@基調講演(講師:佐々木 正美氏)

佐々木正美をご紹介させていただきます。先生は1953年にお生まれになり、川崎医療福祉大学教授であります。精神科医としてもご活躍であり、幼稚園、学校、児童保護施設、児童相談所、保健所などで30年以上前からこどもの臨床に携わってこられています。それから、保育の現場で働く保育士、幼稚園の先生方との勉強会を20年以上も続けておられます。ですから、先生ほどこどもの現場をよく知っていらっしゃる精神科医は日本にはめったにいらっしゃらないということになります。

 

 先生のプロフィールを紹介させていただきます。新潟大学医学部を卒業、その後東京大学で精神医学を学ばれました。ブリティシュコロンビア大学児童精神科に留学され、国立秩父小児療育センター所長を歴任されています。この間東京大学精神科、東京女子医科大学小児科、御茶ノ水女子大学児童学科で非常勤講師、横浜市総合リハビリテーション参与でもあり、アメリカのノースカロライナ大学の精神科臨床教授でもあられます。子育て協会の顧問としてもご活躍です。

 

今日はコミュニケーションへの希望という演題を使わせていただきます。なぜこの演題を選ばせていただいたかと言いますと、今年の初めに、長い間引きこもり、社会の再出発をなさった「うえやまかずき」さんという方が「引きこもりだったぼくから」という本をお書きになりました。その本の中に、引きこもっていたときの自分自身の気持ちを一言で言うならば、周囲にいる人々との全てのコミュニケーションに絶望してしまっていることだということをお書きになっていた。みごとな表現だなと思い、それで私は絶望の反対、コミュニケーションへの希望 こういう演題を選ばせていただきました。

 

 今私たち児童、青年、家族という精神医学、精神保健を専攻しておりますものにとっては、引き子もりの問題というのは、重要な問題だと思っています。数ヶ月前にニューズウィークを、週刊雑誌のニューズウイークを見ていましたら、引きこもりという言葉がそのままローマ字で出ておりまして、アメリカには無い現象、世界中にほとんど無い現象だと申し上げてよい現象です。引きこもりという言葉があたかもkaraokeという言葉をそのまんま欧米のひとがそのまま用いるように日本語を使ったということでありまして、日本の文化のいろんな紹介の中に引きこもりという言葉が使われていて、それに対して、social with drowal ? 引きこもりという意味の解説がなされておりました。今私たちが生きている文化がどんなものであるかも考える一面もお話できるかと思います。

 

 うえやまかずきさんは今、社会への再出発をされた三十代の若い方ですが、引きこもっている人とそのご家族を支援する活動をしておられるというようにお書きになっています。で、引きこもっていた時の自分の気持ちを出来るだけ告白して、多くの方の理解を求めたい、こういうふうな意味を込めて書いたと述べられています。うえやまさんは神戸の辺りのお住まいだったと思います。大変な秀才だったようであり、ご自分で奇をてらわず淡々と書いておいでですが、そちらの地域で入学偏差値の非常に高い学校への進学をめざす学習塾である時1番だった、そういうことを実に淡々とお書きになっています。その時自分は思いました、家族も思ったに違いない、灘中学に進み、灘高校、東京大学を一直線に進む、それも比較的容易に進むという思いだったということを率直にお書きになっています。ところが中学に入ってしばらくした頃から登校しようとすると激しい腹痛と嘔吐、下痢におそわれ学校を休まざるを得なくなります。学校を休むことを決めて、家族もそれを了承してそれだけで症状がおさまってくる、こういうふうなことをおっしゃっているんですね。

 

そういうことを繰り返し、引きこもって十何年、その時の気持ちを実に赤裸々にお書きになっています。自分の周囲にいる人々とのコミュニケーションに絶望してしまっている自分、引きこもっているひとの心理状態を一言でその核心部分を表現するならば、そういうふうに言えると思います。親を含めてであります、親を含めて全ての人々とのコミュニケーションに絶望している状態と申し上げていいかと思いますが、私の三十余年の臨床経験の中で申し上げるなら、コミュニケーションの絶望の最初の対象が親ではないのか、こう思っています。親を単純に引きこもりの原因の全てだとこんなふうに言うつもりはありません。親がなぜこどもとこんな関係になってしまうのかということも私たちの文化の中で考えなければならない問題だと思います。確かに多くの引きこもりや不登校のこども達に出会ってきて、親子のコミュニケーションのいい引きこもりや不登校というのは全く無いと言っていいと私は思います。確かにコミュニケーションへの希望を見出すのは親子関係からだろうと思います。

 

では何故今日親子関係がへたになってしまったのか。どの位私たちが親子関係が希薄になってしまったか。あるいは、不幸な状況になってしまったかということの実情をご案内してみようと思います。近年、財団法人日本青少年研究所の中学生、高校生を対象にして様々な調査をなさっている。例えば1996年6月に公表された調査がありまして、仮の名前親孝行に関する調査 こんなふうな主題が付いたある調査研究があり、日本、アメリカ、中国の現役の高校生を、それぞれの国から無作為抽出で2000名で調査、いろんなことを問いかけていますが、その中で、こんな問いがあります。「あなたは、あなたの両親が将来高齢になって、自分では生きていけなくなった時、あなたは最善を尽くして自分の両親を援助しようという気持ちがありますか」 この問いに対して「はい」と答えた高校生は 中国では、その時最善を尽くすと答えた高校生は66%でした。丁度三人のうち二人でした。三人の内、1人はそうではない方を選びました。アメリカの高校生は46%がyesです。半分弱であります。ところが、日本の高校生は最前を尽くして自分の両親をその時援助しようという気持ちがありますと答えた高校生は16%しかありませんでした。2年後に今度はアメリカ、韓国、日本の高校生を対象に、同じような調査をいたしました。その中に「あなたは、あなたの両親を非常に尊敬しますか」と聞いています。「あなたは、あなたの両親を非常に尊敬しますか」という問いに対して、尊敬していますと答えた高校生は、アメリカでは80%、五人の内四人、つまり五人のうち1人はそうではない方です。韓国では55%弱、日本の高校生は、自分の両親を非常に尊敬すると答えた高校生10%しかいません。これが現実です。

