これは以前、米陸軍の座間キャンプにいたことがある知り合いがしてくれた話である。
座間、と言われても何処の事だか分からない人のほうが多いだろう。私自身、初めてその名前を聞いた時、慶良間とか波照間、座間味なんかとゴッチャにして、「え、なに?どこそれ?沖縄?」と思ったぐらいだ。
座間市というのは神奈川県にある。国道16号線を南から行くと横須賀基地、厚木基地、横田基地とたどっていけるのだが、座間キャンプは厚木と横田の間にある。電車で言えば、東京の新宿駅から箱根や江の島を結ぶ小田急線という私鉄が出ているが、それをかなり向こうまで乗っていく。昔はひなびたたたずまいの町だったが、このごろは東京のベッドタウンとして、結構な高級住宅地であったりする。
そんなところに忽然といかめしいゲートが立ちはだかり、ゲートガードと呼ばれる制服を着た日本人のおじさんと、あの迷彩服を着たでっかい米軍兵がそこを守っていて、一歩入ればそこは既に日本ではない。だがしかし、陸軍駐屯地というのは大きな空母が発着するわけでもなく、戦闘機が離着陸するわけでもなく、強いて言えばご近所の方々の迷惑にならないような真夜中に、修理に出してあった戦車がガタガタ戻ってくるぐらいのもので、案外ひっそりとしているのである。だから自分の住んでいる市内に米軍基地があるなんて全然知らないなんて人がいたりする。また、駅に一番近いゲートのすぐ内側にゴルフ場がしつらえられてあるため、近隣のゴルフ狂はツテを求め、ゲートを守っている若いお兄ちゃんの兵隊さんと友達になったりして、「誰かさんのゲスト」扱いとして堂々と入り、安くゴルフを楽しんでいたりするので、あまりうるさい事も言えないのかもしれない。ゴルフ場の駐車場を見ると、軍関係者の車に付けられる「Yナンバー」の車は殆どなく、みんな「よ」だったり「た」だったりするのだから、押して知るべしである。
ところでその若い兵隊さん達だが、この人達は「バラックス」と呼ばれる独り者ばかりの官舎に住んでいる。つまり、独身寮である。家族を連れて来ていればハウジングエリアに家を請求するのだろうが、独身者、もしくは様々な事情から家族を本国に置いて一人ぼっちで赴任してきた人などは、そこで暮らす事になる。ワンルーム形式の部屋に二人一組で入り、キッチンは共有。まあ、独り者の男ばかりでは料理なんかしないだろうから、文句も出ないのだろう。支給される家具はベッド、机、椅子、ロッカーのみ。制服は常に折り目正しく、真鍮のベルトのバックルも革靴も軍靴も、みんなピカピカに磨いておかなければならない。部屋も定期的に上司の厳しいチェックがある。
この「なにもかも全てキチンと」が若者にとってどんなに大変な事か、誰しも身に覚えがあることだと思う。それでも腕立て伏せ余分に100回、ジョギング余分に10マイルよりは「キチンと」の方がはるかに楽なので、みんな文字どおり命がけで頑張る。軍隊に2〜3年いくと、だらしない我が子が厳しく仕込まれて戻ってくるから、なんて妙な期待をする母親もいるぐらいだ。だが、彼等が逆立ちしてもどうしても出来ない事がある。それは、制服の補正・修繕である。
よく育って体ばかりはでかくなり、凄味がきいていても、年を聞いてみると19やハタチぐらいのお兄ちゃんだったりするのだから、ボタンが取れたぐらいの事でも自分でつけられずに途方に暮れてしまう。また新しく制服を買えば、自分の名前を刺繍したリボンやこれまでの業績を示す縫い取りを所定の場所に縫い付けなければならない。加えて業務上、乱暴に扱わざるをえないから、かぎ裂きが出来た、ポケットが取れたなんて事はしょっちゅうである。
ありがたいことに、それを見越して「バラックス付きのリフォーム屋」なるものがちゃんといるのだそうである。もちろんPXなんかにはバリッとした仕事をする専門家もいるのだろうが、普段の事なら気の置けない人に頼んだほうが楽で、それに安い。座間キャンプの人は、もう何十年もその仕事をしているベテランのお爺さんで、みんなに「パパさん」と呼ばれ慕われていた。もっとも、パパさんは英語がほとんど出来なかったらしいから、慕われていたのを知っていたかどうかは分からない。
さて、このパパさん、寄る年波にはさすがに勝てず、知り合いが赴任した1980年代の初めごろには随分と仕事が不確かになってきていたのだそうだ。ほつれ糸が始末してなかったり、名前にシワが寄っていたりという事が度重なってきた。みんながお世話になってきたパパさんだから、少々の事は目をつぶりたいのが人情だ。だが、写真を撮るのに制服の微妙な影が写ったからといって撮り直しをするぐらいの神経質さを持つ陸軍である。ついに「目に余る」と判断した上役が、パパさんに「肩たたき」をするべく、仕事場へ部下をむかわせる日が来てしまったのである。が、しばらくしてこの部下がどことなく青ざめて戻ってきた。上役がいぶかしく思い問いただすと、彼は一言、
「自分にはパパさんを解雇する事は出来ないであります、サー」
更なる報告を促すと、部下はこんな話を始めた。自分は確かにパパさんに上役の意向を伝えた。するとパパさんは長い時間考えたあと、「チョットマッテ」を連発しながら(これはアメリカから来たばかりの人が最初に覚える日本語の一つである)奥の仕事場へ入った。しばらくゴソゴソと何か探している様子であったが、そのうちに古びた紙きれを持って現われ、自分に見せながら「ノー、ノー」と繰り返した。その紙きれは、今ここに借りて来て持っている。と、部下はそれを上役に差し出した。
その紙きれを受け取って一読した上役の顔は、目に見えてひきつっていたのではないだろうか。何の変哲もない黄ばんだ古いメモ。だが、そのメモには「パパさんは素晴しい腕を持つ仕立て屋なので、本人が望む限り、座間キャンプで働く事を許可する」というような事が書いてある。そして、そのメモ書きの下には「ダグラス・マッカーサー」の力強い署名。
恐らくパパさんは、戦後すぐの頃、GHQ付きの仕立て屋をしていたのだろう。そしてマッカーサーの服も多数手がけたに違いない。そしてある時、興に乗って書いてもらったメモ、それをパパさんは戦後の混乱の中での生活の糧を得るお墨付として、大切に保管していたのに違いない。もう戦争が終って何年になるだろう。でも米軍の中で働いてきたパパさんには、戦後はずっと続いていたのかもしれない。それにしても、そんな冗談みたいなメモをよく今ごろ出して来たものだ。これを出されちゃ手も足も出ないじゃないか。何せ、相手は当時の総司令官だ・・・。
天下ご免、水戸黄門の印籠、金さんの桜吹雪のようなメモのおかげで、パパさんの首はつながった。第二次大戦の亡霊に取り憑かれた座間キャンプ駐在米国陸軍の上役達は、それからというもの、陰でコソコソとマッカーサーを呪いながら、部下のひしゃげた名札を我慢しなければならなくなった。誰のせいでもない、総司令官が悪いのだ。ほとんどヤケクソな心境だったのではないだろうか。
知り合いは、それからほどなく座間を離れてしまったので、その後どうなったのかは知らないそうだ。ただパパさん自身がまだ生きて元気でいれば、多分90歳ぐらいで現役で、老いて震えなんかが来た指で虫メガネを使いながら、今だにひしゃげたポケットを縫い付けているのではないか、と笑って話してくれたものである。