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ディナ・ノタルジャコモ先生の思い出
昨年の夏(1999年)はことのほか暑く、とても東京ではまともな生活はできないと思い、7月末から八ヶ岳山麓の林の中にでかけました。
と、驚いたことにそれらの番組はイタリアの往年の名歌手、カラス、テバルディ、シミオナート、タリアビーニ、モナコ、プロッティ、グェルフィ、そして現在活躍しているドミンゴ、パバロッティ等々によるイタリアオペラ全曲、そしてそれについての批評家、学者によるきめ細やかな批評、解説に終始していたのです。 また、同じ年の6月に行われた声楽のコンクールで、その本選会に出席されたアッパード(指揮者アッパードの兄)スカラ座総裁およびイタリア公使が、当日歌った日本人のことや、またイタリアであるいはヨーロッパ各地で勉強しステージにオペラに活躍している若手日本人歌手の実力についての驚きなどの話をされました。 日本も現在のベルカント時代になって、いま先生が生きていらっしゃったら、どんなに喜ばれたことでしょう。
ディナ・ノタルジャコモ先生は、昭和12年ごろ、東洋の大都市各地でイタリア歌劇団の公演のために、団員の一員として廻られ、最後に上海で歌われた後、「日本に立ち寄り桜を見物して帰ろう」と、日本に足をのばされました。(桜はオペラの蝶々夫人の第一幕でその花の咲きほこる下で愛の二重唱を歌いますから、イタリアの歌手達はそれを見ることは夢であったことでしょう。)
その時のことは、先生が帰国される時の「音楽新聞」(昭和28年5月17日)の記事にあります。 我国声楽家、殊にイタリーオペラと声楽を学んだ人々にとって忘れることの出来ない人、ディナ・ノタルジャコモ女史が、この7月末故国イタリ−へ帰ることになった。ノタルジャコモ女史が日本の土を踏んだのは今から16年前、昭和12年の4月14日であった。
イタリ−のフローレンスに生まれ、父はガエタノ・ノタルジャコモというすぐれたバス歌手である。(中略)女史はローマの王立サンタ・チェチリア音楽学校でエンリコ・ローザッティに学んだ。(中略) 丁度その時、イタリアに王子が生まれ、イタリア大使館で祝賀の大パーティーがあり、日本の人々も大勢来ていた。その際女史が歌ったわけである。当時、日本にはサルコリ、ペレッティというイタリ−の声楽教授はすでになく、すぐれた教育者を切望しているときだったが、女史は「私は歌手であって先生ではないと辞したものの、願望もだしがたく遂に1年の予定で教鞭をとることになり、それがとうとう16年の長きに亘って日本へ腰を落ち着ける次第となったわけである。 先生は昭和15年から19年まで上野の東京音楽学校(現・東京芸術大学)で教えられた。 [続く] |
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2002年08月23日 19時45分28秒
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上浪先生と伊勢丹写真室と出会いは、およそ11年前。きっかけは、リサイタルを控えた知人から渡された1枚のちらしでした。
「撮っていただく時も自然な気持ちのまま。無理に表情なんて作らないんですよ。自分の歩んできた道は正しかった、好きなことをさせてもらって本当に幸せ、という感じが沸き起こるんです」。 [終わり] |
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2002年08月22日 15時28分34秒
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光彩(伊勢丹写真室特別誌)より ―編集者のインタビューをうけて―
あの時音楽をやめなくて良かった...。
美しく艶やかなベルカントの声と詩の表現の美しさ、その格調の高さから「日本歌曲の権威」と称される上浪明子先生。
「歌が大好きだった母に影響され、東京音楽学校に入りました。当時は終戦直後でしたが、学校では外国の歌を歌うこともできたんです。」
今まで自分が学んできたものすべてを覆すような、新しい音楽との出会い。 [上に続く] |
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2002年08月21日 16時52分34秒
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