
「大河の一滴」を、まず五木寛之の文庫本で読みました。五木寛之は、中学生の時に「青春の門」を読んでから、わりと好きです。青春の門では、主人公の父親にあこがれ、出来るだけ口を利かない男になろうと頑張った時期もありました。無理でしたが…。不言実行。そんな強い男にあのころはあこがれていたのかな。そして、頼りない主人公に自分の姿を見ていたのかもしれない。
「大河の一滴」と同じタイトルが付けられ、この本から作ったという映画があるが、やはり随筆を映画にするのは無理がある。とても原作とは言えない。映画は、今二つという感じでしょうか。随筆の方は、人の悲しみの受け入れ方についての考え方が面白かった。今は、プラス思考の時代。出来るだけ物事をプラスに考えて、脳の働きを活発にして、前向きに生きていくことが望ましい。ここまでは、誰もがよく言うことだ。問題になるのは、どう考えても前向きに考えることが出来ないような、どうしようもない状況の時にどうするか、ということだ。それでも、無理してでも、何してでもプラスに考えるべきなのか。五木寛之は、そういうときは、思いっきり悲しむのもいいんじゃないかという、悲しみのそこから生まれてくる何かがあるのではないかという。五木寛之のような、厳しい人生を歩んできた人の言葉だけに、重いものがあるように感じる。
今は、喜びも悲しみも、何か人の感情というものが希薄になってきたように感じるのは私だけなのでしょうか。特に、今の若い人たちを見ていると(こういうとまるで自分がすごい年をとっているようだが)、喜ぶときも程々に、悲しむときも程々に、と言う感じがしないでもない。もう少し生の人間としての感情を、大切にしてもいいように思う。そういう生の感情を、出さないように出さないようにと、窮屈になって生きていないだろうか。そういうものを出して、人とぶつかるのを恐れすぎていないだろうか。そういうものを出して、人に嫌われるのを恐れすぎていないだろうか。
幼稚園ぐらいの時の子供たちは、本当に生き生きと、自分らしく振る舞っているのに、どうしていつの間にか表情の乏しい、感情表現の苦手な人間へと成長してしまうんだろう。それが成長と言うことなのだろうか。特に十代の青春ど真ん中みたいな人たちには、思いっきり喜んだり、泣き叫んで悲しんだりしてほしいと思う。私もこの中国での生活で、思いっきり寂しくて、何となく悲しくて、ずいぶん苦労したけれど、それがあったから今がある。なんか、今となっては、とても得した気分である。何事もなく、何も考えず、と言うような生活より、とことん喜んだり悲しんだりした方が、得ることは多いように思う。