 

その他いろいろな問いがあります。「あなたが結婚しようとする時、何らかの事情があって、どちらかの両親と同居することが望ましいという事情が仮にあったと想定して、あなたは以下のどれを選択する」、というのがありますが、どんなことがあっても、絶対いやですという項目を選んだ高校生は日本の高校生が一番多いです。

 

私たちは、どんな親子関係を継続してきたのかということでありますが、今日、この中に、保育園や幼稚園でお仕事をなさっている方がいらっしゃるでしょうか。私は保育園の皆様との勉強会は非常に頻繁に、長く続けています。昨晩は倉敷の保育所で勉強会をしておりました。十数年前から横浜の保育者から教えられ続けていることですが、保育園の子ども達がままごと遊びをする力を失ってきている。ままごと遊び、家族遊びをする力を失っている、これは十数年前から言われていることですが、最も顕著な特徴、傾向、保育者の目にとまる現象は、女の子がお母さん役を引き受けるのをとても嫌がるようになった、 ほとんど積極的に引き受けてくれるこどもがいない状態になりました。横浜の保育者の勉強会で出されましたが、ほとんど同じことが近年、倉敷での勉強会でも出されました。かっては、女の子であれば、ほとんど全てお母さんをやりたがる、みんなが競い合ってお母さんをやりたがる 母親の役を奪い合った、今は多分、ご当地でもお母さんをやってくれる子といってもほとんど手を挙げる子はいないんじゃないか。ところで、男の子がお父さん役をやるのはどうでしょうか。一見、女の子がお母さん役を嫌がるほどは嫌がらないようにみえるんだそうです。けれども、何ちゃん、お父さん役をやってくださいと、遊びを始めてみますと、どう振舞っていいか分からなくて、ボーと突っ立っているだけ、こういう現象がとても顕著だということです。これは横浜だけではなく、倉敷でも、岡山市でも同じだということを教えられました。それでは、子ども達は何をやりたがるかと申しますと、一様にペットだそうですね。ご当地でも、直ぐに思い当たられるでしょう。ペットをやりたがるんですね、家族遊びをやると。女の子だったら、全てお母さんをやりたがった時代に、犬をやらされる、猫をやらされる子がたまにいたそうです。それは言わばいじめの対象のようなこどもだったとこういうことが言われます。横浜のある園長さんは、昔はうちの子にばかりなぜ犬をやらせるのかと怒ってこられたお父さんがあったそうですが、今はほとんど全ての子がそうでありますから、時代が変わった。時代が変わったというような気楽な気持ちではいられない。でも、これは、大人の生き方をみごとに反映しています。日本は今、世界第二の少子国です。こどもを産んで、育てる力を失った国です。

 

世帯数に比べ、世界第1のペット保有国です。そして、こどもは世界で二番目にいなくなった、この現実をお考えいただきたい。それも、日本ほど血統書の付いた、高価な犬や猫が売れる国は世界中どこにも無いそうです。高価な愛玩用のペットを繁殖させて、売買する業者にとっては、日本は最大のマーケットだそうです。ところがその一方で、年間60数万びきの犬や猫が、保健所を通じて殺されているそうです。もちろん、雑種であります。見向きもされない犬や猫がいる一方で、高価な犬や猫が世界一売れる。この姿に幼い子ども達があこがれる。親になりたがらない、大人になりたがらない ということが想定できないでしょうか。私たちの家庭における日常生活の一端を、幼いこどもなりに表現している。高校生は高校生として表現して、欧米の代表のアメリカやアジアの代表の中国や韓国の高校生と親に対する思いがこんなにも開きができてしまった国ということを本気で考えなければいけないと、私は思っています。

 

こどもというのはなぜ、ペットになりたがるのか。ごく最近、私は自分の大学の大学生が卒業論文をゼミナールでした調査研究の一端をご紹介しようと思う。こどもや若者たちがどのようなプロセスをたどって自己同一視のモデル、あるいはアイデンティティーのモデル。自分の行き方の理想のモデルを見つけていくのかに関する、研究、調査をしようとしたんです。諸外国の調査研究によりますと、子ども達の年齢が大きくなるにつれて、自分は将来、あのような人間になってみたい。あのような人の生き方をお手本にしたい。こんなふうな、理想像、生き方の理想像を求めていく、あるいは確立していく比率が、年齢と共に増えていくものです。近年あまり行われていませんが、かつてそうでした。日本では、年齢と共に増えないで、ほとんど同じだということが分かりました。学生の不十分な研究ですが、そのことは明らかなようでした。そして、幼いこどもで申しますと、大きくなったらあんな大人になりたい、自己同一視の最初のモデルは親であることが多いんです。時に幼稚園の先生という場合もありますが、ほとんどの場合、親である。ところが、幼少期に親を自己同一視のモデルにできないこどもが増えてきた。その一端がままごと遊びのペットになりたがるというようなところに現れていると思います。そして、幼少期に自分の親を自己同一視のモデルに選べなかったこどもというのは、その後大きくなるプロセスの中で、友人や先輩や先生や、社会的に活躍している人や書物の中で知った人や歴史上の人物に自己同一視のモデルに広げていくことができないのではないか。というようなことを示唆してくれる研究の成果でした。幼い時に親、あるいは親代わりの人に、こんな大人になりたいという感情を抱き得ないと、大きくなっていくプロセスの中で、親を超えて、様々な人をモデル化していきますが、そのモデル化が出来ないそういう可能性を改めて教えられました。まだ、不十分なショートレポートですが、学生に、これはあなたのライフワークになると話しました。しっかり、時間をかけて研究してみる価値のあるテーマがつかめたんじゃないかと思いました。

