【野の花】


男の子に興味がないって言ったら嘘になる。

けれど、そういう恋だの愛だのと、浮かれられない冷めた自分が心の奥底にいる。

年頃の女の子は皆、好きな異性の話に夢中になっている。

『千尋は誰か好きな人はいないの?』って聞かれる度に何て答えたらいいのかわからない。

でも――ただ、漠然と感じていることがある。

私は、誰かを待っているのだ。

来るはずのない誰かを。

それを突き詰めていくと、何故か切なくなってしまうのだけど。



パシャン!

「きゃっ…」

突然、水をかけられてしまい、1人考え込みながら道を歩いていた千尋を現実に引き戻した。

「すまない!濡らしてしまったね…。」

水の入ったバケツと柄杓を手に持ち、水撒きをしていた青年が、申し訳なさそうに千尋に謝る。

「…いえ。大したことないですから。」

いつも通る学校の帰り道。黄昏時の十字路の角で時々会う青年。

年の頃は、16才の千尋よりも2、3才ほど上のように見える。

お互いに顔見知りではあったが、千尋とその青年は、この時初めて会話を交わした。

「びしょ濡れじゃないか。あ、そうだ。よければうちの風呂に入っていかないか?」

「え…。お、お風呂?」

きょとんとした目で立ち尽くしている千尋に、クスッと笑いながら青年は答える。

「そこの銭湯だよ、ほら…。」

青年の指差す方を見上げると、"伽羅の湯"と大きく書かれた看板が目に入る。

「あなた、あそこの従業員さん?」

「まぁ、そんなところだよ。今ちょうど店が開く前だし、一番湯に入れるよ。」

「でも…。」

「もちろん、無料だ。水をかけてしまった詫びに。」

「そんな、いいです!」

「遠慮しないで。そのままだと風邪を引くよ。」

いいというのに、青年は半ば強引に千尋の手を取り、銭湯へと連れ出した。



「君の制服、乾かしておくから、脱いだらそこの棚に置いておいて。石鹸とタオルはこれ使って。」

「あ…はい。ありがとうございます。」

開店前の銭湯は、客誰一人と居ないガラーンとした寂しげな空気を漂わせている。

"伽羅の湯"は、昔ながらの銭湯で、男湯と女湯に分かれた中央に番台がある。

千尋は、この青年が番台に座るのだろうか…と気が気ではなかったが、青年が「じゃあ、ごゆっくり。」と言って脱衣籠を千尋に渡すと番台の仕切りから男湯へと入り込んで行くのを見届け、ホッ…と安堵した。

「なんだか、不思議な人…。」

思わず、そう呟いた。

見た目は至って普通の青年ではあるが、きりりとした切れ長の瞳に見つめられると、何でも言う事を聞いてしまいそうになってしまう。

実際、こうして気の進まない初めて入る銭湯に招かれてしまったのだから。

脱衣所で、渡された籐の籠に脱いだ下着とカバンを入れて、制服だけ別に棚に置く。

ポニーテールの髪を赤紫色した組紐のバンドで、おだんごにし、蒸気で曇っているガラス戸を開け湯殿に入る。

入って直ぐ目に飛び込んできたのは、真正面に飾られた富士山の絵。

千尋は、この典型的な銭湯スタイルに懐かしさを感じ、心が和らぐ。

この"伽羅の湯"に入るのは初めてではあるが、小さい頃に一度、自宅の風呂釜が壊れた為、父母に近所の銭湯に連れて行かれた記憶があった。

「まだ、こんな所が残ってたんだぁ…。」

感嘆の声が広い湯殿中に響き渡る。

千尋は、ふぅ…と、ため息をつきながら、1人伸び伸びと湯船に浸かる。

程よい湯の温度に、体の芯から温まる。

今は夏とはいえ、水でずぶ濡れの姿で自宅に帰るのは正直嫌であったから、やっぱりこの銭湯へ来てよかったかな、と千尋は思った。



湯殿から上がると、脱衣所の壁に千尋の制服がハンガーにかけられていた。

触ってみると、既に乾いており、丁寧にアイロンまでかけられている。

素早く着替えると、千尋は脱衣所の仕切りの壁から、ひょいと身を乗り出して男湯の方を覗く。

「あの〜、お風呂ありがとうございました。」

千尋の声に、脱衣所の椅子に腰掛けていた青年が立ち上がり、ニッコリ笑って千尋に近づく。

「いや、どういたしまして。またおいで。」

「あの、あなたはいつもここに居るの?」

「うん、居るよ。」

その青年の言葉に、千尋は内心困惑する。

( いつも居るなら、気軽に来れないわ。 )

もしかしたら、いつもはこの青年が番台をしているのかもしれないし…と千尋は顔を赤らめる。

「私は大抵、風呂場の掃除とか店周りの掃き掃除やらを任せられているんだ。番台はここの店主のおじいさんが座るんだよ。」

「そう…なんですか。」

自分の考えている事を見透かすように青年が答えたので、千尋は更に頬が熱く火照る。

「さあ、暗くならない内にお帰り。」

「はい。今日は本当にありがとうございました。制服も…。」

青年は何も言わず、ただ微笑む。

千尋はペコッとお辞儀をすると、玄関の戸を開け店を後にした。

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