妊娠してからのこと

平成10年9月生理が来ないので産婦人科に行き私のお腹に命が宿った事を知った。
出産予定日は平成11年5月末とのこと、1度流産の経験があった私にとっては
不安80%期待20%の妊娠スタートとなった。
ところが今回も流産の時と同様、妊娠7週で出血し切迫流産で入院することになった。
医者からは出血が多い為に今回もダメかもしれない覚悟しておくようにと言われた。
流産しちゃうのかな?なんで?なんで私ばっかり・・赤ちゃんの心臓はちゃんと動いているのに。
毎日、入院中のお腹の大きい妊婦さん、赤ちゃんの泣き声を聞きながら泣いてばかりいた。
しかし妊娠14週で出血も止まり無事退院出来、お腹の赤ちゃんも元気に育っていった。
この子は助けられたんだ、今度は大丈夫!と確信していた。
その後も自宅安静と言われ実家で寝たきりの生活が続いたのだったが
少しづつ大きくなっていく私のお腹に命の重みをヒシヒシと感じ ながら幸せだった。

「元気に生まれて来るんだよ!」と常に声をかけていた。

 

再び切迫早産で入院     

平成11年2月、妊娠25週(7ヶ月)の頃、自宅で安静にしていたのにもかかわらず
突然のお腹の痛みと、おしるしのような少量の出血。電話をしてから真っ青になってタクシーで病院へ向かった。
その日は丁度主治医の診察日だった、待合室にはたくさんの人がいるのに真っ先に内診してくれた。
先生もそれほどと思っていなかったのか内診してからビックリするほどの大声で叫んだ。
「これは大変だ!ストレッチャ−用意!」その声と同時に何人もの看護婦さんがバタバタと動き出した。
「なに?何があったの?私の赤ちゃんは?」忙しそうに走って行く看護婦さん達をボーっと見ていた。
安静目的の為の入院かと思っていたのにベッドに移され陣痛を押える点滴をされお腹にベルトを巻かれ
赤ちゃんの心臓音を聞きながら震えが止まらなかった。子宮口が開いてると言われた。
主治医の先生の話しによると「子宮頚管無力症」という体質で赤ちゃんや羊水の重みに耐えられず
子宮口が開いてしまったそうだ。このまま最低1ヶ月は持たせましょうとのことだった。
骨盤高位の絶対安静で立ってトイレに行く事すら出来ず、ベッドに横になったまま食事をし、
毎日が不安で不安で泣いてばかりいた。同室の人の話し声も聞こえたが誰とも話しをしなかった。
ただ点滴の落ちて行く雫を見ながら1人静かに涙を流していた。
本当に生きて産まれてくるのか不安で寂しい日々を送った。

 

 

帝王切開で出産


切迫早産で入院後3日目の2月15日のことだった。お腹が痛い、腰が痛い。
時計を見ていると5分間隔で規則的に痛みが起きている。これが陣痛かしら?
と思いながらナースコールをする。「看護婦さんは我慢して!」としか言わない。
何人目かの看護婦さんがようやく先生を呼んできてくれた。
エコーを見ると赤ちゃんの片足が胎胞から出てしまっていて陣痛が起きてしまった様子。
もう来れ以上薬では陣痛を止められないしかも 逆子なので緊急開産と言う事になった。
「ちょっと待ってよー産んじゃうの???」「イヤー出したくない」声にもならなかった。
それをよそに看護婦さん達は手際良く手術の準備を進めていった。
生きて産まれて来てくれる事だけを願っていたのに「産みたくない、産みたくない」
今、赤ちゃんが私のお腹から出てしまったらどうなるのだろうか?
心臓は爆発しそうだった。「私のことはどうでもいいから赤ちゃんを助けてください」と先生に言うと
先生はニッコリと微笑んで「とにかく頑張れ!」と拳を突き出した。
少しだけ落ち着いた。先生に任せておけば大丈夫!不思議と勇気が出てきた。
この時ふと入院中読んだなにかの本に「良い医者を選ぶのではない、医者を名医に変えていくのは
自分自身の気持ちと自分自身の祈りだ」とあったのを思い出した。
しばらくして気付くとあっという間に手術台の上にいた。手術中も涙が止まらなかった。
皆が「頑張れ!」と応援してくれている。ガンバレ私の赤ちゃん!ガンバレ自分!
そう祈っていた。時間にしてどのくらいだったかよく分からない
おそらくほんの10分か15分・・・我が子は私のお腹の中から取り出された。
泣き声が聞こえない。「泣いて、泣いて!生きて!!お願い助けて!」心の中で叫んでいた。
意識がモウロウとする中、しばらくすると声をかけてくる先生がいた。
「お母さん」そう呼ばれても私のこととは思わなかった。
今度はハッキリ聞こえた・・・「お母さん、赤ちゃん小さいけど元気ですよ!」と。
ホッとしてまた、涙があふれた。後の事は、麻酔のせいかほとんど覚えていない。
術後すぐに主人に会えた。「ご苦労様、産んでくれてありがとう」と一言。
その一言が何より嬉しく、私の支えとなった。