 

私たちは人間としての尊厳をどのようにして得ていくのか。その前に人間は自分の存在をどのようにして実感するのか。自分の存在の意味や価値を実感するのかについて、ハリースタックサリバンという高名なアメリカの精神科の医者は、こんなことを言いました。彼は1949年に亡くなっていますが、とても人道的な医療に取り組んだ人です。みすず書房から彼の言葉を集めたいい本が出ています。精神医学は人間関係医学である こんな本があります。神戸大学の中井ひさお先生達が翻訳をなさったのですが、つぎのような言葉が私たちにインパクトを与えます。一人一人の存在する意味は、価値は人間関係の中にありますこういうことを言いました。皆さん、私、それぞれが、自分の存在する意味、価値は何だろうと自問してごらんになれば、サリバンはこう言ったと思います。あなたが日々どんな人たちと、どのような人間関係を営みながら生きているか。あなたがどのような人とどのような人間関係を営んでいるかということの中に、あなたが存在する意味がある。極端な場合には、人間関係の中にしかないとも断定しています。なるほどと思います。精神障害は全て人間関係の障害です。精神的な問題に対するセラピー、治療は人間関係の調整に他ならない。精神医学は人間関係の学です。引きこもる人たち、人間関係を失った人たち、人間関係に絶望した人たち 何を意味するかを皆さんと考えなければいけない。この会はそういう意味も大きいのではないか。

 

人間関係について、私は30数年前、カナダのバンクーバー、ブリティッシュコロンビア大学に留学している時に出会ったエリクソンの言葉、人は人間関係をしてこそ人間になる ということに教えられた。それでは、人間関係、どのような関係が良い関係といえるか、エリクソンは絶えずこんな言い方をしたそうです。優れた人間関係というものは、お互いが与えているものと与えられているものが等しい価値を持ち合っていることを、実感、自覚、認識するとき、その人間関係は最高のものといえるのではないか。私がAさんと優れた人間関係にあるとすると、私がAさんに与えているものと、Aさんが私に与えてくれているものが等しい価値を持っている。内容が同じという意味ではない。むしろ違う。違うから価値があるんです。お互いに等しいものだと認識し合えている時、私とAさんは大変優れた関係だとエリクソンは言ったそうです。皆さんは日々の生活の中でどのような人と与え合っているものに等しい価値を見出してごらんになりますか。職場の同僚、家族、夫婦、近隣の人々、いろんな人とそういう関係がおありでしょうね。

 

人間は人間関係なしに自分の存在の意味も、価値も実感できない、サリバンは言いました。では、どのような人間関係が優れたものかというと、与えているものと、相手から与えられているものが等しい価値を持ち合っていることを、相手も自分も認識しえているとき、もっとも優れた人間関係を構築しえているとエリクソンは言いました。時にこんな例を言ったそうです。お母さんが赤ちゃんといる時、お母さんが赤ちゃんの側にいることに幸福を感じることができれば、赤ちゃんはお母さんといることに幸福を感じることができる。非常に分かりやすい例ですね。お母さんが赤ちゃんと一緒にいることにもし幸福を感じられなかったら苛立ちでも、不安でもストレスでもその他なんでもよろしい。子どもはお母さんといることに何を感じるかと言うことをご想像いただければ言い訳です。ですね。生徒から学べない教師は、生徒に対して沢山の事を教える事は出きないと思うとエリクソンは言いました。患者さんから大きなものを与えられている恩恵を感じる事ができない医師は、患者さんに多くのものを与える事はできないだろうと、このこともエリクソンはたえず言ったそうです。エリクソンは精神分析の医師であります。私は、今日の風潮、かなり不幸な風潮だと思います。育児はストレスですか。育児はそんなに不安の大きい事ですか。喜びではないんですか。そのお母さんが育児をしている時にストレス、育児不安だと言うような事をとても強く意識してらっしゃたら子どもはそのお母さんといることがストレスです。そのお母さんといることが不安であります。ですね。どうしてもっと素直に率直に育児には、こんなに喜びがあります、こんなに幸福がありますということをどうして言えないでしょう。そう思っている人は沢山いるんです。だけど、育児にストレスを感じたり育児に不安を持っている人の声が大きいのです。あるいは、評論家がそういう人が多いのであります。育児に不安をストレスを感じる人が評論家になるんじゃないかと思う位であります。育児に喜びや幸福を感じない人は評論家にならないんじゃないかと感じます。もう育児に満足してらっしゃるから、そうじゃないかと思っています。育児を支援すると言う事はとても大切な事だと思っています。これは別の意味です。子供っていうのはいろんな人の愛情に触れなければ、健全な人格の発達はできませんから、だけど、それはですよ、育児の不安やストレスを感じるから皆がですよ応援するんじゃないであります。お母さんは育児を喜びとして幸福に思っていただかなければ困るんです。あるいはご夫婦でそういう家庭を作っていただかなければ困るんです。それでもなおかつ育児は多くの人の手によってなされるべきなんです。お母さんが育児が大変だから、つらいから、苦痛だといっているから手伝うんじゃないでありますよと私は思っています。その事をだんだん話していこうと思っております。お母さんが育児に喜びを持っていなければ話していけないんです。もっと持てるように私達は文化を創らなければいけないんです。保育所を増やせばいい、こんなものではないのです。こんな事によって私は育児が楽しくなるなんて簡単に思いません。もっと人間的な問題であります。ですね。人間的な問題であります。先程の高校生の自分の親に対する意識を皆さん是非実感して頂きたいと思います。

