がんからの贈り物


生きていると色んな事がありますが、どんな事もプラスにもっていく・・・・・。
そんなかんちの母の体験記です♪
きっと皆さんの参考になるのではないでしょうか。

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───第7回───

【 散歩 】

 こんな幸せな私の外科病棟での毎日は、歩く事でたくさんの元気を得ていた。
毎朝、5時半頃になると起きだして散歩に出掛ける。
先ずは屋上へ行き、朝の空気を胸一杯に吸いながら、3周ほど手すりに沿って歩いてみる。
誰もいない時は、大きな声で歌を口ずさみながら近くを飛び交う小鳥さんに挨拶をする。
屋上から南の方に目をやると、住み慣れた町の繁華街が広がっていて、まだ人通りのない県道では今朝も又、パン屋のトラックのハザードランプが点滅している。
ぐるりと向きを変えて北の方角を見ると、国道一号バイパスが手に届く所を走っており、早朝だというのに、列をなした大型トラックが地響きを残して走り去って行った。
そのバイパスのずっと向こうには大小さまざまの山が、朝もやに霞みながら木々の緑を誇っているのが見える。
歩きながら思いっきり両手を広げ、その遠い朝もやを吸い込むほどの大きな深呼吸をすると、私の体は一気に目覚めてくる。
生きているんだ!と実感できるこんなひと時が、私は大好きだった。
屋上からの帰り道、エレベーターホールの壁にはツバメの巣があって、孵ったばかりの雛たちが「ピーピーピー」と賑やかにおねだりの合唱をしている。
幼い命というものは、いつでも生命力を一杯に溢れさせて、周囲の人々に生きる勇気を与えてくれるものだ。
だからであろうか、日中ここのホールには、良く人が集まって団欒していた。
 ゆっくりと階段を下り、私の住まいである5階外科病棟に戻ると、私はいつもロビーの片隅に置いてある鉢植えに目を運んだ。
私の背丈よりも高いパキラは、日ごとに成長する新しい芽をつけていて、赤ちゃんが小さな手を広げたような新芽が、枝の先で踊っている。
毎日その芽が少しだけ大きくなっているのを確かめて、そっと触りながら、おはよう!と言うのが、日課の一つであった。
もちろん、ここでも私は大きな生命のパワーを貰っていた。
 そこから新館の方へ歩いて行くと、長い廊下の向こうには有名なミレーの「おちぼひろい」が飾られている。
今までの私は、名画と言われるものにさほど関心は無かったが、毎日見ているとじわじわとその素晴らしさが伝わってくることに気がついた。
広い農場で、落ち穂を拾うために腰をかがめている婦人たちの背中には、肩甲骨によるわずかな衣服のしわまでもが描かれているのだ。
繊細な描写の美しさと共に、かもし出す雰囲気の豊かさを身体で感じ、まるで、自分がその絵の中に融合されてしまったような、錯覚のひと時を楽しむ事も出来るようになってくる。病気にならなかったら、多分一生経験する事は出来ないであろう、と思えることの一つであった。日ごとに発見されていくこうした様々な魅力に、散歩の楽しさを益々実感していくのが、最近の私であった。

 こんな風に散歩を楽しんでいると、毎朝決まって同じ頃に屋上で会う人がいる。
30歳前後の女性で、交わす挨拶がとても感じが良いと思っているうちに、向こうから先に声を掛けてくれた。
私たちはすぐに打ち解けた。以来、朝の散歩では彼女との会話が楽しみの一つになっていた。
4階の内科に入院しているKさんというその人は、体力がなくて日常生活に支障があるのだが、やっと少し食べられるようになって散歩をしていると言っていた。
食べられないという心配を経験した事のない私は、術後、食事を腹八分に抑えて体重が減りつつある事に喜びを感じていたのだが、
「体重が減って喜んでいるのはOOさんくらいなものだよ。」
と彼女に言われ、苦もなく食べられる事が如何に幸せなことであるかを知らされた。
 私がガンである事を告げると、Kさんはこの上もなく心配そうにしてくれた。
しかし、病気に負けないで、明るく毎日を過ごしている私を目の当たりにして、逆に、彼女自身、
「私のほうがまだマシなんですよね。」
と言いながら、いくらかの勇気を得てくれているようだった。
私は嬉しかった。私の頑張りが他の診療科の患者さんにも元気を分けてあげる事が出来た、ということを知って・・・。

