「サヨナライツカ」    辻 仁 成 (幻冬社文庫)


 自由奔放で、美しい謎の女性 ”沓子”と、平凡で堅実な生き方しかできない結婚間近の好青年 ”豊”の二人が、出会い、許されない恋に身を焦がし、豊の結婚により別れた後も、互いに忘れることができずに生き続ける。25年後、偶然に再会し互いの気持ちを知る。さらに4年後沓子が病で倒れ、帰らぬ人となる、その死の直前に再び会い、お互いの心を伝えあう事がやっとできた。
 まあ、あらすじを書けばこんなところかな。今まであらすじなんて書いたことないけど、書くとこれから読む人の、じゃまになるといけないと思って書かなかったけど、今回だけは許して。なんか、書かないと先に進まない気がしたので。私は男なので、つい主人公”豊”の立場で読んでしまうのだけれど、そして、豊の中にも私がいるので面白いのだけれど…。日頃、まじめにやろうとか、堅実にいこうとか、人の期待に応えようとか、そんなことに価値を見いだしている人間(この小説の豊のような)は、時として、ある瞬間に、ちょっと冒険もしたいなと思う瞬間がある。普段、そういう冒険は自分には似合わないと決めつけてしまっていたとしても、どうにもやってみたくなる時がある。人によっては、飲んだ勢いだったり、精神的なストレスに耐えかねてだったり、海外にいて日本の自分とは違う自分になれるようなそんな気がしてだったりする。冒険はしてみたいが、たいていの人はそれを夢見るだけで実行はしない。しかし、小説の中の登場人物は思う存分冒険をしている。自分ができないことを登場人物に代わってしてもらうことで、きっとストレスを発散しているのだと思う。
 この話の中で、ふっと気になったのは、もう一人の主人公”沓子”のことだ。若い時は思いっきり奔放で、時にわがままで、自分に正直で、はっきりとした生き方をした女性が、25年という時を過ごすと、非常に常識的で古風な日本女性になっている。これはいったいどういう事なんだろう。それが大人になるということなんだろうか。それが、人生経験を重ねるということなのだろうか。日本人の社会の中では、仕方のないことなのであろうか。奔放で破天荒な、熟年女性は美しく生きられないのだろうか。または美しい女性として描くことができないのだろうか。ちょっとわからない。
 人の生きる意味って、何だろう。この豊と沓子は、結局、結婚はしなかったし、子供ももうけなかったし、共に過ごした時間もそう多いわけではない。それでも互いに出会えたことで、自分の人生に意味がついたと実感することができた。こんな出会いも世の中にはあるのだろうか。そして、こういう出会いをするために人は生きているのだろうか。そして、その相手というのは必ずしも結婚した相手とは限らないのであろうか。私はまだまだ未熟者なので、人生わからないことだらけです。それでも、私の人生に意味をつけたいとは思います。そういう出会いもけして一つではないと思います。たくさんできると思います。妻や子供たちだけでなく、社会に何か自分の生きた印を残したい。最近、そんなことを考えています。ちょっと大それた事ですが…。

ケンモの読書感想文にもどる

トップページにもどる