がんからの贈り物


生きていると色んな事がありますが、どんな事もプラスにもっていく・・・・・。
そんなかんちの母の体験記です♪
きっと皆さんの参考になるのではないでしょうか。

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───第8回───

【 一家団欒 】

 1999年7月21日、私はガンとの闘いに一応の終止符を打ち、無事に病院からの帰路をたどって懐かしい我が家へ着いた。
あの時の、そう、検査入院が終わって帰ってきた時と同じ、樫の木と金魚が待つ我が家へ。
ただ、少し違っていたのは金魚が驚くほど大きくなっていた事と、私を迎えてくれていたのがサツキの花ではなく、庭に咲いているオレンジ色のノウゼンカズラと、白い鉄砲ゆりの花だったことだ。
私が病院で暮らしている間に、外の世界では着実に季節が移り変わっていたのだった。
 本当に何年ぶりのことであろうか、家族が5人揃って集まったのは・・・。
この家で暮らし始めて20年、賑やかに遊ぶ子供達の声が家中にこだましていたあの頃が、2メートルにも背伸びした鉄砲ゆりの向こうにかすんで見える。
庭の砂場で泥だらけになり、小さな手作りの鉄棒で「逆上がりが出来た!」と言って大喜びした末っ子の顔。
かくれんぼをしたり、缶蹴りをしたり、愛犬と戯れたり・・・それはもう、本当に騒がしい程の毎日であった。
目を閉じて耳を澄ますと、子供達のかん高い遊び声がステレオのように響いて鮮やかに甦ってくる。
 子供の誕生日が3人揃って10月というのも珍しい事かも知れないが、我が家ではそのたびに誕生会をやって成長を祝ったものだ。
七五三、結婚記念日、クリスマス、夫の昇格、何かとおめでたい時にはみんな揃って、手作りケーキでお祝いをしてきた。
そして今日はいつもとは逆に、私をゲストに迎えて子供達が祝ってくれた、退院おめでとう!と。
 長男が抱えきれないほどの大きな花束を持って玄関に現れた時、私はその花の香に思わずむせび、元気になったことの喜びが胸一杯に溢れてくるのを感じた。
末っ子の二男は夫の3枚目をしっかりと受け継いでいるので、やたらと面白い。
そのパフォーマンスに皆が振り回され、笑いっぱなしのパーティーとなった。
笑いすぎて、傷口が少し突っ張ることも忘れて・・・。そんな笑いの渦の中で、娘が私にそっと耳打ちしてきた。
「お父さん、顔がぜんぜん違うよ。」
 目をやると、確かに入院中とは違う表情の夫がそこに居る。
私は感謝の心を込めて、『ただいま!』と微笑みを送った。
 私はふと思った。こんなに家族がひとつにまとまった事が今まであっただろうか。
私のガン手術という大きな難関を乗り越えて、誰もが心の底から喜んでくれている。
もし私の病気が無かったとしたら、この団欒は存在したのだろうか。
ずっと仲の良い家族ではあったが、今感じているこのはちきれそうな幸福感は、これまでに味わった事が無いもののような気がする。
だとしたら、私の病気は家族をひとつにする為の、天からの贈り物だったのでは・・・・。
そんな事を私は心の片隅でほのかに感じ始めていた。

 家に帰ってからの生活は、元気な自分を取り戻すのに一生懸命だった。
相も変わらず、散歩を続けていたので私は順調に回復していき、どんどん身体が軽くなってくる。
最初はゆっくりと歩いていた散歩も次第にペースが速まり、距離も伸びてきた。
退院間際に廣瀬先生が教えてくれた歩き方でしっかり歩いてみると、とても身体の調子が良い。
普通の一歩よりも靴一足分だけ広く歩幅を取り、早足でリズム良く歩くと、太腿の付け根が規則的に動くので、実際、腸の調子も良くなってくるようだ。
散歩の時間は日によってまちまちであったが、夕方に歩く時は季節を感じさせる土手の草花に目をやりながら。
夜になって歩く時には空を見上げて星座を探しながら歩く、というのが楽しみだった。
病院の屋上で“生きている!”と実感できたのと同じように、この静かな里でも、散歩することで私は確実に自分の生命力を感じ取る事が出来ていた。
 そんな私は、家族と一緒にいられる事に大きな幸せを感じていた。
毎日の散歩も夫と一緒であったが、退院してからは買い物も常に同伴するようになっていた。
病気になる以前はめったになかった事である。
娘も臨月を迎えていたので、旦那さんが勤務の夜にはいつも我が家へ泊まるようになっていた。
淋しかったこの家は急に花が咲いたようになった。
二男の滑稽なパフォーマンスもグレードアップしてきて、益々笑いの渦は発生頻度を上げていく。
私も大笑いをしながら、時々横になってはそっと傷口をさすっていた。
こんな我が家の、変化の大きさを見ると、私の病気は正に大事件だったということがよく分かる。
親戚や知人からも毎日のように見舞いの電話や訪問があり、私は如何に多くの人が心配してくれていたかということを知り、感謝しないではいられなかった。
こうして退院後の暫くは、どこの誰が見ても本当に平和で幸せな毎日を、私はからだ全体で満喫していた。

