E−VOL5


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160.押野嘉雄 2000/10/13 19:18

皆様に緊急連絡です。
栗原道平君の奥さん、かおりさん(漢字忘れました)(旧姓月舘さん、
藤女子短期大洋弓部OB入部は79年)が本日、お亡くなりになりました。
原因は、膠原病だそうで、先月から入院して具合が悪かったそうです。

葬儀の予定

お通夜 10月15日(日) 19:00から 新潟市 セレモニーホール青山
告別式 10月16日(月) 12:00から 同上

場所  セレモニーホール青山会堂

住所  950-2002 新潟市青山8-4-15 025-265-7667

161.久保田真人 2000/10/13 22:50

先ほど(13日午後10時過ぎ)栗原君から連絡があり、
奥様(旧姓月館さん)が、お亡くなりになったとの事です。
詳しい病状はわかりませんが、膠原病の一種だったようで8年間の闘病の末だったとの事です。
お通夜:15日19時より。
告別式:16日12時より
新潟市青山8-4-15セレモニーホール青山会堂
電話:025-265-7667

東京在住者に連絡しようと思いましたが、ごく一部を除いて連絡が取れません。取り急ぎメールでお知らせします。
当方で連絡がついたのは、
吉田隆君のみ。同期に連絡してもらうように頼みました。
中村君は現在海外出張中で明日帰国、奥さんに言付けしました。
誰か三上君の電話番号知りませんか?
一応受信したら、受信確認の返信を下さい。

162.木田 潔 2000/10/13 23:22

栗原君の奥様(月館さん)が逝去されましたので
ここに謹んでご連絡いたします。

通 夜:10月15日(日) 19:00
告別式:10月16日(月) 12:00
葬儀場:新潟市青山8丁目4−15
    セレモニーホール青山会堂
    TEL 025-265-7667

163.萩 恒紀 2000/10/14 6:20

出先で木田君からのeメール(iモードへ)で知ったのと、家でeーvolのメールでも確認しました。
あまりに突然で、言葉を失ってしまいました。多分、私より3つ下だと思いますので43,4でしょうか
近い世代の訃報は佐藤 英一郎以来でなんともやり切れませんね。ご本人もまだまだやり残した事がたく
さんあったでしょうし、残されたご家族の心中は量りようもありません。謹んでご冥福をお祈りいたします。
洋弓部、 OB会、学連等への連絡をどなたかとっていただけるとありがたいのですが。

164.柳  潔 2000/10/14 11:43

休日出勤しての朝一メールチェックで大変ショッキングな連絡を
受け取り、今現在も仕事が手に付かない状態です。
通常自宅ではメールを見ないので、今日出なければ月曜日まで
このことを知らないままになっているところでした。
芳(かおり)さんは2年生からの入部で小生の1学年下、早生まれなので
まだ43歳のはずです。一緒に入った二人とともに、栄養トリオと言われ
毎日熱心な練習ぶりで、よく「1年目のときから入部すれば良かった」と
言っていたのを覚えています。
小生と伊藤光昭さんが札幌をでるときに藤のOG+紺谷さんが送別会を
開いてくれましたが、それが彼女と会った最後ということになってしまいました。
小生の記憶の中では芳さんのイメージはその時のふっくらした若々しい
イメージのままでストップしています。
栗原君は今、こんなメールなど読んでいるヒマはないでしょうが、申し上げるべき
言葉も見つかりません。

なおOB会では数年前から、慶弔電報は諸般の事情により直接は取り扱わず
当該者に関連する有志にOB会の名前で出して頂くということになっていますので
今回は小生から出しておきます。(誰か手配済みの場合は連絡方)

久保田さんへ

三上君の番号です。
xxx−xxxx−xxxx

165.伊藤 玲子 2000/10/14 12:10

非常に悲しいお知らせ受け取りました。
仕事柄.お年よりの訃報に接する機会が多いのですが、
同年代はつらいですね。
職場の看護婦さんの御主人が40代前半で、
2ヶ月ほど前、急逝されました.
その時も、今もって、なんと声をかけたものか
わからなくて、仕事の話しか出来ずにいます.
ただ、かおりさんの御冥福を心からお祈りいたします。
そして、栗原君と御家族が悲しみからたちなおれますように

166.太田 順子 2000/10/15 12:44

昨日(10/14)あまりに突然の訃報を聞いて、驚いています。
会社でしかメールを見ていないので、何も知らず、昨日松本さんから
電話をいただきはじめて知りました。
(木田君からも連絡ありがとうございました)
早速、夜、松本さん宅に出向き、藤大洋弓部OG会として
お花を供えさせていただくことにしました。

月館さんとは本当に何年(20年以上)もお会いする機会がなく、
でも、まさか、こんな事になるなんて、本当に悲しいです。

日野さんからお聞きした話では、10年ほど前から体調がすぐれなかった
そうですが原因がわからず、こうげん病と診断されたのは
ほんの一ヶ月前だったとか・・・
難病としか知識がありませんが、せめてもう少し早く判っていれば、
治療の方法もあったのではと悔やまれます。

一番下のお子さんはまだ小学校3年生とか。
栗原君はじめ、ご家族のみなさまのお気持ちは察するにあまりあります。
月館さんご本人も、本当に心残りで悔しかったことでしょう。
同じ年代の訃報は辛いですね。
ご冥福をお祈りいたします。

167.齊藤 香織 2000/10/15 10:57

昨日は留守にしていてメールを見なかったので、今朝訃報を知りました。
私の読み間違えではないかと何度も読み返しました。
ご闘病中とも知らず、お元気でお過ごしとばかり思っていましたので、ただただ驚く
ばかりです。
「最近、e−volの皆さんもご無沙汰だなあ。何か書き込みしようかな。」なんて
思っていたところでした。
その久々のe−volがこんな悲しいお知らせだなんて。

