カネコ先生
Oct. 1, 2001


BRUCE LEE cha-cha-cha/BRUCE LEE SI-FU/CHA CHA cha-cha-cha
KUNG FU Dancing Master/PUNCH to the Stomach/BACK FIST to the temple
SIDEKICK--TO THE GREEEEEEN HORNET?


私が行っている大学の授業は基本的には1クラス50分制なので、毎時間50分過ぎになれば、通路は教室を渡り歩く学生たちでごった返す。一番多いのは高校を卒業してから21〜22歳ぐらいまでの若者達だが、コミュニティ・カレッジという性格上、様々な年齢層の学生が見られ、一率同世代の学生ばかりの日本の大学とは歴然の差がある。

コミュニティ・カレッジというのは地域に根差した教育機関で、日本でいうところの短大・専門学校・職業訓練校・カルチャーセンター等、およそ「○○教室」と名がつくものは全てここにあると言っていいと思う。学生達の目的も様々で、2年制終了の資格を得て四年制へ編入する者、高校を中退してしまったものの、気を取り直して再度高校卒業資格取得にチャレンジする者、手っ取り早く手に職を付ける者、移民向け地域サービスの無料英語クラスを受けに来る者、定年退職後に好きな事を始める者、また、職場から特定のクラスを取るように命じられて来る者もいる。だから童謡の「めだかの学校」ではないが、誰が生徒か先生か、ひと目見ただけではまったく分からない。若いインストラクターなど、たとえ博士号を持っていても、高卒資格しかないが人生経験豊富な中高年学生に質問攻めにあい、窮地に立たされる事もある。教師という職業そのものが、キャリアが長くても大した収入アップは期待できない、本当に好きでなければ出来ない仕事だと思う。

この、毎時間の「めだかの学校」状態の10分間に、時々小柄な100%アジア系の初老の男性とすれ違う事がある。日系三世で英語のライティングを教えているカネコ先生だ。夏場は知らないが、寒くなってくるといつも少し大きめのセーターを着て、それも生なりのフィッシャーマン・セーターがお気に入りのようで、時々その上にレザージャケットを羽織っている。半白の髪をうしろになでつけ、眼鏡をかけて口髭をたくわえ、アメリカの体格ばかり良い若者達に揉まれて歩いているから貧相に見えはするけれど、もし日本で同年代の中に置けば「ちょっとダンディで小粋なオジサン」という事になるだろう。実生活もダンディというか、カネコ先生は大学で教えてはいるが、本当は詩人で脚本家なのである。シアトルの小劇場でいくつか上演されたものもあるのだそうだ。シアトル・レパートリー・シアターと言えば少々凝ったものを上演する劇場だから、その内容たるや押して知るべしというところである。

実はこのカネコ先生のことを、私はずっと女性だと思っていた(ひゃー!)。
英語学の教授陣は女性が多いのだけれど、学期ごとのカタログでフルネームをLonny Kanekoと見てそう思いこんでしまったのだ。何年も前に映画俳優のバート・レイノルズが長年連れ添って苦労を共にしてきた奥さんと離婚したが、その奥さんの名前が「Loni」で、よくよく聞けば「ロニ」なのだろうけれど、私の日本語耳には違いがわからなくて「ロニー」と聞こえるため、「ロニー=女性名」という公式ができ上がってしまった。それで、敬愛する人類学の教授の口からその名前を聞いた時、「私、彼女には会った事がないの」と言ってしまい、「SHEじゃないのよ、HEなのよ」とたしなめられ、「ひー!」と顔から火が出るような思いをした。まあでも、アメリカ人には私の名前が男性か女性か分からず、時々「ミスター」でダイレクトメールが入る事があるからお互い様、とすぐに立ち直ったけど。

そのカネコ先生の授業は取った事がないのだが、1度だけ彼が授業中に来て詩の朗読をしてくれたことがある。移民がテーマで、3クラスで1コースというハードなカリキュラムだったけれど、3人いる先生達はみな「移民」とは言えない立場だったためか、カネコ先生に白羽の矢が立ったのだ。先生達のうちの1人は、全クラスの前で彼に「それであなたはいつ移民して来たの」と聞いてしまい、そこで初めて彼がアメリカで生まれ育った三世であることを知らされて、これも顔から火を吹いていた。よくよく人の期待を裏切る人ではある。「まあボクの英語には日本語アクセントがあるけれども」とニヤニヤするのだから、人も悪い。(でも日本語はほとんど喋れないそうです)

