【 大部屋で 】
個室を出て6人部屋に移った私は、空いたばかりの窓際のベッドに落ち着いて、多すぎる荷物を整理していた。
先住のみんなはとても優しく迎え入れてくれて、これから先の入院生活も私にとってはエンジョイ出来そうな気がした。
向かいのベッドには60代後半かと思われる女性がいて、どうも食事を摂ることが出来ない様子だ。
点滴のポールに白い流動食を提げて、一滴づつ胃に流し込んでいる。
聞けば、Bさんというその人は、昨年胃の全摘手術を受けて、今回再発の治療をしているとの事。
時折、思い出したように
「漬物が食べたいなぁ」
と言っていた。もちろん、私と同じガンであった。
隣のベッドのSさんは、83歳の上品なお婆さんだった。
丁寧な言葉使い、お年とは思えない頭脳明晰さ。主治医が私と同じ広瀬先生なので、何かと話が合う。
お腹に腫瘍があると言っていたその方は、やはりガンであったが、最初、手術を受ける事にとても消極的で弱気だった。
「私は手術が終わったら、はいさようならですね。」
と言って、先生に怒られたらしい。
「手術が終わったら、残りの人生を最後まで先生のお世話になります。」
そう言い直すと、先生は喜んで、がんばりましょう!と言ってくれたそうだ。
感激しながら私に話してくれた時の顔には、何かが吹っ切れたような明るさがあった。
Sさんは手術が終わると個室へ移って命の戦いを演じていたが、何日か経って歩けるようになると、娘さんに抱えられながら、真っ先に私の部屋へ来てくれた。
私達は手を取り合って手術の成功を共に喜んだ。そこには、同じ病と闘っているという大きな共通感があり、お互いに心の底から、熱い命の息吹を確かめ合える喜びがあった。
ガンになった人の気持ちはガンになった人でないと分からない、と言うのは事実かも知れないと思う一瞬だった。
マムシに噛まれても、命拾いした人がいるかと思えば、猫に噛まれただけなのに、足が化膿して動けなくなった人もいる。
虫垂炎の人、腸閉塞の人、痔の手術を受けた人、外科には実に様々な人が、様々な治療を受ける為に入院していた。
だが、はっきりと分かっただけでも、この部屋の6人中、過半数の4人はガンを患っての入院だ。
私は、今やガンというのは珍しい病気でも不治の病でもない、という事を知った。
Sさんが出てから隣に来たのは、4人目を妊娠中の若いお母さんだった。
入院中のみんなにはそれぞれにドラマがあり、人生とは?人間とは?何度も深く考えさせられたものであるが、このTさんにもまた深いドラマがあった。
若くして遠く沖縄から嫁ぎ、3人の子供を育てながら自営の花作り農家を手伝っていた彼女は、乳がんの宣告を受けていた。
もちろん妊娠中であるから、産婦人科へ掛かっていたのだが、ガンの発見と共に外科へ回されてきたのである。
医師達はとても慎重だった。
時折、産婦人科の主治医である女医が心配そうに様子を看に来ていた。
彼女の話によると女医の一番の心配ごとは、過去にあった同じような症例の中で、2人の患者さんが手遅れで亡くなってしまっているということだ。
出産するまで手術を延ばしていた為に・・・。女医は目に涙を浮かべながら話していたと言う。
新しい命を誕生させるという一大事業の後に、そんな悲しい結末があって許されるわけがない。
何としてでも彼女を助けたいという、静かではあるが激しい気迫が私には感じられた。
Tさんが手術をするに当たっては、麻酔が一番の難関だということであったが、これは素人の私にも想像するに難くない話である。
お腹の赤ちゃんにまで麻酔が効いてしまったら、大変な事になるのは一目瞭然、外科においても、すぐには手術を選択できないでいる様子だった。
とりあえず、詳しい検査結果が出るまで、何日かの昼夜を私の隣で過ごし、彼女は一旦、退院していった。
Tさんが退院した後に来たNさんという女性は、私の隣のベッドに入るなりテキパキと片づけを始めて、入院生活に足りない物を洗い出していた。
その慣れた仕種に、経験者である事はすぐに分かる。
案の定、向かいのベッドのBさんとは顔なじみの様子で、仲良く話に花を咲かせていた。
同じ病院で、同じ部屋に寝泊りするということは、ある意味で異常なほどの連帯感をもつことがある。
しかも同じ病気なら、なおさらの事。
初対面でも2〜3日すると、親戚以上の親近さを覚えるものだ。
私と同じ大腸からガンが始まったと言うこのNさんは、
「あたしゃあ、何度も切ったよ」
と、その場で私にお腹を見せてくれた。
私もすぐにパジャマをめくり上げてお腹を見せた。
そこには、恥ずかしいなどという気持ちは欠片もない。
彼女は人一倍面倒見が良く、部屋のみんなの手助けになる事を良くやってくれた。
食事が運ばれてくると真っ先にドアまで行き、一人づつ手渡してくれる。
歩けない人の分はベッドまで運んであげるのが当り前。
何かと人の為に働くのが好きな様だった。
