その10

大阪の雪

こどもにとって、雪はともだちのようなもの。うれしくって冷たさも忘れて遊ぶことでしょう。
でも、この歳になるとあまり歓迎する気になりません。
通勤のとき、滑って転ばないように慎重に歩きました。以前二度ばかり転んだ経験があるので、
一足ひとあしゆっくり歩きました。前傾姿勢で早足なんてとんでもないことです。雪道を歩くと、きしむような音がするものですが、今回の雪は、歩くと「がしゃ、がしゃ」とカキ氷の上を歩いているようでした。たぶん凍っていたのでしょう。
 車で通勤している人は大変でした。11時ごろ会社に着いた人もいました。勇一君は大丈夫だったのかな?。大阪はほんの少し降っただけ「さあ、大変」という感じです。

     大阪の雪  このテーマあしたにつづく     2月11日
大阪の雪

めったに降らない雪だけに雪道を歩いたときの経験は、その時の出来事と共に記憶に残っているものです。その内のひとつをご紹介いたします。

 昭和20年のはじめ、小学二年生の時でした。ある日の夜中、母親に「やまちゃん起きなさい」と揺り起こされました.声を潜めて、しかし、強い調子で「早く着替えなさい空襲警報や!」。だんだん目覚めてきて気が付くと、不気味な断続的なサイレンの音が聞こえていました。
 
 この頃は、戦況も悪化していたので、空襲に備えて、寝る前には自分の着るものを、探さないで直ぐに着ることができるように、枕もとへきちんと着易いように、しかも、着る間もなければそのまま持つて逃げれるように、下着類を上着で包み込んでいました。備えは親に言われるままにできていたのです。
   
  心備えはできていても、実際に真夜中揺り起こされて見ると「早く着替えなさい」といわれても、寝ぼけ眼ではなかなか早く着替えることができませんでした。結局母親に手伝ってもらいようやく着替えをすませました。防空頭巾をかぶり、母親に手を引かれて防空壕まで逃げて行きました。外は雪が積もっていました。灯火管制の厳しい頃のこと、街灯も、各家から漏れる光もありません。時は夜中です、
でも道は明るかったように記憶しています。我が家から200メートルほど離れた所に防空壕がありました。雪道は早く歩けませんでした。ひと足ごとにきしむような音がしていました。

 平和なときで、そして昼間であったら、この積もる雪は楽しいものであつたでしょうに。

 防空壕の中で皆と一緒に身を潜めていました。爆音も聞こえはじめました。間もなくして「ドカン!」という大きな音といっしょに地響きがしました。どこかに爆弾が落ちたのだと思い、震えていました。
その時、男の人が「心配せんでもええ、あれは爆弾と違う味方の高射砲の音や」と言って安心させてくれました。何度か高射砲の音がしていました。壕の隙間から様子を見たとき、何本も照らしているサーチライトの斜めに突き刺すような光がきれいでした。

 B29爆撃機が私たちの所から遠のいたのでしょう。空襲警報は解除されていなかったのですが、大人たちと一緒に壕から出て、空の様子を見ました。遠く東の方角に爆撃機の編隊が見えました。
飛行機から斜めに落ちていく焼夷弾がはっきりと見えていました。父の声だつたように思う「気の毒に、あれは堺方面やろ」といっていました。この時にはもう怖さはなく、落ちていく焼夷弾を見ていました。
    ではまた                    2月15日

大阪の雪(編集版)
やまちゃんおじいちゃんのおへやへ戻る

トップページホームへ戻る
はるきくんのお部屋へようこそ



おじいちゃんへのメールやまちゃんへのメール
 おじいちゃんへのご意見、ご感想など暖かいメッセージを
お待ちしています。