被害者パワー
Mar. 08, 2004


アメリカ旅行をするとき、何か問題が起きても絶対に自分から謝ってはいけません。
旅に出る時に、そう言われたことがあるでしょう?
それは万が一問題が法のもとに持ち込まれたとき、「謝る=自分の非を認める=謝ったほうが加害者」という事になってしまうから。
状況から押して100%相手が悪い事でも、無防備に謝ったばかりに自分のほうが不利になってしまうからである。

訴訟立国、というのはアメリカの代名詞になりつつあるというか、とにかく何でもかんでも訴訟を起こすので、ニュースを見ていても「訴訟」という言葉を聞かない日がないぐらいなのだ。どんなにバカバカしい事でも、とりあえず訴えを起こしてみる。最近では「CMを信じて食べ続けていたら肥満してしまった」とファーストフード店を訴えるのが社会現象になった。そんなもの、脂身の多い肉にクリームタイプのソースをどばっとかけ、スカスカのパンで挟んだものと油で揚げたイモ、野菜は申し訳程度にレタスとタマネギのみじん切りのみ、それに1リットルもあるようなカップに入ったソーダ類をガブ飲みしていたら、太らないほうがおかしい。でも「そういう注意を促さない企業側のにダマされた」というのが訴える側の主張なのである。

こういう事例は探せばいくらでも見つかる。有名なところでは、ディズニーランドで楽屋側に回ったらミッキーがかぶり物を脱いでいるところで、一緒にいた子供の夢を壊し深刻なトラウマを与えたと損害賠償を求めたもの、豪華クルーズ船の旅だと期待していたのに、自分が払った料金では窓のある部屋が与えられず、ショックを受けたというもの、ドライブスルーで料金を払うために受け取った熱々のコーヒーを両腿で挟んだら、こぼして大やけどを負ったというものなど、「そんなものちょっと考えれば分かるでしょう」というのがたくさんある。

実はこのクルーズ船の件では、訴えた側のほうが勝ってしまった。ちゃんと本人が納得するように説明しなかったエージェントが悪いというのである。これが前例になって、その後しばらく、行った旅行の期待を裏切られる事態が起こった場合、その後味の悪さに対して賠償金が請求できるという判決が続いた。当時は旅行会社に勤めていた私も「太陽一杯のはずのロス・カボス(メキシコ)に行ったのに滞在中ずっと曇りだった(旅行クーポン:太陽、ってつけなきゃいけなかったかな)」だの、「ホテルの部屋に備え付けのはずの塩が置いてなかった(メイドには一言も言わなかったのかな)」だのと苦情を受けたことがある。そのたびに営業の人達は、示談でカタをつけるために日参していた。一旦訴訟に持ち込まれれば、勝敗に関係なくお金も時間もかかるし企業イメージにも傷がつく。

コーヒーで大やけどしたお婆さんも、勝訴して賠償金をせしめた。それ以来、どこのファーストフードでも熱い飲み物を入れるためのカップには注意書きが印刷されるようになった。その印刷にかかる手間賃が、食べ物にも従業員の給料にも反映されているんだろうなと思う。

この場合、訴える側は口が裂けても「そう思った」「そう言われたような気がする」と言ってはいけない。それはある程度推測できていたことをうっかりやってしまった、という事になるからで、「自分の非を認める」という事につながる。あくまでも無邪気に信じていたら被害を受けてしまった、という態度でいなければならない。

よく日本でもトリビアとして紹介される、商品についてのバカバカしい説明書きは、こういう背景から生まれてくる。スーパーマンのコスチュームさながらのパジャマに「この商品を着用しても飛行することは出来ません」と書いてあるのは有名な話。今度スパイダーマンのパジャマをみつけたら、「着ても壁や天井は歩けません」って書いてあるかチェックしようと思っている。他にも電熱器に「使用中に触ると火傷の危険性があります」だの、睡眠薬に「運転中は服用しないでください」だの、探せばいくらでもある。そういうのを見つけたら、企業側の良心ということではなく、コレは実際にやったヤツがいて騒ぎになったな、と考えた方がいい。とにかくちゃんとした記述がなければ突っ込まれて、莫大な賠償金を請求されるかもしれないのだ。

この「屁理屈がいくらでも通る」というお国柄は、「無理が通れば道理引っ込む、というのはいけないことである」と育てられた私には理解の度合いを超えている。どうひいき目に見ても「アホやなァ」と思われるような事を、髪振り乱し弁護士を雇い、大企業を相手取って大金をせしめるなんて、恥ずかしくて出来ない。100歩ゆずって、この国でも大半の人々は良識的で、こういうのがニュースになるというのは「うっそー、と叫んでひっくり返るような話題」であるからこそ、全国ネットで特集されるのだ、と思ってはいても、それでも「態度のでかいイジ汚い国」に住んでいる気がしてくる。

そんな感じで時にムカムカしながら夕方のニュースを見ていて、ある日ハッと気がついた。
これって「疑わしきは罰せず」の超拡大解釈なんだ。
この「疑わしきは罰せず」の姿勢はなかなかシッカリしているので、状況証拠だけではまず有罪にならない。刑事事件のそれは置いておくとして、民事訴訟でももちろん物的証拠があるほうが絶対有利になる。常識的に見て絶対に考えられない事、正しくない事でも、実物を持っている方が勝つ。正義ではなくてゲームみたいなものだ。

この場合、物的証拠となるのは「注意書きが無い」という事実だ。インフォームド・コンセントが無いんだから、不具合が起こるとは想像していなかった。想像もしてなかった事態に見舞われたアタシは被害者だ。アタシはこんなひどい目に合うような事は何もしていない。こんな不公平な事が起きるのも、相手側が前もって注意してくれなかったのが悪い。この被害をどうしてくれる・・・というわけ。

と、とりあえず自分で納得の出来る理論は導き出しはしたけれど、取れるものはどんな事をしても取る、という国民性にはやっぱり付いて行けないし、そうやって言いつのる人の表情は醜いと思う。人間関係を円滑にするために様々な意味での「すみません」を使う国から来た私は、まず反射的に出てしまう謝罪の言葉を飲み込むストレスを感じ、そして、どう見ても相手が全面的に悪いのに絶対に謝らない態度に接し続けると、面倒くさくなってしまうのだ。

でも、そこで投げたら相手がサッサと被害者になってしまう。
被害者というコトバと不公平というコトバは、自由とチャンスの国アメリカではすごいパワーを持っている。
虐げられた者、持たざる者を受け入れて国を作って来た歴史の弊害なのかもしれない。





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