上浪明子述懐集

上浪明子は自分の音楽について様々な機会を通して語ってきました。
これまでに書かれた文や話された言葉を時間をかけながら集め、ここに紹介します。
さしあたり、手もとに集まった順に紹介していきます。
ここに収録されていない文をお持ちの方はコピーを送ってください。
思い出のエピソードなどがある方はゲストブックに書きこんでください。

20世紀の音楽家 XX (1)

ディナ・ノタルジャコモ先生の思い出

第1章 ディナ・ノタルジャコモ先生のこと

山荘でFMを聴き恩師を想う

 昨年の夏(1999年)はことのほか暑く、とても東京ではまともな生活はできないと思い、7月末から八ヶ岳山麓の林の中にでかけました。
 平素も年齢のわりにはよく働いていると自他ともに許して…ということもあって、勉強からも家事からも離れて、3週間ほど樹々をわたるそよ風の中で過ごしました。日頃もっとFM放送を聴かなくては、と思いながらなかなか果たせない日々の生活でしたので、此所では毎日朝から晩まで何をするにもFMを流して聴いておりました。

 と、驚いたことにそれらの番組はイタリアの往年の名歌手、カラス、テバルディ、シミオナート、タリアビーニ、モナコ、プロッティ、グェルフィ、そして現在活躍しているドミンゴ、パバロッティ等々によるイタリアオペラ全曲、そしてそれについての批評家、学者によるきめ細やかな批評、解説に終始していたのです。
これによって一度にFMの聴き足りなかった借りを返すと共に、昭和24年ディナ・ノタルジャコモ先生に師事して以来片時もその御恩を感謝しない時とてない私は思わず涙がこぼれる程の感慨深いものがありました。

 また、同じ年の6月に行われた声楽のコンクールで、その本選会に出席されたアッパード(指揮者アッパードの兄)スカラ座総裁およびイタリア公使が、当日歌った日本人のことや、またイタリアであるいはヨーロッパ各地で勉強しステージにオペラに活躍している若手日本人歌手の実力についての驚きなどの話をされました。

 日本も現在のベルカント時代になって、いま先生が生きていらっしゃったら、どんなに喜ばれたことでしょう。

桜見物に来て、日本に根をはる

ディナ・ノタルジャコモ先生は、昭和12年ごろ、東洋の大都市各地でイタリア歌劇団の公演のために、団員の一員として廻られ、最後に上海で歌われた後、「日本に立ち寄り桜を見物して帰ろう」と、日本に足をのばされました。(桜はオペラの蝶々夫人の第一幕でその花の咲きほこる下で愛の二重唱を歌いますから、イタリアの歌手達はそれを見ることは夢であったことでしょう。)

その時のことは、先生が帰国される時の「音楽新聞」(昭和28年5月17日)の記事にあります。
  「16年ぶりに故国へ
    7月末帰るノタルジャコモ女史

  我国声楽家、殊にイタリーオペラと声楽を学んだ人々にとって忘れることの出来ない人、ディナ・ノタルジャコモ女史が、この7月末故国イタリ−へ帰ることになった。ノタルジャコモ女史が日本の土を踏んだのは今から16年前、昭和12年の4月14日であった。

 イタリ−のフローレンスに生まれ、父はガエタノ・ノタルジャコモというすぐれたバス歌手である。(中略)女史はローマの王立サンタ・チェチリア音楽学校でエンリコ・ローザッティに学んだ。(中略)
 在学中よりその成績が擢んでていたので、ローマのアウグスティオ樂堂で、ソリストとして立ち、マルチアーノ・ぺロッティのグランド・カンタータを数百人のコーラスと共に歌った。オペラへのデビューはローマのテアトロ・コンスタンツィでボイートの「メフィストフェレ」のエレ−ナ役であった。(中略)それからミラノ、トリーノ、オランダ、フランスへ渡って歌った。(中略)」
 「日本へ来たのは旅行者としてサクラを見に、2週間位の予定で来たのです・・・」

丁度その時、イタリアに王子が生まれ、イタリア大使館で祝賀の大パーティーがあり、日本の人々も大勢来ていた。その際女史が歌ったわけである。当時、日本にはサルコリ、ペレッティというイタリ−の声楽教授はすでになく、すぐれた教育者を切望しているときだったが、女史は「私は歌手であって先生ではないと辞したものの、願望もだしがたく遂に1年の予定で教鞭をとることになり、それがとうとう16年の長きに亘って日本へ腰を落ち着ける次第となったわけである。  先生は昭和15年から19年まで上野の東京音楽学校(現・東京芸術大学)で教えられた。 [続く]

2002年08月23日 19時45分28秒

イタリアの音楽との出会い (2)

仕事振りを語ってくれる写真

上浪先生と伊勢丹写真室と出会いは、およそ11年前。きっかけは、リサイタルを控えた知人から渡された1枚のちらしでした。
「その写真がとても素晴らしくて、まるで女優のように美しかったんです。以来、私も写真を撮るときは、必ず伊勢丹です。
伊勢丹写真室の写真には、芸術性を感じます。カメラを通して私の仕事振り(音楽)を語ってくれるというか・・・。」

「撮っていただく時も自然な気持ちのまま。無理に表情なんて作らないんですよ。自分の歩んできた道は正しかった、好きなことをさせてもらって本当に幸せ、という感じが沸き起こるんです」。
と語る上浪先生。
「うたい続けて50余年。これからも感謝の気持ちと失敗を恐れずに進む勇気を持って、日本の音楽文化をさらにレベルアップさせる仕事をしていきたいですね。

[終わり]

2002年08月22日 15時28分34秒

イタリアの音楽との出会い (1)
光彩(伊勢丹写真室特別誌)より
―編集者のインタビューをうけて―

衝撃的な、本場イタリアの音楽との出会い。
あの時音楽をやめなくて良かった...。

美しく艶やかなベルカントの声と詩の表現の美しさ、その格調の高さから「日本歌曲の権威」と称される上浪明子先生。
ソプラノ歌手として、また声楽指導者として常にひたむきに音楽に情熱を注ぐ上浪明子先生の半世紀あまりにわたる音楽活動について、原宿の閑静な住宅街にあるご自宅でおうかがいしました。

「歌が大好きだった母に影響され、東京音楽学校に入りました。当時は終戦直後でしたが、学校では外国の歌を歌うこともできたんです。」
東京音楽学校を卒業後、ノタル・ジャコモ女史と運命的な出会いをすることになります。
 「女史に会っていなかったら、今の私はないでしょう。師事したのはわずか1年と数ヶ月でしたが、その時、戦前に私たちが習っていたことは大変な間違いだったと気付いたんです。
いっそのこと音楽をやめてしまおうかとも思い悩みましたが、せっかく学校へ通わせてくれた両親に申しわけなくて・・・。やめることはいつでもできる。とにかくできるだけやってみようと」。

今まで自分が学んできたものすべてを覆すような、新しい音楽との出会い。
「もちろん最初は抵抗もありました。でも、本物を知るうちに、どんどんその魅力に引き込まれていって。ベルカントというのは、世界中どこへ行っても基本となる唱法なんですが、ホールが大きいほど、その力や素晴らしさを発揮できるんです。
歌は声帯だけを使うものではありません。大切なのはむしろ呼吸です。ベルカント唱法は、通常の6〜7倍の行きを循環させる、まさに呼吸の妙技。酸素吸入をしているようなものだから、少しくらいの風邪なんて、歌えば治ってしまうんですよ」。とおっしゃいます。

[上に続く]

2002年08月21日 16時52分34秒

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