「人間の幸福」  宮本輝 著



 私は最近よく幸福について考えている。というか、昨年中国に行くことになってからずっと考えている。幸福って何だろう? お金があっても、時間があってもそれだけでは楽しくない。この小説の中のある登場人物はこのように言っています。

 「人間を最終的に行動に移させるのは、〈快楽〉っていうことになるのかな。人間の何が正常で、何が異常なのか、なんてことは人間が判定できないな」

 やはり人を動かすのは、快楽の力と言うことなのか。快楽というと何となく、性的な意味が強く表に出てしまうような気がしますが、要は好きなこと、望むことと言うことなのではないでしょうか。あるいは楽しいことと言いかえてもいいかも知れません。無理だだめだと言われて、どんどんやりたくなる人はちょっとMの傾向でもある人だけではないでしょうか。普通は褒められたり、おだてられたり、気持ちがいいと、もっとやりたいと思うのではないでしょうか。スポーツでも勉強でも、芸術でも何でもトップまでいく人はいい結果を出して、快感を覚え、それを忘れられずに追い求める人なんだろう。もちろんその過程では、楽しいことばかりがあるわけではない。しかし、一度経験したその快感が自分の支えとなって、より難度の高いレベルに挑戦させる。

 そこで、私のような教員はいかに、質の高い快感を生徒に与えることが出来るか、いかに有意義な達成感を与えてやることが出来るかということが大切だ。そういうことを考えると、教員というのは今まで、勉強させたいという時に「勉強しろ、勉強しろ」と言ってばかりいたのではないだろうか。教員だけでなく、親も同様だろう。もし本気で勉強させようと思うなら、そんなこといっているよりも、勉強をすることがどんなに楽しいか。テストでいい点を取ることがどんなに楽しいことなのかを一度経験させてやればいい。こんなに楽しい気持ちになれるならやってみるのもいいかも知れないと思えば、後は黙っていてもやる、やめろと言うまでやり続ける。そんなものだ。誰だって、楽しければ馬鹿みたいにやるものだ。俗に言うガリ勉君というのは、テストでいい点を取ることがいかに快感かを知っている人だ。あまりに気持ちが良くて、他の事に気が回らなくなるくらい人を夢中にさせる魅力があると言うことだ。

 勉強だけではない。スポーツ界でも、経済界でも、この成功した時の快感が人を動かしているのは事実だ。人は幸福を追求するために生きている。幸福を追求することはけして悪いことではない。死ぬまで幸福を追求し続けるべきだと思う。

 結局、快楽を追い求めている状態が幸福な状態のではないかと思う。あるいは、幸福を追い求め、少しでもそれに近づいたと思える瞬間が、幸せな瞬間なのではないだろうか。

 また、人が喜んでいる姿を見ることが、あるいは人を喜ばせることが幸せだとも言えるかも知れない。自分自身が得た幸運による快感よりも、他人が得た幸運を共に喜ぶ快感の方が大きいと感じる時がある。その人が得た幸運に自分自身の関わり方が深ければ深いほど、大きな快感を得ることが出来る。よく、人のためになる仕事をしたいという人がいる。(私もそうだが)そういう人は、人のためにそういう仕事をしたいのではなくて、その仕事をして、人に喜んでもらうことが、この上なく自分の快感につながるからなのだろう。よく仕事をしたがらない教員が、「生徒の自主性に任せよう」と言っているが、その自主性を育てるのはこのような快感経験をさせるしかない。子供が社会生活を始めたその時に、快感経験をするとその子はずっといい結果を出し続けることが出来るのかも知れない。がしかしそこで躓き、いい結果の出せない人はいつまで経ってもいい結果が出せないのかも知れない。そういえば、最近の進学校は、勉強はもちろん、スポーツでも、芸術分野でも、どの分野でもずば抜けた結果を残している。反対に、課題集中校(底辺校)は、勉強はもちろん、スポーツでも、芸術でも何をやってもいい結果が出ない。これも成功経験のないと言うことが大きい原因のような気がする。

 努力が大切だ。努力すれば出来るとよく言うけれども、努力できるのも成功経験があるから努力しようという気になるので、成功したことのない人は、努力すれば出来るよと言われてもそれを信じることは出来ないし、努力しようという気になるわけもない。成長過程にある若者に、目標を見失った大人に、成功経験はとても大切なものとなる。そして、それを与えるのも教員の重要な仕事の一つだと思う。

トップにもどる
ケンモの読書感想文