【 傷跡は勲章 】

 そんなある日、私は自分のお腹をまじまじと見ながら、急に傷の長さを測ってみたいという衝動に駆られた。
早速お風呂上りにメジャーを持ち出して、傷に当てて測ってみる。それは33,3cmもあった。
縦に一本、ス―ッと腹部を二分している傷は、先生が埋没縫合という技術で縫ってくれていたので、チャックのような横傷は無い。
しかし私の皮膚は、へそ曲がりの様で奇麗にはくっ付かず、切り口の赤い部分がやや広がってしまっている。
洗面所の大きな鏡に映されたその傷跡を見ているうちに、私は18年ほど前の出来事を思い出していた。
それは、長男が無事に心臓手術を終えて、少し成長した頃の事だった。
 長男の胸には、今の私と同じように縦一本の傷跡がある。
4歳になったその息子は、近所の子供達と同じ幼稚園に通う事になった。
そこは市内でも評判の体力作り第一の幼稚園であり、少し戸惑いもあったが、息子の為にとあえて選択したのだった。
入園してからの日々は目まぐるしく過ぎていき、あっという間に夏が来た。
幼稚園ではプール遊びが始まる。ところが、胸に傷のある息子は、裸になることをかたくなに拒んだのだ。
幼いながらも、皆とは違う所のある自分に気がつき、引け目でも感じたのであろうか。
元気に育った事だけを喜んでいた私は、そこまで考えてあげていなかったことに気がついた。
息子の気持ちをほぐすにはどうしたら良いのか・・・。
暫く考えた末、私は息子と向かい合ってしゃがみこみ、肩を抱きながらこう言ってみた。
「裕ちゃん、この傷はね、Oちゃんが頑張ったっていうしるしなんだよ。この傷があるから、Oちゃんは今生きていられるの。」
大きな目で私を見詰めていた息子は、軽く頷いた。そして私は続けた。
「だから、お友達に威張って見せてあげれば良いんだよ。
この傷は、Oちゃんが頑張ったから貰えた勲章なんだもん。」
 勲章という意味が分かったのかどうかは別として、息子は嬉しい事に次の日から、進んで裸になったと言う。
 私は、そんな事を思い出しながら自分の傷をもう一度見つめ直してみた。
これは私と家族がガンとの闘いを頑張ったから貰えた勲章なんだ!と心の中で呟きながら。