 

もう1年位前になりますが、埼玉県のある市で、中学生の保護者会にご一緒した事がありました。あるご夫婦が実に率直にご質問してくださったんですね、1年後20年後30年後と、今中学生である自分の子供と自分がどんな関係で生きていくかという事を考えると不安を感じるとおっしゃいました。どんな関係になっているとなっているのか予想もつかないとおっしゃたんですね。完全に予想する事は確かにできません。けれどもそのご夫婦に私はこう申しました。今、ご夫婦のあなた方がご自身のご両親がいらっしゃるでしょうと。それぞれにお元気でいらっしゃれば、4人いらっしゃるんですね。子供にとっては祖父母であります。ご質問くださったご両親のご両親がいらっしゃるでしょうと。その人たちと今、どういう関係で生きていらっしゃるかということをお考えになれば、分かりやすい話しではないですかと。自分が自分の親とどういう関係で生きているかという事と将来自分が自分の子供たちとどういう関係で生きるかという事は、とてもよく似た形になるんじゃないでしょうかと。時代の文化の影響は受けます。時代の風潮の影響は受けるにしろ、基本的なところは、そう変わらないのでないかとこう申しました。そのご両親は実に率直な方だったと、ある意味で思いますが、それでは困るんですとおっしゃたんです。お話しを伺ったところ、多くの者がすぐ察しました。たぶんご質問くださったご両親は、自分たちの年老いたご両親を割合粗末にしてらっしゃると、だけど自分の子供からは粗末にされたくないと、こういうご意向の様でありました。こんな虫のいいことが有り得るか、誰にだって解ります。解りますよね、ですね。

 

今、日本の中学生高校生が自分の親に対して、どんな気持ちでいるかと言うことであります。財団法人日本青少年研究所の方は、それをもう本当に熱心に調査をし研究し、そしていくつかの国と比較してこういう状態ですよということを一年おきぐらいに大きな報告書を提出してくれます。新聞も一日だけは取り上げます。どうして何日も何回にも渡ってその内容を私達国民に、市民に伝える努力をされないかと思うくらい、さっぱりとした報告です。新聞は報道であります。

 

しばらく前に、中学生も含めて高校生とあなたは自分の両親の所に生まれて来たということに満足をしていますか。言葉を変えればあなたは自分の両親の子供であることに満足してますかと、自分の両親の所で生まれたということに満足しているかと、日本の中学生高校生は、最低の数字でありますよ。25%ほどであります。満足してるっていうのは、自分の親の所に生まれてきたことをですよ。こんな国はどこにもないんです。日本中世界中であります。どこにもないってことを研究所の方はおっしゃっているんです。自分の親がこうなり名を遂げた人であろうがなかろうが、ですよ。経済的にゆとりがあろうが無かろうがですね。立派なお屋敷のような家に住んでいるとか住んでいないとかを越えてですよ。子供は親の想いがあるはずですよ。だけど、その前に親が子供に対する想いが有るからでありますが、もっと大きい家に住んでいる親の元に生まれたかったとか、こんなことを子供は思う訳はないでしょう。もっとお金持ちの親が欲しかったとか、子供っていうものはこんな物に左右されるんじゃないですよね。そう思われませんか、皆さん。だけど、それに近いような反応を子供たちが起こす様な私達は育児や教育をしてると思います、ですね。もしかして、大きくなったら親の様になりたいという事を幼少時に思えないという不幸を私達はかみ締めなければいけないと思うんであります。

 

今私に子供っていうものはどのように育てようかと育てるべきですかと聞かれたら、実はもう随分前ですがある新聞社の方にそう聞かれたんです。その時に私は、自分で自分のことが好きになれる子供に育てたいとこう申しました。以来、ずっとそのことを思っておりましたが、まあまあそれでいいなと思っておりますが、同じことを言っている様でありますが、今ごく最近は人と生き生きと交われるコミュニケーションできる子供に育てたいとこういう風に思っています。人間関係が上手にできるって言うか、楽しくできるって言うか、幸福にできるって言うかということであります。人間関係が幸福にできないと、生き生きとできないとコミュニケーションが生き生きとできないと言う事は、どんなに非人間的な事かと言うことを改めて考えてみたいと思っているんです。

 

つい先立って中学生が3人でホームレスの人を殴り殺してしまった。殴る蹴るの暴行を加えて殺してしまったという大変に不幸な事件がありました。少年が逮捕された直後に警察で語ったことだそうであります。あのおじさん達を3人でボコボコに殴って蹴ってやっていう最中に、僕達3人は一体感を持てたとこう言っているそうです。本当だろうと思います。カッとなってこんちきしょうと言うような気持ちで3人が心を一つにして、ホームレスのある人を殴る蹴るの暴行を加えた時に、自分たちは興奮の絶頂の中にいて一体感になれたとこういう事を言っている様です。本当だと思いますよ。大方の方はそれを聞いて、なんと言う事だと思います。私も思います。けれども、人間というものは他者と一体感になれる経験ってのをしなければ、不安でしょうがないものなんです。実は不安でしょうがないものなんです。だけど、そんな事ではなくて一体感になれるような育児や養育や教育がなぜ成されないかと、今日本で、でありますよ、ですね。人と一体感になれるという時に人間は存在の喜びを感じるものなんです。1人が何かどんなにできたって、人間の存在感を希望を生きる希望を抱く事はできないんです。

 

