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「ただいまー。」 「お帰り。随分、遅かったのね。」 台所で料理をしている母親に千尋は帰りを告げると、不機嫌そうに応える声に少し、しりごみしてしまう。 「…うん、ちょっと銭湯に寄って来たから。」 「銭湯?どこの銭湯に行ったの?」 「学校の帰り道にある銭湯だよ。ほら、"伽羅の湯"って大きな看板が出てるじゃない。」 「伽羅の湯、ねぇ…。そんな銭湯あったかしら?」 「お母さんはあんまりあの辺通らないから覚えてないのよ、きっと。」 「ま、それはいいから、夕飯の仕度手伝ってちょうだい。もうお父さんも帰って来てるわ。」 さして娘の行動に対して気にも留めない母の言葉に、千尋は、はいはいと呟き仕度を手伝った。 夕飯を食べ終え、自室に戻ると、千尋はドサッとベッドにうつ伏せに倒れ込む。 「はぁ〜…。疲れちゃった。」 まだ学校の宿題も片付けてはいないのに、寝てはいけないと思いつつも千尋の瞼は、うとうとと閉じかける。 ( あの人…明日もあの場所に居るかしら。 ) 今思えば、割と目鼻立ちの整ったハンサムな青年だった。 いくら、あんまり異性に興味はない千尋とはいえ、少し胸が高鳴っていた。 それに、どこかあの青年は他の男の子とは違う雰囲気があった。 肩まで切り揃えられた漆黒の真っ直ぐな髪。セピア色した瞳。すらりと伸びた高い背丈。 この俗世の穢れた部分を全て振り払う、内面から滲み出るような、そんな綺麗なオーラを帯びているようであった。 ( いやだ、私。どうしたんだろ…。急にこんなこと考えるなんて。 ) 自分は他の子達と違うのに。恋、なんて縁遠いと思っている。 千尋は、ぶんぶんと頭を振ると、布団の中にモゾモゾと入り込み目をギュッと固く瞑った。 ……千尋。 何処からか、私を呼ぶ声が聞こえる。 「 誰…? 」 辺りを見渡す。その声のする方に歩く。 深い霧がかかった、真っ暗な闇。1人きりの自分が寂しくて、その優しげな声の主を探す。 「 千尋…。 」 背後から名前を呼ばれ、驚いて振り向く。 「 あ…あなたは、伽羅の湯の…?」 切なげな表情で私を見つめる。 「あの、どうしたんですか?」 問い掛けると同時に、ふわっと包み込まれる私の体。 「あ、あああの!」 そのまま顎を持ち上げられ、唇がゆっくりと下りる…。 「…ハッ!」 目を開けると、正面にはいつもの天井。 「夢…か。」 びっしょりと汗で濡れた体が気持ち悪く、千尋はベッドから出ると、窓を開けて空を眺めた。 夏の生温かい夜風が千尋の前髪を、さわさわとなびかせる。 「あの人が夢に出てきちゃった…。」 寝る前に、あの銭湯の青年のことを色々考えていた所為なのだろう。 千尋は、ふふっと苦笑いをする。 暫く夜風にあたり、火照った体を涼み終えると、千尋はまたベッドへと戻り体を休めた。 7月の太陽は、朝から既に燦々と日照っている。 千尋は、眩しく目を細めながら、学校へと登校する。 「荻野!」 学校の門に辿り着こうとするところで、後ろから声を掛けられ、千尋は振り向く。 「香野くん。」 千尋と同じクラスの男子、香野が、息を切らせながら千尋に追いつく。 「おはよう。どうしたの?まだ時間、余裕あるのに。」 「いや、その…。お前さ、昨日の夕方、銭湯の前で男と話してただろ?」 「あーうん。見てたの?」 「部活のランニングの途中だったからさ、チラッと見かけたんだけど。」 「それがどうかしたの?」 「なんか、絡まれてなかったか?お前。」 「えっ!違うよ。あの人が水撒きしてた所を私が通ったから、水がかかってしまって。それで、話し込んでただけよ。」 「そうなのか?」 「そうだよ。何、勘違いしてるの。」 「それなら、別にいいんだけどよ。」 カッと頬を赤く染めながら、香野はふいっと横を向く。 「毎日大変ね、部活。今日も朝練だったんでしょ?」 「まーな。うちは弱小サッカー部だから、たくさん練習しなきゃ試合に一勝も出来ないし。」 「そう…。頑張ってね。」 その千尋の言葉に、香野はニカッと微笑むと、じゃあな、と千尋よりも先に走って行った。 「ちーひろ!」 「わっ!」 間髪を入れず、千尋の友人、美佳が背後から千尋の肩を掴み声を掛ける。 「美佳ちゃん!びっくりするじゃない!」 「へへ、ごめ〜ん。なんかさ、香野といい雰囲気だったから、いつ声掛けようかな〜って思ってたんだけど。」 「えーずっと後ろに居たの?」 「うん。」 「声、掛ければよかったのに。」 「そんな、ヤボなことはしないわよ。」 「ヤボって…。」 「まったく。千尋ってホント鈍いのね〜。香野って、千尋狙いよ?」 えっ…と千尋は驚いた顔を見せると、美佳は、はぁ〜っとため息をついた。 「あ〜あ。香野、カワイソ。こんな恋愛に鈍な子を好きになるなんてサ。」 「…鈍で悪かったわね。」 「ねぇ、千尋って本当に好きな人、いないの?」 そう問われて、一瞬、千尋の頭の中に、"伽羅の湯"の青年の顔が浮かんだ。 ( やだ、私ったら何であの人の事を思い出すの! ) 途端に頬が熱くなるのを感じて、千尋はぶんぶんとかぶりを振る。 「お?顔が赤くなった〜!ってことは、いるな?好きな人!」 「い、いないわよ!」 「隠すな、隠すな。誰よ?白状しろ〜っこの!」 千尋の頭に、ぐりぐりと拳を突きつけながら、美佳はニヤニヤと笑う。 「やめてよっ美佳ちゃん〜〜」 必死で、美佳の手を振りほどこうとしながら、千尋は、ふいに視界に入った男性に目を奪われる。 「あっ…。」 「どうしたの?千尋…」 千尋の視線の先に目をやると、美佳は、あーっ!と声をあげた。 「ちょっ…千尋、見た?あの人、すっごくかっこいい〜!」 「う、うん…。」 美佳の大きな声で、門の前に立っていた青年が千尋達の姿に気づく。 「やあ。」 「あ…どうも。」 昨日の"伽羅の湯"の青年から声を掛けられ、千尋は声を上擦らせる。 美佳は、え?え?とした顔でキョロキョロと二人の顔を見比べる。 「君、これ、昨日忘れていっただろ?」 「あ…気がつきませんでした!ごめんなさい、ありがとう、わざわざ。」 すっ…と差し伸べられた青年の手のひらの上にある、赤紫の組紐のバンドを受け取ると、千尋はぺこっと軽くお辞儀する。 「それ、大事なものだろう。なくさないよう気をつけて。」 「はい…。」 ―――大事なもの? そう…これは大事な私のお守り。 いつからか知らずの内に持っていた組紐のバンド。 それを、どうしてこの人は大事なものだって、知っているんだろう…? 千尋は、疑問に感じながら青年をじっと見つめた。 |