その29
八歳の戦場
集団疎開物語も最終にはいりました。
この最終回の分だけ文章体でかきました。これをこのまま文芸社が「忘れないあのこと、戦争」というテーマーで戦争体験を募集していますので応募しました。
そのまま紹介します。
父の面会
昭和20年の夏、学童疎開中の私に父が面会に来ていると知らされた。別室に案内されるとそこに父と先生方が居た。父は私の顔を見ると「おまえは今日お父さんと一緒に家にかえるんだよ、先生にありがとうございましたとお礼を言いなさい」と言った。突然のことでよく意味を理解できていなかつたが父に言われたとおりにご挨拶した。父と一緒に寺を後にし、我が家に帰ることになった。
寺を出て、阪急線「かんまき」の駅に向かって父の後にくっついて歩いていった。
現在はほとんど舗装された道路で,20分余りの距離であるが、当時は道路というより畑や田んぼを突き抜けてゆくあぜ道であった。歩きながら色々考えていた。「ほんまに帰れるのやろか、やっぱり寺に戻されるのとちがうやろか」不安な気持ちでいっぱいだった。
この山寺に疎開してきたのは三年生になった直後で、水もまだ冷たい春先であつた。
仲間と共に過ごす田舎の生活は楽しいはずなのに、あまりのひもじさとホームシックで子どもらしく遊ぶことさえ忘れていた。みんなが苦しかった。配給だけが頼りの食生活は日ごとにやせ衰えていった。
食事は大豆入りのご飯をお子様ランチ風に小さく盛っていた。食事が終わっても空腹だった。ある給食当番の時、台所から食堂に運ぶ間に、親指にご飯粒がくっつき、人に知れないよう素早く口に入れたこともあった。当番になると同じことを期待していた。貴重な一粒であった。
おやつは大豆の炒ったものを班ごとに配られ、班長が一つずつ数えて配る。ほんの一握りの豆だつたが一粒ずつ味わって食べていた。
六年生男子の脱走事件が二度もあった。一回目はその日のうちに連れ戻されている。
父の後から歩いていても、なぜか落ち着かないのであった。
途中小さな橋があった。用水路にかけた木製の粗末な橋である。ここまで来た時、父は立ち止まって「これを食べなさい。元気が出るから」と言ってだんごを一つくれた。常にはらぺこ、ひもじさの毎日だつたので、とても美味しくうれしかった。父は「ひとつだけにしなさい。急にたくさん食べるとおなかを壊すから」と言った。「うん」と答えておねだりはしなかった。この小さな橋を越えた頃から、家に帰れるのが「ほんとうなのだ」と思えてきた。
父の戦い
疎開先から連れて帰るといっても戦時中のこと、簡単には行かなかったらしい。「集団疎開は学校の都合でしているのではなく,政府の命によるもの。個人の都合で勝手に帰すわけにはいかない。そのようなことをすればおとがめを受ける」というのが先生方の言い分である。この言い分もつともだと思う。しかし、父としては「ハイそうですか」と引き下がるわけには行かない。面会時に見た様子はかなりひどいものであった。
真夏のこと、子ども達が裸同然の姿で、力なく両腕をだらりと下げて本堂をうろうろ歩いている姿は地獄絵のようにも思えたという。
「あれがお宅の息子さんです」と指さされてもあまりの変わり様に分からなかったという。胸に付けている名札でやっと自分の息子であることが分かったと、父は何度となくその時の模様を話していた。
「ここで死なせるのなら家に連れて帰って死なせる」
「学校側には一切迷惑をかけない。」
「憲兵隊からお叱りがあれば、私が責任をとる。」
父の必死の交渉もなかなかはかどらなかった。やがて、かなりの額のお金を差し出した。「それは受け取れない」という。しかし、父の説得はなおもつづく。
「これは先生方に差し上げると言っているのではありません。ここに居る、ひもじい思いをしている子どもさんたちみんなに、何か食べさせて欲しいのです。」
「そういうことでしたらいただきます」ということで結局受けとってもらえた。そしてこの交渉は成立し、わが子を連れて帰ることに成功したのである。
空襲
阪急線「十三」駅を降りて「花川町」にある我が家まで炎天下を歩いて帰った。距離としては30分足らずのところだが、影のある所で休みやすみの道中であつた。小休止の時、私の姿を見て声を掛けてくれる人が何人かいたそうだ。事情を聞いているうちに、同情のあまり泣かれたという。
「泣かないでくれ、この子はまだ死んではいない。」父は何度かそう答えたと言っていた。
途中空襲になった。逃げ場を捜す間もなく爆音が聞こえ、私たちめがけて艦載機一機が迫ってきた。父は「裸になるんだ!」と言いながら白いシャツを脱ぎ捨て、私の手をとつて草むらに逃げ込んだ。大きな爆音とバリバリという音を残して通り過ぎた。
父は「大丈夫だ、あれはもう引き返してはこない」と私を安心させてくれた。
母と縁側
やつとのことで我が家に着き、父と一緒に奥六畳の間まで上がっていった。開け放たれた障子の向こうの裏庭に母の姿が見えた。
「おーい戻ったぞ」という父の声で母はこちらを向いた。私を見た母は小さい声で何か言いながら、そこに立ったままであった。私も座敷で立ったままであった。縁側を堺に母と子がにらめっこでもしているかのように立ちつくしていた。
母にすれば無理も無い。久しぶりに帰ってきた我が子が、栄養失調児独特のおなかだけ大きくて手も足もがりがりという変わり果てた姿を見て、ショックのあまりどうしていいのかわからなかったのだと思う。このような場面では子どもの私が「おかあちゃん!」となきながらすがりついて普通なのかもしれない。八歳ならそれでいいだろう。
だが、私は子どもらしさも失っていた。泣くことも、すがりつくこともしなかった。
疎開生活中、ひもじさだけではない。朝は本堂の太鼓の音で起こされ庭に整列させられる。一番遅い班は叱られる。万事がそんな調子の過酷な生活環境は、私から子どもらしさを取り上げてしまつていた。
長く感じたが、本当は一瞬だつたのだろう。しばらくして母が何か言いながら座敷に上がってきて私を抱いた。仕切り線の縁側を越えたのは母であった。母のふところに包みこまれて、やっと家に帰ったという気がした。
終戦
両親のもとでの生活が取り戻されたが、戦争はまだ終わってはいなかった。何度か空襲警報に急き立てられて母と一緒に防空壕に逃げた。しかしそれも終わった。
八月十五日、終戦を迎えたのである。それを知った私の感想は「よかった、もうこれで逃げなくてもいい」という思いであった。私にとって戦争とは“逃げる”ことだつたからた゜。住み慣れた家から集団疎開の名のもとで田舎に逃げ、急降下で迫る艦載機から逃げ、サイレンが鳴ればB29の爆撃を避けて逃げる。そのすべてから開放され
た。もう逃げなくてもいい。心の底から「よかった」と思った。
おわり。
やまと
平成13年 8月7日
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