上山一樹さんは、おっしゃたんです。抜群に勉強ができたと。仲間たちの中で、だけど生きる希望になんかならないと言ってるんでしょ。周囲の人とのコミュニケーションに絶望してしまっている状態、これが引きこもりだと、こうおっしゃっている訳です。同じ様に引きこもり経験をして、再出発を最近なさった勝山稔さんという方がおいでになります。この方も引きこもりカレンダーというとても解り易い本を書いて下さったんです。勉強が大変よくおできになった様です。決して気をてらったり、誇ったりするようなお気持ちでなくて、淡々と自分で自分をそう書いてらっしゃるんです。で、その中で、その著書の中で、こんな事を書いてらっしゃいました。たった引きこもっている者にとっては、たった一人ぼっちになってしまう、孤立してしまう状態、その状態への苦痛ってものはさほど大きいものではありません。人の中に居ながら人と交われない苦悩というものは表現しようが無いほど大きなものなんですと、お書きになっているんです。人の中にいて、人と交われない苦痛苦悩というのは、計り知れないものが有るようです。1人きりで居る事への不安苦痛苦悩の方がはるかに小さいと、人の中にいて人と交われない苦悩の大きさって表現しようが無いほど大きい。こういう風にお書きになっています。

 

今日本中の性に関する調査によりますと、日本中どこで調査をしても高校生の性体験は40%ないし、それを超えると言われます。東京都内で言いますと45〜46%ですね。高校生の性の体験です。彼らにあるいは彼女らに聞きますと、性体験は自分たちにとって唯一他者から受け入れられている事を実感できる体験だと、こういう事をかなり共通して彼ら彼女らは表現するそうです。性行為の最中にしか、自分は他者から本当に受け入れられているって実感が持てないんです。先程のホームレスの人を殺してしまった少年達、あんな行為の中にしか、一体感を感じられないんですと、他者とこういうことを言ってる訳なんですね。激しい興奮の中にしか、しかもそれは病的にですよ、異常な状態の中にしか一体感を感じられないと、こんな事を、彼ら彼女らはだんだん明確に語るようになりました。その性教育に関する研究会の人達の調査の中で、言われている事です。彼ら彼女らは絶えず携帯電話で誰かとやり取りをしてないと不安で居られないと、絶えず携帯電話で誰かとやり取りをしてなければ、居られないという若者ほど、人間に直接会えない、あるいは本当の友人が居ないとこう言います。本当の友人を持っている若者の方が、携帯電話には無頓着です。こういう傾向もだんだんはっきりして来ました。携帯電話にしがみ付くって事は、それしか他者の関係が無いんですよね。だけど、それは擬似体験なんです。本当の人間関係では無いんです。本当の人間関係が豊かに持てる人は、よほどの用事で無ければ必要ないんであります。だけど、他に対人関係、人間関係がなければ、それしか無ければ、それにすがるしか無いと絶えず誰かとコミュニケーションと言いましょうかね。携帯電話上のコミュニケーションをしていなければ居られないという不安、そういう若者ほど本当の友人はいないんですと。

 

こういうと言うことを言ってると言う事を、東京都の性教育研究会の人達がおっしゃっているんです。そうだろうと思います。同じ様な事が2ヶ月ほど前に朝日新聞の家庭欄、文化欄でも紹介されているという事でもありました。

 

私達はどうして人と本当の関係が持てなくなったかと言う事です、ですね。人間関係を失ったら、人間は自分の存在の意味を失うんですと、存在の価値を失うんですと。存在している事態への実感を失うんですと、こういう事を言いますね。そうしたら、どんな人間関係を若者達は模索しなければならないかとこういう事でもありますね。どんな人間関係を模索しなければならないかと、今日私達が一見眉をしかめたくなるような行動を取る非社会的、特に反社会的と言われる若者たちの行為の多くはそれでありますよね、それであります。人間関係を夢中になって模索しようとすると、だけど、普通に健康な人間関係を持てないで苦しんでいると、こういうことでありましょう、ですね。

 

つい先だって、私はある人から神谷信行さんとおっしゃる高名な弁護士の方がそうであります。その人のお書きになった罪と向かい合う犯した罪と向かいあう少年と言うこういう書物を頂きました。不幸な事件を引き起こしてしまった少年、犯罪少年達を理解し、サポートしようという努力を一生懸命なさっている方がそうであります。お名前ぐらいは存じ上げていましたが、著作を拝見したのは初めてであります。その中で、神谷さんはこういう事をしみじみお書きになっています。近年の少年達の凶悪な我々から見て凶悪に見える犯罪の大多数が孤立犯、孤独型、引きこもり型、そういう事になって来たとこうおっしゃたんですね。例として沢山あげてらっしゃいました。ふっと記憶に有るだけでも、愛知県豊川で老婆を殺した少年、佐賀のバスジャックの少年、神戸の酒鬼薔薇少年、大分で一家を殺傷した少年、どうでしょうか、岡山県で野球部の少年で母親をバットで殴り殺してしまった少年、高等学校を中途退学した後、倉敷から上京して東京の池袋で無差別な殺傷事件を起こした少年、皆1人でありますね。もっと沢山挙げられていました。殺人に至らない事例なら無数に有ると。圧倒的多数が孤独型・孤立型・引きこもり型だと、顕著な例ですとおっしゃっている訳であります。人間関係を失うと言う事がどんなに人間性を失うかと言う事であろうかと思うんですね。

 

