アメリカに来てInterstate、いわゆる日本でいう高速道路を通った事のない人はまずいないだろう。観光旅行で来たとしても、空港からホテルまでInterstate、そのホテルから「本日の目的地」まで、これまたInterstateといった感じである。かくいう私も、朝に夕に便利に使わせてもらっている。特にI-5はカリフォルニアの州境を越えて一歩オレゴン州に入れば出入り口に通し番号がふられており、横文字に弱くても「何番を出て左へ曲がって......」と道案内が出来るので、これ無しでは夜も日も明けないのではないかと思う。
また全米の地図を見ると、多少のカーブは否めないもののInterstateというものは実にお行儀良く整備されている。この行儀の良さは京都や札幌にも匹敵するのではないだろうか。偶数番が東西、奇数番は南北に伸びる、というのは周知の事実だが、シアトルからI-90で出発すればマサチューセッツ州のボストンへ、またロサンゼルスからI-10を東へ行けばフロリダ州のジャクソンビルまでたどり着ける、というのは感激モノである。
ところで、このInterstateの歴史というのはそれほど古くない。たかだか第二次大戦以降の事である。
アメリカの各州というのは日本の都道府県より遥かに強い自治権を持っており、50州で一国を為すというよりは50小国で一国という感じなので、それまでは各州政府が各々自分の州内で便利なように都市計画および道路交通網整備を進めて来たのだそうである。もっとも昔は海岸沿いは貨物船、内陸部は大陸横断鉄道貨物が輸送の主流だったから、主要中継地点さえ抑えておけば、あとは小さな輸送手段で事足りたのだろう。その前は、いわゆる駅馬車だった。大銀行のWells Fargoはこの馬車による貨物輸送からビジネスを起こしたので、それで今も看板等にステージコーチの絵が描かれている。このWells Fargoの駅馬車がいつもどんなに人々に待ち望まれていたかはブロードウェイ・ミュージカルの「ミュージック・マン」でかいま見る事が出来る。遠くに見え来る駅馬車を待って、町中の人が歌うコーラスがあるのだ。ニューヨークやボストンなど、東海岸の大都市を離れて西部開拓に旅立ち、無人地帯に住み着いて町を起こした人々にとって、手紙や荷物、食料なども運んでくる駅馬車は、まさに今でいうマルチメディアの担い手だったのである。
そういう歴史背景から各州ちんまりと固まっていた交通網に英断のメスを下したのが、戦後1953年から1961年までの2期、34代目の大統領を務めたドワイト・アイゼンハワーである。
第二次大戦で、当時のルーズベルト大統領の信任を受けてヨーロッパにおける連合軍の最高責任者であり、アイク・ジャケットにその名を残したアイゼンハワーは、それ以前は太平洋戦の総司令官であったダグラス・マッカーサーのトップ・アシスタントを10年も勤めていた。第一秘書のような仕事である。マッカーサー自身は、歴史書が語る通り歴戦の勇士であり古いタイプの軍人で、武骨そのものであった事は想像に難くない。そういう男の下につくと、上司の一挙一動に目を光らせ、微に入り細にわたり気を配らなければならない。何せオヤジは武骨者だ。戦場に置いておけば天才かも知れないが、その社交術には甚だ疑問が残り、パーティの席でどんなマズイ事を言い出すか分からない。また、そういった男でなければ最前線はつとまらないのだ。
これは推測の域を出ないのだが、アイゼンハワー自身にもその素質があったことは否めないものの、10年も勤めているうちには気配りの点ではかなり切磋琢磨されたに違いない。おそらくはそれが出来る男として、伝説の大統領であるルーズベルトの信任を得たのではないだろうか。果たして彼は、俗に「D-Day」と呼ばれるノルマンディ攻略作戦を見事成功させた。この攻防については、古くは1962年制作のハリウッド映画「史上最大の作戦 The Longest Day」で、また新しくは1998年制作の「プライベート・ライアン Saving Private Ryan」で見る事が出来る。
そして、アイゼンハワーとマッカーサーの力関係の変遷を語る史実もある。マッカーサーは、あまりにも個人の栄誉を求めすぎてトルーマン大統領からクビになった男である。この時、相手の名前が強大であったがために、クビにしたトルーマンのほうが「どうかしているのではないか」と思われたそうだが、とにかくトップとしての責任を取らずに名誉欲に走った男を切ったのは勇気ある行動である。しかしマッカーサーとしては面白くない。そこで、あまり知られていない事だそうだが、アイゼンハワーの対抗馬として大統領選に打って出たのだそうだ。マッカーサーとしては、長年自分の部下であった男に対し二重に遺恨を晴らす所存であったに違いない。しかしながら、大統領候補として彼が得た支持率は、全くお話にならないものだったそうである。まさしく「老兵は消え行くのみ」であったらしい。
さて、そのアイゼンハワーであるが、ヨーロッパ戦線での物資輸送の難しさで煮え湯を飲まされていた経験から、経済の発展は輸送力にあると考えた。もちろん、ずっと軍隊で番を張っていた彼のこと、冷戦時代の幕開けと共に予想されるソ連の脅威に対抗すべく、輸送力イコール軍事力とも考えていた。いざ出陣となった時の為に、どこへでも速やかに軍備を送ることが出来る手だてを整える事が必至であった。
そこで彼はトップレベルの技術者達を徴収した。個々の州境を越えて走る道路を建設しなければならない。道路網建設には莫大な費用と時間、人手がかかる。自然や地形を考慮し、どこをどう通すか決めなければならない。名前は州(state)間(inter)を走る道だから、Interstateとしよう。
この計画の一番の成功の鍵は、当時の時勢である。1950年に第二次大戦が終って数年、いまだ勝利の酔い覚めやらず強力な愛国心に燃えていたアメリカ国民たちは、お国の為とあればどんな事でも受け入れたのである。例えば今現在、「お前さんの農場のど真ん中から家を突っ切って片道2車線の道路を通すから、もっとうんと東に寄りなさい」と言われ、なにがしかの金額と共に荒れ果てた開墾したこともない土地を代替として与えられたら、自分が訴え出なくてもTVでCMを流しているような民事弁護士が飛びつき、たちまち憶という金のからむ裁判になるだろう。控訴に控訴を重ね、判決が下るまでに10年も20年もかかるかもしれない。しかし、当時のアメリカ国民は「オレがどかねば誰がどく」と政府の申し出に応じた。古き良き時代だったと言っていいかもしれない。もちろん、人を退かせばそれだけ予算が余分にかかるわけだから、線引き屋さん達も細心の注意を重ね、最小限に抑えたとは思うが、それでも地形の激しいところを通す場合、止むを得ずそうした事も多々あったことだろう。いずれにせよ、頭の下がる事である。
とにもかくにも、現在こうして郵便が届き宅配便が届き、こんなに北にあるシアトルがコーヒーのメッカになったのも、一重にこのアイゼンハワーが夢見た輸送力のおかげである。Interstateが現在の形になったのは1970年代も半ばなのだそうだ。1969年に亡くなったアイゼンハワー自身はその完成を見る事はなかったが、輸送の主力が大型トラックに移り、貨物列車が衰退していくのは目のあたりにしていただろう。戦場で列車もフルに活用していたであろう彼自身の思いはどんなものだっただろうか。そして、私達は毎日のように便利に使わせてもらいながら、時々ふと毒づくのだ。
「あ〜あ、日本だったら通勤電車もあるし、毎日渋滞でヒヤヒヤしなくてもいいのになァ〜」