個人生活をふりかえる2003.1.19(2003/01/19 16:43)

 昨年の個人生活をふりかえる

普通は年末にその年1年をゆっくり振り返ってみるものなのだろうけれど、なぜか年末はあわただしくそのゆとりがない。そこで今ごろになって、昨年をふりかえってみている。

 とにかくイベントの多い、忙しい年だった。

 1月は女性模擬議会があった。そのあと、3月末まで決議文をめぐってすったもんだした。2月は西日本心理劇学会が沖縄で開催され、その実行委員と懇親会の司会。ほとんどのお膳だてをF先生がしてくれたので、実行委員は名ばかりだった。3月はM先生の退官記念パーティー。M先生には大変お世話になった。そのぶん、気合いが入った。シナリオをつくるために記念文集を読んだり、パーティーの準備にはかなり時間を使った。4月、学会発表。これに向けての準備もあり、3月はあれこれ重なって忙しかったし、体調も悪かった。シーサーの会にNPO補助金を獲得するためのプレゼンテーション。パソコンでプレゼンテーション用のグラフィックを作った。

 この4月から新しいことが3つ加わった。非常勤講師として新しい科目の担当。産業カウンセラー沖縄部会人材バンク学習会。プレイバック・シアター沖縄の事務局員としての仕事。

 5月は高校の同窓会と日本産業カウンセラー全国研究大会。これらは出ただけなので、まあたいしたことではない。6月は大きなイベントこそなかったが、こまごましたことで結構毎日がつまっていた。7月、三日間にわたる日本産業カウンセラー協会の向上訓練。なかなかきつい学習会だったが、得るものは多かった。

 8月、『沖縄発!アトピッ子ママの学んだシックハウス』発行。この発行に向けて、前年度のアレルギーの会全国交流会が終わってから、本の構想、講演のテープ起こし、原稿のタイピング、編集と、他のことの合い間をぬって長い作業だった。印刷を安く仕上げるために、できるだけCD−Rに入れておく必要があった。金城さんと神村さんが瀬川さんの講演のテープ起こしとタイピングをやってくれ、6月に印刷会社が決まってCD−Rを渡してからは、割付や校正のほとんどを金城さんが他の会員の助けを借りてこなしてくれた。そうでなければ、6月中旬に印刷会社に渡して8月中旬出版という無理な日程で仕上げることはできなかっただろう。印刷会社にもよるだろうけれど。そして東京でのアレルギーの会全国交流会。学会発表の準備。6月から8月にかけては体調も悪く、よれよれという感じだった。いっきに白髪とシワが増えた。

 9月、学会発表。ここで今年の学会開催を教授が引き受けた。10月は特にイベントはなかったが、あいかわらずこまごまと予定が入る中、那覇マラソン向けて練習をした。11月、学会発表とその準備。マラソンの練習。12月、那覇マラソン。環境問題をテーマにした即興劇の公演。いくつかの忘年会。9月末から那覇マラソンのために意識的に時間を確保して走ったが、これが健康を持ち直すのにとてもよかった。マラソンが終わってしまうと、走るほうがよいとわかっていても、なかなか時間がとれない。

 非常勤講師として、授業時間だけでなく、準備やふりかえりに時間をとられるのは当然のことだ。仕事だから。ここは手を抜くわけにはいかない。人材バンク学習会は担当順番性なのであまり手はかからない。でも毎月1回の出席を確保することはなかなか難しかった。

 誤算だったのはプレイバック・シアター沖縄事務局の仕事。年3回程度のワークショップということで、そのお知らせと当日の準備ぐらいはたいして手間取らないと思っていたら、結局5回になった。そして、お知らせや当日の準備より気を使ったのは、参加者集め。2カ月に一度のテンポになると今の私にはこなせないと思った。3カ月か4カ月に一度くらいがちょうどいい。今年度は事務局員が増えるので、あまり気をもまなくてすみそうだ。プレイバック・シアターは私の学びの場でもあるが、楽しみであり、ストレス解消の場でもあり、無理をしたくない。

 もちろん、主婦も母も妻もしている。ホント。時々は娘も。親がまだ元気なのでうれしい。

 そしてこの1年間もっとも私を悩ませたのは、論文だった。そのために大学院に通っているのだから当然と言える。こんな年が何年も続いたら寿命を縮めるだろうが、今年は何が何でもやるしかない。来年春には、予定通り博士課程を修了したいものだ。