今年の夏の直前であった様に思います。東京TBSをキーステイションにして全国ネットで放映されたあるテレビ番組がありました。ご覧になった方はいらっしゃいますか。私も実は見損なったんです。学生が録画しておいてくれたそれを後から見せてもらいました。香川大学の教育学部の教授岩槻賢二さんって方がおやりになっているお仕事で思い残し症候群NHKブックスから本がございますですね。そのビデオでありました。実際に放映されたもののビデオテープでありました。思い残し症候群と引きこもったり摂食障害拒食症となったりと様々な状態で苦しんでいる非社会的あるいは時に反社会的な衝動と持って苦しんでいる20代から30代の人達を岩槻先生は奥様と協力して家庭の中で治療を試みてらっしゃるんです。幼少期に、こんな事をして欲しかったのに、あんな事をして欲しかったのにとそれを家族からして貰えなかったと言う人の20代30代になってから、治療であります。ご覧になった方がおいでになるかと思います。びっくりされたでしょう。2030代の若い大人たちに岩槻先生はご夫婦で協力して、まず哺乳瓶でミルクを飲ませる所から治療していましたね。しっかりだっこをしてとありました。ある20代半ばの女性などは、先生これ私が自分で作って来た手作りのオムツです、交換して下さいと、こんな事を岩槻先生におねだりしていましたね。幼い頃に十分に手をかけ、心をかけしてもらえなかった事を20代になろうが30代になろうがやって貰えなければ、先に進んで行けないと、そういう風に訴えている若い大人たちが大変な数、押し寄せて来ているそうです。岩槻先生の所へお手紙やインターネットメール、その他で有ります。大変な事だろうと思います。

 

その中にある青年がこんな事を言ってました。岩槻先生の奥様を中心にして彼は、セラピーを受けていました。岩槻先生の家庭で治療を受ける前は、自分は人の目が怖くてしょうがなかったんです。そしてたえず死にたいと思っていたんです。人の目が怖くて怖くてしょうがなかったとですね。理由はわからないけどそうだったんだと。たえず死にたいと思っていました。どんな自殺が楽な死にかたかとたえず思っていたと、ところがその時自分は同時におもっていたこと死んでしまう前に世界中の人を殺してからにしたいとこんな衝動もとても強く思ってましたとこういっていました。はあ、そういうものかと私はそういう表現をする若者には始めて出合ったんです。だけどそういうものかとも思いました。

 

 無差別の殺傷事件って言うのはよくあります。近年なぜこの人がこの人をと思いますよね。大阪の教育大学池田小学校で宅間守っていう人が、何人もの幼い小学生を殺傷したと言う事件がありました。何故だろうと、どうしてあんな事をするんだと、私達皆さん、一応に思われるんだと思います。理由がわからないんです。で岩槻先生の所へ、治療に通ってきているあの青年のことばも成る程こういう気持ちになるものかって事をわかるような気がします。が本当の所は解らないですね。人の目が怖くてしょうがなかったんですと。いつも死にたい死にたいと思っていたんですと、だけど死ぬ前には世界中の人間を殺してからにしたいという思い、衝動もたえずとても強かったですと、ところが、先生の奥様にしっかり抱っこしてもらって、哺乳瓶でミルクを与えられ、食事を食べさせてもらって、その場面出ています。カレーライスなんかを熱いから気をつけなさいって奥様がスプーンで口に一口ずつ運んでくださっていて嬉しいと彼は言っていました。おいしいって言っていました。20代半ばですよ、大人ですセラピーを受けているうちに自分は人の目が怖くなくなってきました。こう言っていました。世界中の人を殺したいという衝動についてはそこでは触れていませんでした。そのあとはセラピーけた後ではですね。成る程と幼少期にこうしてもらいたかったという事がされないままで来る事の怖さを感じます。恐れを感じます。引きこもる若者達、不登校の少年少女たちにも沢山の数出会って来ました。彼等はいろんな言い方をします。いろんな言い方をしますが、詰まる所こういうところで彼等の欲求は一致しているようです。自分の存在を心から喜んでくれる人に出会いたいとこういう事を言いますね。あるいは自分と一緒に居る事に本当に喜んでくれる人が欲しいんですとこういう事をいうんです。親や家庭が何故それをできなかったんでしょう。子供と一緒に居る事に私達は悪い文化を作ったと思っています。育児はストレスなんですよ、不安の強いことなんですかと、こんな事を一生懸命声高に叫んでいくでしょう。何故、子供たちのそばに居る事が幸福じゃないんですか。幸せじゃないですかと本当にわかりました。エリクソンの言葉がしみじみわかります。自分の存在に対して幸福を感じてくれる人が欲しい。引きこもる若者達、不登校の少年達がほとんど一致していうことです。だから勝山実さんもおっしゃるんですよ。引きこもりからの再出発に多くの若者はボランティア活動から始めていくとこういう事を言います。君じゃなくっちゃあならないんだと、君がきてくれたからうれしいんだと、言われる人達を一生懸命求めているですと、引きこもる人間の不登校の子供たち若者達の心理は、こういうものだと思うんだという事を勝山さんは、はっきりお書きになっています。こういう感情は幼少期にしっかり与えておいてあげたいと、あなたが居るだけで幸福だと、あんたが家に生まれてきてくれたことをこんなに自分たちは幸福に思うと、何も天皇家の子供だけがこんな風な思いをもたれるんじゃなくて、どんな庶民のうちのこどもだってあなたが我が家に生まれてきてくれたことを、親と祖父母ともしかしたら近隣の人達、寄って集まって祝福してあげて欲しいと、こういう文化をどうして創れないのかと。育児はストレスです。育児は不安ですと、そういうものがないとは言えません。だけど、幸福のほうが喜びのほうがもっと大きいじゃありませんか。そしてそういう喜びや幸福の方がもっと大きいという実感を持てなかったら、私達は子供を産めません、子供を積極的に産むという時の感情はそうでなんでしょう。子供が生まれてくる事を歓迎するんですよ、喜びとするんでしょ。できちゃたから産むんじゃないでしょ。そうじゃありませんか皆さん。子供は生まれてきてくれる事を心待ちにしている。待っているんです。こういう感情を私達日本人はどんどん失いました。

 