 そんな、散歩大好きの私にある日、“ただいま散歩中です。すぐ戻ります。”というメッセージを書いたパネルを、夫が作ってきてくれた。
奇麗な星のマークに囲まれたA4サイズ紙の中の文字は、私は元気ですよ! と、アピールしてくれている様だ。
そのパネルを枕の上に置いて準備を整えると、さあ出発。
朝だけで終わらない私の散歩トレーニングは、夫や娘と一緒に歩く時も含めて日に何度となく繰り返される。
そのため、お見舞いの人がパネルを見つけて、微笑みながら待ってくれている事もあった。
このパネルは、看護婦さん達にも、医師の間でも結構評判が良かった。
それもそのはず、医療スタッフにとって、患者が元気であるということはこの上ない喜びなのだから。

【 見舞い客 】

 患者として長いこと病院にいると、お見舞いに来てくれる人達との間に大きな隔たりがあるような錯覚を起こしてしまうことがある。
見舞われる側と見舞う側は別の世界に居るような・・・。
しかし、患者と見舞い客とは紙一重であり、いつ立場が逆転するかは分からないのだ。
そして、患者に数々のドラマがあるように、見舞い客の中にもやはりドラマがあった。
私の所へ幾度となくやって来てくれた近所の奥さんは、昨年同じこの病棟で、しかも私と同じガンでご主人を亡くしている。
「OOさんは、頑張ってね!」
と心をこめて言ってくれる言葉に、私はしっかりと頷いて元気になる事を誓った。
が、ご主人と一緒に長い間過ごしてきた、この見慣れた病棟に来る事は、悲しみを呼び戻すばかりでさぞ辛かったに違いない。
それでも彼女は何度も何度も来てくれた。
忘れようとしている心とは裏腹に、忘れたくない・・・という切ない想いが胸の奥に秘められているのを私は感じていた。
時に彼女は、まだ諦められないと言ってそっと涙ぐむ事もあったのだ。
人が一人、命を亡くすということは、こんなにも残された人に影響の影を落としていくものなのか・・・。
ご主人の分まで頑張って生きて欲しい、と思いつつ『やはり、私は死ぬわけにはいかない!』と、改めて心の中で自分自身を叱咤していた。

時には、突然訪れる嬉しい見舞い客もいる。
隣のベッドから退院して1週間ぶりに来てくれたのは、あのTさんという乳がんの妊婦さんだった。
1週間しか経っていないのに、とても懐かしいような感覚を共有して、再会を喜び合っている彼女には、一つの悩みがあった。
小学校高学年になる長男が、病気の発覚と共に彼女に口をきいてくれなくなったというのだ。
母親に訪れた突然の病気、しかも子供ながらにも聞いたことのあるガンという病名は、自我が芽生え始めるこの子にとって、正に青天のへきれきだったに違いない。
母親にどう接したら良いのか分からず、きっと小さな胸を痛めていたことだろう。
しかし、その息子に対してどのように接してあげたらよいのか、彼女にもそれは分からなかった。
私には何もしてあげる事は出来ず、少しでも気が休まれば・・・と、ただ黙って話を聴いてあげていた。
そして、私のベッドの横で暫くの時を過ごし、やがて彼女は帰っていった。
 数日後、そのTさんは再び入院してきた。やっと手術が決まったのである。
私と同じ部屋には入れなかったが、私達はよく行き来をしていた。
「私にも御利益があったからきっと効くはずだよ。」
そう言って、私は自分と同じ神社のお守りを彼女に渡すと、彼女は大事そうに、それを握り締めてくれた。 
いよいよ手術当日、朝早く彼女が私の所にやって来た。
ベッドに並んで座った彼女は急に涙ぐみ、前夜あの長男がお見舞いに来て手紙を渡してくれた、と静かに語り始めたのだった。
それまで笑談をしていた部屋の人たちは皆すぐに自分のベッドに戻り、気を使ってそっとカーテンを引いてくれた。
彼女が貰ったその手紙の最後には、『お母さんは、僕のお母さんだから絶対に死なないで!』と書いてあったと言う。
あふれ出る涙を手で拭いながら話す彼女。私は、良かったねという気持ちを込めて、背中をなだめるように叩きながら、
「大丈夫だよ、大丈夫だよ!」
と、何度も繰り返していた。
 そして数時間後、緑色の手術着に包まれた彼女は、ストレッチャ―の上から元気に手を振って、手術室に向かって行った。

