてみた。
肝臓に転移をした大腸ガンの場合、手術によって奇麗に病巣が切除された時の5年生存率は、25%と書いてある。
5年生存率とは、5年経てば一応大丈夫という事なのだろうか、それにしても25%というのは心もとない話である。
しかもこれは手術が成功したと仮定して、初めて出る数字なのだ。
だが、手術は必ず成功すると信じていたから、私は生存率が0%でないことに注目をした。
可能性が0でない限り望みは十分にある筈だ。
そう、25%もあるのだ! 私の一番偉かったところは、残りの75%を見なかったことである。
 次の日から2泊の外泊許可を与えられて家に帰った私は、分厚いその本を一緒に持ち帰った。
続きを読むのが楽しみで・・・。 だが、家にいると不思議と時間がない。
何をするというわけではないが、何となく時間が過ぎて行ってしまうのだ。
私は、先生がくれた外泊の意味を考え直し、家族とのプライバシーが守られているその大事な“水入らずの時間”を充実して過ごすことにした。
本は病院に戻ってから読むことにしよう。
束の間の外泊も終わり、家族水入らずの時間はあっという間に過ぎていった。
そして再び楽しい? 入院生活が始まると、私は待ちきれずにすぐに本の続きを読み始めた。
284ページ、〈信念と意味づけ〉と題された個所には、こんな事が書かれている。
『多くの人が、次の三つのうちいずれかのスタイルで痛みに反応する。
痛みを罰として受け止める、敵とみなす、あるいは挑戦とみなす、という三つのとらえ方である。
痛みを罰とみなす人たちは、自分はこれまでの人生で、このような不運を報いとして受けるような、どんな間違いをしたのかといぶかる。
痛みを敵とみなす人たちは、自分が攻撃されているとか、強奪されていると感じ、絶望感を持つことがしばしばある。
けれども、痛みを挑戦とみなす人たちは、痛みに打ち勝ち、自らの状態をよりよく把握できるようになるために、何か出来ることがあることを信じる。
この人たちは、抑うつの度合いが低く、物事に立ち向かう戦略も多くもち、抵抗力も強く、そして最も重要なことであるが、痛みが軽い。』  なるほど、と思った。私はきっと第三のとらえ方をしているのだろう。
何か痛みを感じた時には、罰でも、敵でもない、自分に対する挑戦だと自然に受け止める事が出来ているようだ。 
このとらえ方は、ただのプラス思考というよりも、どうも若い頃に鍛えたスポーツ根性からきているのかも知れない。
 今はテニスをやっているが、昔の私はバレーボールに明け暮れていた。
今のバレーと違って、体育館ではなく屋外のコートで絞られるのだから、暑さ、寒さに負けてなんかいられない。
回転レシーブをすると膝が切れ、傷口に地面の小砂利が入ってくる。
吹雪の中での練習は、指先が割れてボールに血が滲む。
夕立に打たれながら、台風の余波で飛ばされそうになりながら、それでもバレーが好きで練習を続けた事もあった。
今思えば随分とむちゃな事をしていたものだ。
けれども、そのお陰で今の私が強くいられるとしたら、こんなに歓迎できる事が他にあるだろうか。
 そう考えているうちに、私の心にはじわじわと昔のチャレンジ精神が甦ってきた。
 確かに、ガンと仲良くするのは構わないし、その方が気持ちも楽でいられるに違いない。
しかし、もしも私がそのガンに負けてしまう様な事になってしまったら元も子もないではないか。
やっぱり、ガン殿には私の体から絶対に出て行ってもらわなければ・・・絶対に!
 私はその時初めてガンと闘ってみよう、と思った。
それは山奥で密かに湧き上がる泉に似て、私の心の中に静かに、だが確実に浸透していった。  目を戻して本の続きを読み始めると、何かと気になることが多くて読むのを止められない。
所々に質問の付箋をつけて、私は廣瀬先生に尋ねてみることにした。
内容は些細なことばかりであったが、先生は一つ一つの質問に全て答えを与えてくれた。忙しい仕事の合間を縫って・・・。
 こうして、私の手術に臨む心構えは、先生への信頼と共に大きく確立されていったのだった。

<続く>

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