【野の花 2】


「ただいまー。」

「お帰り。随分、遅かったのね。」

台所で料理をしている母親に千尋は帰りを告げると、不機嫌そうに応える声に少し、しりごみしてしまう。

「…うん、ちょっと銭湯に寄って来たから。」

「銭湯?どこの銭湯に行ったの?」

「学校の帰り道にある銭湯だよ。ほら、"伽羅の湯"って大きな看板が出てるじゃない。」

「伽羅の湯、ねぇ…。そんな銭湯あったかしら?」

「お母さんはあんまりあの辺通らないから覚えてないのよ、きっと。」

「ま、それはいいから、夕飯の仕度手伝ってちょうだい。もうお父さんも帰って来てるわ。」

さして娘の行動に対して気にも留めない母の言葉に、千尋は、はいはいと呟き仕度を手伝った。



夕飯を食べ終え、自室に戻ると、千尋はドサッとベッドにうつ伏せに倒れ込む。

「はぁ〜…。疲れちゃった。」

まだ学校の宿題も片付けてはいないのに、寝てはいけないと思いつつも千尋の瞼は、うとうとと閉じかける。

( あの人…明日もあの場所に居るかしら。 )

今思えば、割と目鼻立ちの整ったハンサムな青年だった。

いくら、あんまり異性に興味はない千尋とはいえ、少し胸が高鳴っていた。

それに、どこかあの青年は他の男の子とは違う雰囲気があった。

肩まで切り揃えられた漆黒の真っ直ぐな髪。セピア色した瞳。すらりと伸びた高い背丈。

この俗世の穢れた部分を全て振り払う、内面から滲み出るような、そんな綺麗なオーラを帯びているようであった。

( いやだ、私。どうしたんだろ…。急にこんなこと考えるなんて。 )

自分は他の子達と違うのに。恋、なんて縁遠いと思っている。

千尋は、ぶんぶんと頭を振ると、布団の中にモゾモゾと入り込み目をギュッと固く瞑った。



……千尋。

何処からか、私を呼ぶ声が聞こえる。

「 誰…? 」

辺りを見渡す。その声のする方に歩く。

深い霧がかかった、真っ暗な闇。1人きりの自分が寂しくて、その優しげな声の主を探す。

「 千尋…。 」

背後から名前を呼ばれ、驚いて振り向く。

「 あ…あなたは、伽羅の湯の…?」

切なげな表情で私を見つめる。

「あの、どうしたんですか?」

問い掛けると同時に、ふわっと包み込まれる私の体。

「あ、あああの!」

そのまま顎を持ち上げられ、唇がゆっくりと下りる…。



「…ハッ!」

目を開けると、正面にはいつもの天井。

「夢…か。」

びっしょりと汗で濡れた体が気持ち悪く、千尋はベッドから出ると、窓を開けて空を眺めた。

夏の生温かい夜風が千尋の前髪を、さわさわとなびかせる。

「あの人が夢に出てきちゃった…。」

寝る前に、あの銭湯の青年のことを色々考えていた所為なのだろう。

千尋は、ふふっと苦笑いをする。

暫く夜風にあたり、火照った体を涼み終えると、千尋はまたベッドへと戻り体を休めた。



7月の太陽は、朝から既に燦々と日照っている。

千尋は、眩しく目を細めながら、学校へと登校する。

「荻野!」

学校の門に辿り着こうとするところで、後ろから声を掛けられ、千尋は振り向く。

「香野くん。」

千尋と同じクラスの男子、香野が、息を切らせながら千尋に追いつく。

「おはよう。どうしたの?まだ時間、余裕あるのに。」

「いや、その…。お前さ、昨日の夕方、銭湯の前で男と話してただろ?」

「あーうん。見てたの?」

「部活のランニングの途中だったからさ、チラッと見かけたんだけど。」

「それがどうかしたの?」

「なんか、絡まれてなかったか?お前。」

「えっ!違うよ。あの人が水撒きしてた所を私が通ったから、水がかかってしまって。それで、話し込んでただけよ。」

「そうなのか?」

「そうだよ。何、勘違いしてるの。」

「それなら、別にいいんだけどよ。」

カッと頬を赤く染めながら、香野はふいっと横を向く。

「毎日大変ね、部活。今日も朝練だったんでしょ?」

「まーな。うちは弱小サッカー部だから、たくさん練習しなきゃ試合に一勝も出来ないし。」

「そう…。頑張ってね。」

その千尋の言葉に、香野はニカッと微笑むと、じゃあな、と千尋よりも先に走って行った。

「ちーひろ!」

「わっ!」

間髪を入れず、千尋の友人、美佳が背後から千尋の肩を掴み声を掛ける。

「美佳ちゃん!びっくりするじゃない!」

「へへ、ごめ〜ん。なんかさ、香野といい雰囲気だったから、いつ声掛けようかな〜って思ってたんだけど。」

「えーずっと後ろに居たの?」

「うん。」

「声、掛ければよかったのに。」

「そんな、ヤボなことはしないわよ。」

「ヤボって…。」

「まったく。千尋ってホント鈍いのね〜。香野って、千尋狙いよ?」

えっ…と千尋は驚いた顔を見せると、美佳は、はぁ〜っとため息をついた。

「あ〜あ。香野、カワイソ。こんな恋愛に鈍な子を好きになるなんてサ。」

「…鈍で悪かったわね。」

「ねぇ、千尋って本当に好きな人、いないの?」

そう問われて、一瞬、千尋の頭の中に、"伽羅の湯"の青年の顔が浮かんだ。

( やだ、私ったら何であの人の事を思い出すの! )

途端に頬が熱くなるのを感じて、千尋はぶんぶんとかぶりを振る。

「お?顔が赤くなった〜!ってことは、いるな?好きな人!」

「い、いないわよ!」

「隠すな、隠すな。誰よ?白状しろ〜っこの!」

千尋の頭に、ぐりぐりと拳を突きつけながら、美佳はニヤニヤと笑う。

「やめてよっ美佳ちゃん〜〜」

必死で、美佳の手を振りほどこうとしながら、千尋は、ふいに視界に入った男性に目を奪われる。

「あっ…。」

「どうしたの?千尋…」

千尋の視線の先に目をやると、美佳は、あーっ!と声をあげた。

「ちょっ…千尋、見た?あの人、すっごくかっこいい〜!」

「う、うん…。」

美佳の大きな声で、門の前に立っていた青年が千尋達の姿に気づく。

「やあ。」

「あ…どうも。」

昨日の"伽羅の湯"の青年から声を掛けられ、千尋は声を上擦らせる。

美佳は、え?え?とした顔でキョロキョロと二人の顔を見比べる。

「君、これ、昨日忘れていっただろ?」

「あ…気がつきませんでした!ごめんなさい、ありがとう、わざわざ。」

すっ…と差し伸べられた青年の手のひらの上にある、赤紫の組紐のバンドを受け取ると、千尋はぺこっと軽くお辞儀する。

「それ、大事なものだろう。なくさないよう気をつけて。」

「はい…。」


―――大事なもの?

そう…これは大事な私のお守り。

いつからか知らずの内に持っていた組紐のバンド。

それを、どうしてこの人は大事なものだって、知っているんだろう…?

千尋は、疑問に感じながら青年をじっと見つめた。


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