【 記念写真 】

 大部屋に移ってから5週間が過ぎていた。
その後順調に回復を続けてきた私には、嬉しいことに退院という言葉がちらほら聞かれるようになってきた。
肝臓に同居していた管は2度の入れ替え処置を経て、最後にさし込まれていた簡単な管も、廣瀬先生の回診で私の体から姿を消そうとしている。
「ここに顔の絵を書いて・・・良くあるじゃないですか。」
と、私のお腹を見ながら真面目な顔で言う先生の言葉に戸惑っていた私は、意味がわかった瞬間、看護婦さんと目を合わせて吹き出した。
そして、その突拍子も無い冗談に私は絶句した。
あとから思った。『先に、先生の腹踊りを見せてくれたら、書いてもいいですよ。』と言えば良かったな、と。
ボトルも管もくっ付いていない私の体は、久し振りに軽くなった様な気がした。
実際、食事をいつも90%に抑えていたお陰で、体重も9kgほど減っていたからなお更の事である。
しかし、喜ぶ私に向かって先生は、
「それは、筋肉が落ちただけですから。」
と、いとも簡単に言ったのだ。少し気落ちしたが、お腹の脂肪はやっぱりもっと減らした方が良いと言われ、妙に納得。
だったら保険が利かなくてもいいから脂肪を削って貰おうかしら、などと思ったりする私だった。
そんな、和やかで嬉しい気分になってから、私はこの貴重な体験を記録に残しておきたいという衝動に駆られ始めていた。
まさか入院の様子を喜んでカメラに納める人など居ないであろうが、私はこの入院生活も自分の人生における立派な歴史の1ページだと思っているのだ。
マイナス思考で悪い事ばかり考えていたら、決して思いもつかない事であろうが、この歴史の1ページは私の人生の中で、一段と輝いているものであると思いたかった。
 娘の後輩である看護婦さんが来た時、私は早速それを実行に移した。
スッピンなのは気になったが、却って奇麗にお化粧をしていたら気持ちが悪い。
患者は患者らしく、それなりに・・・。
娘の指がシャッターに触れて、私の入院生活の記録はしっかりと留められた。
続いて彼女と娘も二人並んで指でピースサインを作り、高校時代にタイムスリップしたような顔で、同じくそれなりにカメラに納まった。
顔は学生に戻っていたが、妊娠中の二人のお腹はやはりそれなりに見事であった。  そんな日々のある夕暮れ時、現在の病状や退院後の注意などについて、夫と私は先生から1時間にわたる説明を受けていた。
CT検査の結果でも、血液検査でのCEA(腫瘍マーカー値)を見ても、腫瘍の存在は全く無し、ということで、一週間後の7月21日水曜日に退院は決定された。
退院後は飲み薬を出す予定、外来は2週間ごと、生活は殆んど普通に家事が出来るくらい・・・と説明が終わった時、夫と私は相談していた通り、記念写真を撮らせて頂きたいとお願いしてみた。
先生は意外にも、とても喜んでくれて、
「こんな当直明けのボサボサでいいんですか?」
と、たれた前髪をかき上げながら、少し緊張して椅子に座り直した。
私も中途半端に伸びていた髪をかき上げて、
「キンチョー・・・」
と言いながら座り直すと、すぐに、夫の切るシャッターの音が心地よく部屋に響いた。
先生や看護婦さん達と一緒に撮った写真は、今ではアルバムにしっかりとファイルされて、文字通り我が家の歴史の1ページを飾ってくれている。