【 新しい命 】

 平和な毎日は私の前をゆっくりと過ぎていき、娘のお腹では新しい小さな命が着実に育っていった。
出産予定日は地元恒例の花火大会の日であった。
毎年、この日は庭でバーベキューをやるのが楽しみで、どちらかと言うと最近では花火を見るよりも、食べる事の方がメインになっているようだ。
今年のバーベキューは家族に加えて、息子のガールフレンドから病院で知り合った友達まで、総勢12人ものメンバーが集まり、それはそれは退院祝いにも増して賑やかだった。
今にも爆ぜそうなお腹を抱えて、娘は懸命に食べていた。
私もよく食べ、よく飲み、よく笑った。
美味しい!と思えることが一番の栄養である事を示すかのように・・・。
 娘が陣痛で苦しみ始めたという連絡が入ったのは翌日の事であった。
前々から娘は「花火大会が終わってから産みたい。」と言い続けていたので、願いは叶い、しっかりと花火を見てからの出産となった。
そして、1999年8月25日、私はめでたく“バアバ”になったのである。
48歳にしてバアバと言われるのは早いような気もするが、何と言っても命あっての物種、こんなに嬉しい事が経験できるのも元気になれたからに他ならない。
病院にいる間ずっと娘のお腹を見ながら、孫が産まれる、ということが私の生きる糧の一つになっていたことは紛れもない事実なのだ。
きっと、この子が私を元気にしてくれたんだ・・・。
そう思いながら初めてガラス越しに見る私たちの“孫”は、何とも言えず滅茶苦茶に可愛い。
まじまじとその顔を見つめながら、自分の遺伝子が受け継がれていくという生命の神秘に触れて、私は緊張と興奮が入り混じった不思議な感動を覚えていた。
横に居る夫の顔は?と見ると、今にも融けてしまいそうなほど緩んでいる。
産まれたのが女の子であったからなお更の事、もともと子煩悩な夫のこれからは、どうなってしまうのだろうか。
私は嬉しい心配を隠しきれなかった。

 その日、無事出産の喜びを母に伝えようと、私は実家に電話をかけていた。
ところが、義姉からは「おめでとう」の言葉に続いて、思いも寄らなかった事が伝えられたのである。
母が心臓異変で入院したというのだ。産まれた!と喜んでいたその同じ日に入院を。
これまで病気らしい病気をした事のない母がまさか・・・と、信じられない思いだった。
とるものもとりあえず、すぐに病院へ向かう夫と私は、嬉しい事と心配事が一緒にやってきてしまったことに戸惑いを感じていた。
母はどんな状態なのだろう?ベッドに寝たまま動けないのだろうか? ・・・病院へ向かう車のスピードがやけに遅く感じられる。
やっとの思いで病院にたどり着くと、すぐエレベーターに駆け込み4階の病室へ・・・気持ちの方が先に行く。
しかし、起きて座っている母の元気な姿をベッドの上に見つけた途端、ほっとして胸をなでおろした。
すぐに私は思った。母もきっとこんな思いで、私のことを心配してくれていたに違いない、と。
病気の本人よりも、周りの人の方が心配の度合いは大きいだろうと想像していた私は、それが事実である事を知って、これまで、どれだけ母に心配を掛けてしまっていたことか、と申し訳なく思うのだった。
しかも、ただの病気ではないのだから・・・。
 娘が退院するまでの1週間、3階の産婦人科と4階の内科を行き来していた私は、時折5階まで足を伸ばして、外科病棟にお邪魔する事もあった。
看護婦さん達は相変わらず忙しそうに働いていたが、私を見つけると快く歓迎してくれて、まるで同窓会のように話がはずんだ。
超元気にしている私を見て、誰もが驚きの声を隠せないようだ。BさんとNさんは、引き続き入院中であった。
Bさんは眠っていたので、声をかけずに失礼し、前よりも具合が悪そうなNさんとは、余り話が出来なかった。
私は、一日も早く元気になって退院できるようにと、心の中でそっと祈って外科病棟を後にした。
 1週間が過ぎ、可愛い孫の退院する日がやってきた。
これからひと月程の間は娘共々我が家で過ごすことになっている。
幸いな事に私が退院してから既に1ヶ月以上が経過しており、ある程度体力がついていたので、娘も安心して私を頼りに出来る。
だが、その日からが予想通り大変だった。
夜中に何度となく泣き出す孫を抱っこしてはあやしたり、母乳をあげたり、娘と私は大奮闘の毎日だ。
それでも、可愛さは日に日につのっていき、巡る命の偉大さを感じては、孫を抱きしめられる幸せに浸るのだった。
もちろん、夫、いやジイジの可愛がり様は想像を絶していた。
 母は、と言うと3週間余りたって退院し、その胸には命をつなぐペースメーカーが埋め込まれていた。
思いのほか元気なので安心をしたが、母もやはり初めての“ひ孫”を抱く事の出来る喜びを胸一杯に感じている様だった。
 幼い命というものは、本当に大きな生命力を与えてくれるものだ。
こんなに可愛い孫をプレゼントしてくれた娘に、私は感謝の気持ちで一杯だった。
温かい家族に見つめられながら、今日もその幼い命が、柔らかな空気の中で静かに寝息を立てている。

<続く>

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