世界第2位の少子国であります。イタリアについで、孤独では人間は居られません。だけど子供を産んで育てる力を失いつつあるのです。その孤独を癒すために、私達は高価なペットを飼っている。こんな生き方をしているんです。そうですよね。今どっかでこういう風潮を変えなければいけないと私は思っています。歯止めをかけて子供の居る家庭ってのはこんなに明るく幸福なんですよと、子供の大勢居る社会は希望が持てるような社会ですよと、そうではありませんかって言う事を、皆さんで確認しあいたいと言い合いたいと思っているんです。子供は親だけで育ってはいけないんです。それは、間違いなくそうです。だけど、子供は親が幸福に思って育てなくてはいけないんです。あなたが居るだけでお母さんは、お父さんは幸福だと、そうじゃなかったら子供は親と居る事に、幸福を感じる事はできません。たぶんいろんな程度にできない子供を育ててきていると思います。親と居る事がこの家庭に生まれた事が幸福だという事を実感させる力を失いながら私達は育児や教育をしているかもしれないと思います。さっきの、日本青少年研究所のかたの人達の研究調査結果をどうぞ、再吟味していただきたいと思います。世界と比べていただきたいという風に思います。どんな世界と比較しても、日本だけが孤立していると、韓国や中国やアメリカのほうがはるかに共通していると、似ていると、少年や青年の感情は本当こういうもんですよ。日本の少年や青年だけが飛び跳ねて違う感情を持ってしまっていると、こうではありませんか皆さん、とても強く感じるんです。

 

子供はいろんな人の手によって育てられなければならないんです。これは疑いのない事実です。どんなに優れた親でも親の愛情だけでは子供は愛情欠乏症になります。どんなに優れた蛋白質を十分食べさせても、蛋白質だけでは栄養障害を起こします。栄養不全をおこします。脂肪も、炭水化物も必要なんです。ミネラルもビタミンも必要なんです。だから愛情にはいろんなタイプの愛情が必要なんです。食物にいろんなタイプの物が必要でそれで健康な体を作るようにいろんな愛情が与えられる事によって始めて健康な心ができるんです。人間ができるんです。

 

私は子供の精神医学を専攻した時点である程度の事は承知しておりました。しておりましたから、私は長男が生まれるときに自分の家庭に私の両親を招きました。まだ、元気でおりました。私達と一緒に住もうと、孫がまもなく生まれてくるからとこういいました。孫には時々会いにいくよと私達はまだまだ元気だからいいよ、というこういう言い方をしました。何も私達が元気な親の面倒を見るといっているのではないのだと、私達には子供が生まれるんだとあなた達の孫が生まれるんだと、孫が育っていくためには親以外の愛情も必要なんだとそうかいといってやってきました。私の親であります私達に対してどんな養育、育児、教育態度を取ってきたかはようく周知しております。孫が生まれて、そうしたら私達にとった態度とは似ても似つかない態度を取り始めたんですよ。ハアこういうものかと思ったんです。だから大切なんだと思ったんです。親と同じ様な事をやるんならば一緒に居てもらう必要はない。違うから価値があるんだということです。端的に申しますとね。親は自分の子供の将来を幸福にしたと思う。こういう愛情を持っています。ある一面の事をお話ししているだけですが、親は子どもの将来を幸福にしたいと。そのために現在の幸福をしばしば犠牲にします。今、苦しくてもこれを頑張っていけば将来明るい希望があるはずだという風な愛情です。ところが祖父母の良い所、親にないところですね。現在を幸福にしてやりたいんです。 孫の今を親は子どもの将来を幸福にしたいという風な微妙な違いがあります。ですが親と祖父母が揃っていればこれは単純にはいかないかもしれませんが現在も将来も幸福であります。そいうい夢がもてると子どもというものは幼い時ほど皆さんネ、現在が幸福でなければ将来に夢や希望はもてないんですよ。今苦しくっても、このことを頑張っていけば将来明るい希望があるはずだ、というのは大人の感情なんです。それは大人の感情です。今現在、幸福でなければ子どもは生き生きと輝かないんです。なぜアフガニスタンの子どもがあんなに生き生きと輝いているんですかと、明日をもしれない生命なのにと戦争最中にと写真家がそう言っていました。なぜこの子ども達の子どもは生き生きと輝いているんだと、そういう疑問だけをおっしゃっていました。写真家がであります。私はそばに居合わせれば小さな感想をもらしたかもしれない。今幸福だからですよと。この子は今の瞬間を幸福に生きているんです、仲間と楽しい遊びをしているんです、輝いているんです、目が生き生きとですね。 私たちは今苦しくても将来幸福になるためにっていう風な教育をしているんです。ですから抜群の秀才だって学校に行けない。学校に行けないってことは、実はですね、皆さん仲間と交われないということなんです。ですから保健室登校はするんです。保健室までは行けるんです。仲間と交われないから教室まで行けないんです。一人でいることの苦痛はさほど大きくないんです。人の中にいて、交われない苦悩、この大きな、はかりしれない程大きいですと勝山さんがいいました。だから人の中にいることがひどく苦痛なんです。保健室にいる人です。だから先だって私は横浜で不登校の生徒を応援する人々の集まりに、私的な集まりに出席しておりました。