【 退院の日 】

 いよいよ2ヶ月に渡る外科での入院生活に、ピリオドを打つ日がやってきた。
ガンと初めてお目にかかった時から、既に3ヶ月の日々が過ぎていた。
それまでの私の生活とは一変してしまったこの3ヶ月間は、私にとっては何年分もの価値に値する。
人生を考え、命を見つめ直し、家族の偉大さを知り、大勢の人たちに囲まれて生きている自分の存在を再認識出来た事は、これからの私の人生にとって大きな指針となってくれるに違いない。
私は、病院での生活に感謝する気持ちを込めて、先生や看護婦さんに手紙を書くことにした。

廣瀬先生へ
 おかげさまで今日退院です。
 2ヶ月の間本当にお世話になりました。
 先生が術前に充分なコミュニケーションをとって下さったお陰で、全く不安を持たずに手術に臨む事ができました。
術後も色々ありましたが、痛いことや苦しい事はその時だけで、すぐに忘れてしまいます。
それよりも、先生の一生懸命さに感激したり、嬉しい事が多かったりで、私の2ヶ月はあっという間に過ぎてしまいました。(中略)
 まだこれから何が起こるか分かりません。
もしかしたら、このまま元気でいられるかも知れないし、又もしかしたら、もっと苦しい事に出会うかも知れない。
でも、どんな事が起こっても「私は必ず良くなる」と言う信念を持ち続けてがんばります。先生、これからもよろしくお願いします。
 人の命を救う素晴らしいお仕事、大変だと思いますがどうぞお体ご自愛なさってがんばって下さい。
 本当にありがとうございました。

 退院の日は、丁度廣瀬先生の回診日だった。
大勢の看護婦さんを引き連れての回診なので、手渡す事に少しためらいを覚えながらも恐る恐るその手紙を差し出すと、先生は少し驚いた様子で、しかしとても嬉しそうにそれを受け取ってくれた。
看護婦さん達もみな、微笑ましそうな眼差しで、
「退院おめでとうございます!」
と言いながら、目を細めてくれていた。
もちろん、お世話になった婦長さんにも、私を看てくれた何人もの看護婦さんにも、お礼の手紙を書くことは忘れなかった。
それぞれに気付いた長所をメモしておき、可愛い絵のついたミニレターにお礼の言葉と共に書き添えて手渡すと、看護婦さん達はみなとても喜んで受け取ってくれた。
 こうして、誰もが祝福の喝采を送ってくれる退院であった。
が、仲良くなっていた看護婦さんと顔を会わせたその瞬間、この2ヶ月間における様々な思いが一気に溢れ出てきて、彼女も私も込み上げてくる熱いものをこらえることが出来なかった。
それは、よくがんばった!という自分への労いに加えて、退院できる喜びと、別れゆく淋しさとが混ざり合った感慨無量の涙であった。

 退院の準備はなかなか大変だった。2ヶ月も病院にいると、何かと荷物が増えていて運ぶのもひと仕事だ。
娘のお腹は既に臨月を迎えようとしていたので、夫が一生懸命に部屋と車の間をピストン輸送してくれている。
まだ体力の無い私は、息子の彼女からお見舞いに頂いた大きなフラワーアレンジのかごだけを抱えて、部屋を後にする事になった。
あれからずっと向かいのベッドにいるBさんは、心なしか、少し淋しそうに見えた。
私は先に病室を出て行く者として感謝と励ましの挨拶をすると、お礼の言葉のすぐあとに、少し顔を険しくして、強い口調で私にこう言った。
「あんたは、帰って来るじゃないよ!」
その言葉には溢れんばかりの愛情と切ない思いがこもっていた。
私はキュッと口を引き締めて、小さく頷きながら、心の中で「もちろん・・・」と、呟いた。
 やがて、花かごを抱えた私は部屋の皆と看護婦さんに見送られて、家族と共に病室を後にした。
病院から出ると、外では真夏の太陽が容赦なく照り付け、じりじりとアスファルトの路面を焦がしている。
肌を突き刺すその熱気は、季節がすっかり変わった事を私に教えてくれていた。
 久し振りの空気、久し振りの車、そして久し振りの我が家へ。
夫の運転する車は、たくさんの荷物と胸一杯の喜びを乗せて、静かに路面を滑り出した。
私の心はすでに空を飛んでいた。
あの、小さな山の向こうには、住み慣れた私の家が待っている・・・・・。

<続く>

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