ところでこのカネコ先生、まだまだ人を驚かせる一面があった。「この詩を朗読する前に一つ前置きをしたいのですが」と教壇に立って学生達の方を向き、
「これは私の大学時代からの友達だったブルース・リーのことを詩ったものです」
3つ合同の特別クラス、毎日の昼食時に2時間10分というハードな授業に嫌気が差し、かなりグタグタになっていたクラスメート達が、急にシャンとなった。


BRUCE LEE cha-cha-cha/BRUCE LEE SI-FU/CHA CHA cha-cha-cha
KUNG FU Dancing Master/PUNCH to the Stomach/BACK FIST to the temple
SIDEKICK--TO THE GREEEEEEN HORNET?


1940年、粤劇俳優である父親の巡業先のサンフランシスコで生を受けたブルース・リー(李小龍)は1歳で香港へ帰国するが、19歳の時、父親の知り合いを頼って単身で渡米、シアトルで働きながら高校卒業資格取得後、1962年にワシントン大学哲学科に入学する。カネコ先生とはそこでの寮仲間だった。当時アジア系はやはり少なく、同胞として仲良くなり、ブルースの当時の恋人と3人でチャイナタウン、今のインターナショナル地区をのして歩いたのだそうだ。そのころは既に人にカンフーを教えていた。カネコ先生も寮のトイレで面白半分に技をかけられ、向こう側の壁まで何メートルか、ぶっ飛んだ事があるそうである。


BUZZZzzzzing across Seattle, 1962.
You carry your girl with a nail in her foot
from the garbage dump 347 steps
like she was a sack of Long Grain Precious Pearl Rice
(loving her in and out of her sack...CHA CHA.)


また、そのころはまだジャップタウンと呼ばれる地区もあって、パイオニア・スクエア近くのオキシデンタル・パークのあたりだったと聞いた事がある。シアトルおよびその近郊一帯の日系アメリカ人達は第二次大戦勃発後、大挙して、現在は春と秋にステートフェアが開催されるピュアラップ・フェアグラウンドに集められ、そこからあちこちの収容所に護送された。戦争が終って戻って来ても、全てを失った人々は容易にもとの生活に戻る事が出来ず、今も残る仏教会、シアトル別院を中心として固まって住まざるを得ない状況が長く続いた。シアトル別院は、戦前・戦中・戦後を通して文字通り駆けこみ寺だったのだそうである。そんな部分からも、やはり自分も異邦人であったブルースの共感を得るところがあったのだろう。


Little boys and old men today say
"Next to Lee Siu Long, Ali may be the greatest."
But in my head you are who you have always been--


翌63年、ブルースは香港へ一時帰郷。数ヵ月後戻っては来たものの、恋人はそんなに遠く東へ旅立つ彼を待てなかったのだ。彼自身は帰って来る直前にカネコ先生に連絡を取り、連絡の取れない彼女の消息を聞いたそうだが、先生はその時は本当の事を告げる事は出来なかった。戻って来て初めてその事を話した。ブルースが生涯の伴侶とするリンダ・エメリーと出会うのは、その後の事である。だが、今はシアトルはキャピタル・ヒルのレイク・ビュー墓地で、息子のブランドン・リーと共に眠る彼の一生を書いたものは星の数ほど出ているので、ここでは再度書くまでもないと思う。


BRUCE LEE cha-cha-cha/BRUCE LEE SI-FU/CHA CHA cha-cha-cha
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SIDEKICK--TO THE GREEEEEEN HORNET?


先生は、チャ・チャのリズムにのせて軽快に詩を朗読する。普通の時ならばクラスの誰かに朗読させるものを、誰もそんな風には出来ないからと、実は無理を言ってご本人に来てもらったのだそうだ。この学期中は先生は夕方から夜にかけてのクラスを教えていたので、昼間は大学に来ていなかったのである。もっとも詩人は自分の詩を朗読する場があれば喜んで行く生き物なのだそうだから、きっと二つ返事で承諾したのだろう。

周知の事実なのかどうかは知らないが、ブルース・リーはチャ・チャの名手だったそうである。


(英詩部分はLonny Kaneko「LEE SIU LONG: LITTLE DRAGON LEE」より抜粋)



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