あるすぐれた精神科の医師がおいでになっておりました。登校していて不登校の問題は、実はより深刻なんですと、こんなことをおっしゃったんです。逆説的にきこえます。登校している不登校の生徒です。簡単に申し上げればこういうことです。誰よりも早く学校にくる生徒がいるんですよと。誰よりも最後まで学校にいようとする生徒がいるんですよ。だけど保健室にしかいられないんですよ。教室には行けないんですよと。こういう生徒のことです。単純に申し上げるともうおわかりでしょうが、自宅にいる時間を最小限度にしようとしている生徒です。自宅にいる時間を最も短くしようとしているわけです。家庭の中でのコミュニケーションがないとこういうことでしょうか。むしろ家庭の中の人間関係に殺伐としたものを感じているか苦悩を感じているか、ということですね。誰よりも早く保健室にやってくるんです。誰よりも最後まで学校にいようとするんです。教室には行けないんです。こういうことであります。今年の初めに公立  教育研究所の研究所の方達がある調査をされた学校が崩壊などに関する首都圏の小学生を対象とした行動状態ですが、担任と1対1の関係を求めて苦悩する小学生が段々多い、増えてきたということをおっしゃっている。劇的に増えたという数字を示してらっしゃるようであります。担任の先生と1対1の関係を求めるわけです。先生という実感がないわけです。それ以上に保護者の代わりをして欲しいという感情です。一言でいえば保健室の先生までだったんです。そういう感情を生徒が抱くのは、つい先だってまでいつの間にか担任の先生までそうなった。保健室の先生だけでは足りないんであります。1対1の感情、1対1の関係を求める。こういう子どもならもう山のようにいると保育所の方は思っていらっしゃるでしょう。そうです、保育園の保育者を独り占めしようとすると関心を僕一人の私一人の先生になって欲しいと、こういうことをやって、色んなことをやって、担任の関心を自分の方だけにひきつけておこうとすると、こういう子ども達がどれだけ保育園で増えているか、保育園の大変さはこれでありましょう。こういう子ども達の対応に保育者が苦労してらっしゃるんでしょう。率直に申し上げますよ。皆さんに申し上げられないからそういう子ども達の保育を皆さんなさっていて、もっと大変なのはその親と対応することだと保育者は思ってらっしゃるでしょう、周知してるんです。私は保育者との勉強会が多いですから子どもよりははるかに親との対応苦労、考慮するんですと、どこの保育園に行っても、どこの市町村に行っても今日そうなりました。その子ども達は保育者を自分が独り占めしようとする本当の保護者をもたないんです。学校に行ってついに子ども達は担任にまでそういう事を求めようとするようになった。つい先だってです。岡山県の中学の校長会に出席しておりました。校長先生の部屋がそうなったといってます。校長先生の部屋に入り浸る生徒が徐々に増えてきたんです。暇そうにしていたらすぐにやってくる。中学生ですよ、皆さん。校長先生を保護者のように。やさしい先生だったらすぐつかまってしまう。子ども達は保護者を失ってしまったんです。みんなで育児をしなければならないということの意味あいには多様な意味あいがありますよ皆さん。親の愛情は子どもの将来を幸福にしようとする。だけど子どもの将来を思うあまり今の幸福を犠牲にしてしまったら、子どもは小学校の高学年になるまでにすでに将来の夢や希望を失ってしまうんであります。一度失ったものを取り戻すのは非常に大変です。岩槻先生の思い残し症候群のセラピーが 本当の意味で完全に取り戻せるかどうか、むずかしいことがないわけではありません。そういう試みは重要な試みでありましょう。幼い時程、今幸福に日々生きなければいけないんです。今を幸福に生きなければいけないんです。そうでなければ大きくなった時に夢や希望を持てないんです。将来に夢や希望をもてない人であります。祖父母は親よりははるかに今現在を幸福にする力を持っています。けれどもですね、それは親と仲が良い時の話しであります。親と仲が悪い祖父母じゃ意味は失いますよ。もっと申します。子育て支援 様々なやり方があります。保育園で子どもを育てると子育て支援センターで様々応援すると様々な事をなさる。その時に子どもっていうのは色んな人の手の中で育てられたがっています。けれども単純に色んな人をたらいまわしにされればいいんじゃないんです。最も重要なことは自分の両親が信頼を寄せているということです。自分の両親が人から心を寄せている信頼を寄せている他者に育てられる。このことに価値が大きいのです。このことは決定的であります。ですから保育所の皆さんとの勉強会でもこんな事を必ず私は忘れずに申し上げます。朝晩子どもを受け渡しをする時に必ず子ども達の見ている前で、僕のお父さん、僕のお母さんは園の先生と仲良しだという風なことが実感として伝わるような受け渡しをしてくださいと。これがどれだけ大きな意味をもつかということです。自分の両親が、自分の親が信頼を寄せている、仲良くしている人の手の中で育てられる時に子どもは生き生きとするのであります。色んな人の手の中をぐるぐるたらいまわしするということは基本的には良くないです。単純にそれだけだったら施設に預けられている子どもとさしてかわりありません。今月はあちらの施設、今日はこちらの施設といっているだけであります。そんなものじゃないんです。そこで手をかしてくれている人とですよ自分の親がどれ位信頼を寄せ合っているかということであります。ですから祖父母と親が子どもの目からみて仲が良くみえれば、その祖父母の価値は非常に大きいです。そして、親の育児の不安分を補ってくれます。不足って言うのは親がいたらないという事ではないんです。親の愛情ではもともと欠けているのであります。蛋白質にはない物を、炭水化物や脂肪ビタミンが補ってくれるこういうことであります。この事をなくしたらだめなんであります。ですから一言で言いますと、人々は生き生きと交わりながら相互にコミュニケーションしあいながら育児をするというこういうことで有りますよね、その姿が子供に生き生きと伝えられなければいけないわけであります。人々と生き生きコミュニケーションできるという事をいろんな程度にいろんな場面で子供たちに充実させる事であります。性体験でなくて、人に激しい危害を加える事でなくて、仲間と暴走する事でなくて人と本当の一体感を感じる事ができるような生き方を皆が目指すべきではないかと、そういうことをどのようにしていこうかという事の、今日はパネルディスカッションではないかと思って伺いました。与えられた時間が丁度終わったようであります。ありがとうございました。