その15
えんそくではないのだ
昭和20年の春、いよいよ集団疎開に行くことになりました。東海道線「塚本」駅から先生の引率で、皆と一緒に行きました。途中電車の中では親しい子と、ペチャペチャとわいわいしゃべっていました。座席に座らず、立ったまま窓から見慣れない景色を眺めて、あれこれさわいでいました。通過する駅の名前を声に出して読んでいたところ、「とんだ」という駅がありました。「うわぁ〜、とんだやて、変な名前!」とはしゃいでいました。まるで遠足の風景です。
やがて目的地「かんまき」の駅に着きました。しばらく田舎道を歩いて着いた所は、山のふもとにある「一じょう寺」というお寺でした。門をくぐり、入ったところは広い庭でした。正面の本堂の前に整列して「号令!番号!」「1,2,3,4、」と元気よく答えました。
先生は何やらお話していましたが、内容はよくわかりません。ただ、最後に「このまましばらく待つように、今、お寺の人と相談に行っている」ということでした。私たちは「やすめ」の姿勢で待っていました。しばらくして「話は決まった、少し早いが弁当にする。めいめい好きな所で食べてよろしい」と言われました。みんな思いおもいのところで弁当を広げました。私は本堂の右端の縁側に上がりこんで食べました。ここは本堂と別館をつなぐ小さな太鼓橋の前で気に入ったのです。この日の弁当は母親が作ってくれたお寿司でした。これもまた遠足の風景のようです。でも、ちょっと違うのです。母親の味はこれでしばらくおあずけになるのでした。
昼食のあと、かなり長い休憩がありました。ようやく先生の指示があり「みんなの荷物が着いたので、自分でほどくように」と言われました。
私は自分の荷物をほどこうとしたのですが、結んである紐がかたくて自由になりません。取り残されそうで、泣きペソ気味に先生に訴えました。先生は「誰か六年生の子、手伝ってやれ!」と声をかました。大きな子がきてほどこうとしましたが、その子にもできませんでした。結局先生が来てくれましたが、先生もだいぶ難儀していました。
荷造りをした父の締め方がしっかりしすぎていたのでしょう。父は運送を仕事にしていたのです。プロの荷造りだつたのでした。
夕方、食堂に集まり夕食となりました。食事の前に先生は色々言われましたが、何もわかりません。この日の夕食はけっこうご馳走でした。
疎開生活第一日でした。
次回につづく 3月4日
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