しかも、それがごく自然に行われていて決して恩着せがましくない。
周りの雰囲気は当然の如く明るいものになり、私のいる大部屋は助け合いの空気が漂う、和やかな共同の“リビングルーム”になっていった。
6人共に元気な時は、笑い声や冗談の飛び交う賑やかな合宿所となり、手術直後の苦しい人がいる時には、皆が静かに静かにと気を使いながら生活をする普段の病院の大部屋に戻るという、それは、ごく自然に出来上がった理想社会の縮図の様であった。
【 外科病棟 】
大部屋で生活していると、個室では気が付かなかったような事が見えてくる。
重症扱いが終わったという安心感が、心にゆとりを持たせるのであろうか。
私は何とは無しに病棟全体に目を向けるようになっていた。
外科病棟の一日は忙しい。
救急車のサイレンは、日に何度となくけたたましく鳴り響き、廊下を行き交う医師や看護婦の急ぎ足が、緊迫感を最高潮にする。
真夜中に大勢人が集まって、テレフォンカードの「ピーピーピー」という音が、廊下にこだますると、危ない人がいるのだとわかる。
家族の名前を呼びながら、泣き叫ぶ声が聞こえたりする事もある。正に生命の戦いの最前線だ。
そんな時、私はいつも思う。激務に自分の体力を削りながら、人の命を救おうとしてくれている人たちの大勢いる事を・・・。
私の担当看護婦は偶然にも、娘の高校時代、同じ部活にいた後輩だった。
しかも、丁度娘と同じ頃に出産を迎えるという妊婦さんであり、娘も私も何かと頼りにしていた。
彼女は妊婦でありながら、普通の人と同じように仕事をこなしている。
娘にとっては、この上ないお手本になり、大きなお腹を抱えての看病も、いつしか何の苦もなく出来るようになっていた。
私は常日ごろ不思議に思う事があって彼女に尋ねてみた。
手術中に、医師や看護婦はのどの渇きをどうしているのか?トイレには行くのか?私のように長時間掛かる手術の時は休む時間はあるのか?と。答えは力強い口調で返ってきた。
「手術中は、水も飲まない、トイレも行かない、終わるまで休みもない。先生達も頑張っているんですよ。」
考えてみれば、確かにそうでなくてはならない筈だ。
お腹を開けられたまま、例え少しの時間でも空白があったとしたら、患者にとっては命に関わる事なのだから。
しかし、それにしても大変な仕事だ!と、私は改めて実感すると共に、じわじわと深い感謝の気持ちが込み上げてきた。
私が今、生きていられるのは、こうした人たちのお陰だ、と。
外科病棟の看護婦さん達は、みんなとても優しかった。しかも美人が多い。
身も心も弱っている患者たちにとって、この優しさは本当に白衣の天使と呼ばれるにふさわしいと思った。
テキパキと仕事をこなすベテランも居れば、看護見習中のまだ初々しさの残る子もいる。
みんなしっかりとした個性の持ち主で、何と言っても仕事に大きな誇りを持って従事している事に一番の感動を覚える。
婦長さんの元気の良さは飛び切りで、回診の時には真っ先に部屋に入ってきて、「おっ早ようございま――す!」と、大きな声を響かせる。
患者達はいつもその婦長さんの元気を分けてもらっている様だった。
私も大勢の看護婦さんと仲良くなっていた。
脈を取ってくれている看護婦さんに、「ドキドキドキ」と鼓動の口真似をして大笑いされたり、妊娠中の看護婦さんのお腹をさすりながら「元気な子になあれ」とおまじないを掛けてみたり、真夜中に見回りに来た看護婦さんに向かって、眠れないでいた私は指でピースサインを送ったことがある。
「大丈夫です」というつもりでやったのだが、彼女はどうかしたの?と慌てて顔を覗きに来た。
毎日の検温の際にも、そこそこに冗談が飛びかって、彼女達との語らいはとても楽しかった。
夫は、タイプの看護婦さんが来ると嬉しそうに「ファンなんですよ」などと言って、ニコニコしながら話をする。
私は苦虫を噛み潰しながら、「じゃあ、私は先生のファンになろう」と、いじけて見せた。
側では、娘がくすくすと笑いをこらえながら、ほほえましそうに私たちを眺めていた。
【 熱血先生 】
そんな私に再び異変が起きたのは、大部屋に移って一週間が過ぎた頃であった。
それまでは全く順調に回復をしていき、外科ではお目にかかったことの無い医師が私を見に来て、回復の早さに首を傾げるほどだった。
それほど元気な私が突然、原因不明の発熱に悩まされ始めたのだ。
レントゲン、血液検査、エコー、と検査をしてみてもはっきりした原因が判らない。
熱は38度台を繰り返し、一時はひどい悪寒を伴った39.9度という、私の歴史始まって以来の高熱に襲われた。
暫く抗生物質の点滴を受けたりしていたが、わき腹に痛みも伴って、さすがの私も元気を無くしていた。
そんな、自分らしくない状態が5日程続いた頃、CT検査で胸郭に水が溜まっている事がわかり、水を出す為の管を背中から挿入される事になった。
処置室のベッドに腰掛けた状態で看護婦さんにしがみつき、私はグッと歯を食いしばりながら、背中の痛みを必死でこらえる・・・。
数十分の時が過ぎたようだった。
「すごい、微動だにしなかったね。」
と、処置が終わってから誉めてくれた先生の言葉が嬉しかった。
こらえた甲斐あって一時的に熱も下がり、私の体は落ち着きを取り戻したのではあるが、又もや38度台の熱が繰り返されるようになってしまった。
次の日、廣瀬先生は外来の診察日であったが、終わると同時にレントゲン室で肝臓の検査を始めてくれた。
発熱の原因を究明する為である。
右胸から肝臓に向けて管を刺し込み、レントゲンで見ながら患部を探すというこの処置は、丸々2時間掛かった。
その間ずっと私は、背中の時以上に歯を食いしばって、汗と涙でぐしゃぐしゃになりながら必死で痛みに耐えていた。
担当の看護婦さんが、私の手をしっかりと握りながら、
「OOさん、頑張って!もう少しだからね」
と、励まし続けてくれたのを覚えている。
廣瀬先生は他の二人の医師と共に、患部を探すことに本当に一生懸命だった。
通常、X線を扱う時には、遮断の為の前掛けをして慎重に対応するものなのだが、廣瀬先生だけは前掛けもせず、写真を撮る時にも光線から手をどかさないで、汗だくになってやってくれている。
目をつぶって耐えているだけの私にも、先生方の話の中からそれだけは把握する事ができ、だからこそ私は頑張り続ける事ができたのだ。
どれくらいの時間が過ぎた頃なのか、
「あったー! 見つかったよ!OOさん、良かったね!!」
と、大きな声で私の肩を叩きながら先生は何度も何度も喜んでくれた。その声は、検査室の廊下で待っている娘にまで届いたという。
管の先に小さなボトルをつける処置が終わって、車椅子に乗ったまま廊下に出ると、たった今、仕事先から駆けつけたばかりの夫が、手術以来の心配そうな顔で娘と共に待ってくれていた。
私は急に、長い闘いの疲れが押し寄せてきてホッとすると同時に、家族という名の大きな安心の海に浮かべられた小船のように、ゆらゆらと心地よい時間を得ていた。
発熱の原因は、肝臓の切り口に菌が入って水が溜まった事によるもの。
刺し込んだ管で、除菌をしながら菌の種類を見つけ、抗生物質で治療するので少し時間が掛かる、ということだった。
先ずは難関を乗り越えて、私たちは大きな安堵感を味わっていた。
それ以後、私の体は熱も出さず、特に異常もなく、以前と同じように順調に回復をしていくのだった。
【 幸福の定義 】
こんな体験をしている私を見て、普通の人はこう言うに違いない。
「可哀想に・・・」と。そして、何と不幸な目に合っている事か、と同情の目で見ることだろう。
しかし、私にはその時、“不幸だ”という自覚は全く無かったのである。
何故なら、幸福や不幸というものは、その人の、心の中に住むものだから。
いつも私は思っている、絶対的な幸福というものも無ければ、絶対的な不幸というものも無いと。
ただ何かと比較することによって、より幸せ、より不幸、ということが言えるだけである。
比較の対象は他人であったり、過去の自分であったりするが、これも心の持ち方一つで、簡単に変えることが出来るのだ。
今の私は、確かに他人から見れば、不幸に見えるであろう。
しかし私は心の奥に、その不幸な出来事を幸せに変える力を持ち合わせていた。
『こんな私を、周りの人たちが皆で心配してくれている・・・』そう思うだけで、私には幸せが訪れる。
『もっともっと薄幸の人も居る筈だ。私はまだ恵まれている、有り難いことだ・・・』と。
そう、感謝の気持ちを大きく膨らませるのである。
夫や子供に対する感謝、先生に対する感謝、看護婦さんに、母に、友人に・・・・・全てのものに有り難い!と思う気持ちを持つことで、私はいつでも幸福を得ることが出来るのだった。
もし、周りの全ての人が、あなたを幸せだと思っていても、あなた自身が不幸だと感じていれば、あなたは不幸者である。
もし、周りの全ての人があなたを不幸だと思っていても、あなた自身が幸せと感じるならば、あなたはこの上ない幸せ者になれる。
幸福というのは、いつでも自分の心が決めるものなのだ。
この世の中で、最も幸福な人は誰か?と問われれば、私は空かさず答える、「自分が一番幸せだと思っている人」であると。
夜明け前の静かなひと時、私はベッドの上でよく瞑想をしていた。
私が幸せでいる為には、良い事だけを考えることが大切だから、『私は必ず良くなる!』と何度も何度も自分に暗示を掛けていた。
そして、元気になった自分を脳裏に鮮やかに思い描いて、「ありがとうございます」という感謝の言葉を心の中で繰り返す。
すると、不思議な事に本当に有り難いという気持ちになってくるのである。
この瞑想を教えてくれた人生の先輩に、今は、改めて感謝の念を抱いている私なのであった。