私の記憶の中の芳さんは、柳さんが言われるのと同様に、学生時代のあの優しい笑顔
のままです。
栗原君とご家族にはお慰めの言葉も見つかりません。

心からご冥福をお祈り申し上げます。

168.久保田真人 2000/10/16 0:25

今夕のお通夜に押野君と共に参列してまいりました。
厳かに且つしめやかに執り行われましたこと取り急ぎご報告申し上げます。
正確な病名がわかったのはほんの1ヶ月前との事で、8年前より体調が思わしくなかったとはいえ
ご家族にとっても急なことだったようで、その心痛いかばかりかと察します。
道平君の喪主挨拶の中で、北海道のご両親をはじめご家族が最期を見守ることができた、とおっしゃていました。
ご冥福をお祈りいたします。

169.三上 裕二 2000/10/16 12:07

皆さん同様,あまりに急なことに驚愕しております。
昨日まで出張で関西にいっており,中村さんから「つながらない携帯」といわれてい
る携帯に連絡を受けました。
ただただ呆然としています。

170.太田 順子 2000/10/19 8:59

昨日、藤大の旧姓阿部久美子さんから、連絡があり、
メールに参加したいな・・とのことでした。
どうすればいいのか、教えてください。

171.柳  潔 2000/10/19 10:15

久保田さん宛メールアドレスを連絡すればOK

172.太田 順子 2000/10/19 15:26

阿部さん(木村さん)のアドレスです。
xxx@d4.dion.ne.jp
よろしくお願いします。

173.栗原 道平 2000/10/20 10:35

 このたびの妻、芳の逝去にあたり、ご弔電、ご供花など多数賜わり厚く御礼申し上
げます。今日が初七日ですが、子供達の学校の関係から22日の日曜日に日延べして
営むこととし、私も今日から出社しております。15日のお通夜には、久保田先輩、
押野君、佐藤留美さん(旧姓日野さん)、木村久美子さん(旧姓阿部さん)などが遠
方からご参列下さり、斎藤先生も16日の告別式に駆けつけて下さいました。重ねて
厚く御礼申し上げます。
 思えば20年前に二人とも24歳で結婚し、この12月7日でちょうど結婚20周
年となりますが、その記念日を迎える前に逝ってしまいました。妻は3人目の子供を
出産した後、8年ほど前から体調を崩し、喘息の発作に苦しめられるようになりました。
好酸球性肺炎で2回入院したり、2年前には札幌で副鼻腔炎の手術も受けました。
7月末に下半身の痛みとしびれを訴え、かかりつけの整形外科で診て貰ったところ、
総合病院へ救急車搬送されました。腰の痛みということで、脊椎のCTを撮り、対症療法
を続けていましたが、8月10日頃からは手の麻痺が始まり、今度は頚椎の障害かと
いうことで、CTを撮ったりいろいろな検査を続けましたが、20日頃から発熱などの
症状も見られるようになりました。どうも整形外科的治療で治る病気ではないらし
い、特殊な白血病の疑いもあるということで、内科の先生に主治医が交代し、さまざ
まな検査(9月4日には麻痺がひどい右足首の抹消神経と血管を切除し生検)を受け
た結果、9月も10日過ぎになってようやく膠原病の一種であるアレルギー性肉芽腫
性血管炎=チャーグ・ストラウス症候群(AGA)と診断されました。
 この病気自体、直ちに命にかかわるものではありませんが、悪いことに既に心筋炎
と肺炎を合併しており、9月12日に主治医から重篤である旨を告げられ、3〜5ケ
月以内に不整脈により心臓停止することもあるとの宣告を受けました。13日朝には
呼吸不全となり、気管内挿管(呼吸用の管を口から挿入し気管に直接つなげる)を受け、
言葉による会話を奪われることになりました。8月28日から新潟へ来て、通いで看
護をしていた芳の母もこの日から病院に泊まりこみとなり(10月13日に息を引き
取るまでちょうど一ヶ月続きました)、14日午後には父親の方も札幌から飛んできて、
母親と交代で24時間つきっきりの看護が始まりました。AGAの原因はまだはっきりと
解明されておらず、治療法はステロイド(プレドニン)と免疫抑制剤(エンドキサン)
の大量投与以外に有効な治療法が無く、頚静脈に穴を開け、直接点滴するようになり、
栄養は鼻からチューブで補給するようになりました。また、人工呼吸器も装着されました。
人工呼吸器とのマッチングを容易にするため、鎮静剤で眠らされる時間が長くなりました。
重篤な昏睡状態から覚めたときには、筆談で私に「からだこわすな」、「死にたくない」
というメッセージを伝えてくれました。容態が落着きを示したこともあって、
上記のような主治医の託宣にもかからわらず、私はこの時点でも芳が死ぬなど有り得ない、
必ず一旦は退院し自宅へ戻ってくれるものと信じこんでいました。
 容態は小康状態を保ち、9月25日未明の人工呼吸器の不調事故を除けば、比較的
平穏に推移していました。麻痺していた右足の指先も動かせるようになり、手も以前
よりスムースに動かせるようになり、筆談のやり取りも行なっていました。9月29
日に主治医から、状況説明があり、容態としては良くも悪くもなっていない、所謂小
康状態であるとしながらも、英文の論文を示し、AGAに心筋炎を合併した場合には3
年生存率が50%、5年以上生存できる確率は30%にも満たないことを説明してく
れました。
それでも私は芳が生存する方に属すると信じて疑いませんでした。
 10月6日に気管開削の手術を受け(その方が気管内挿管を続けるよりも体が楽に
なるだろうと)、管が口からはずされ、口が動かせるようになりました。のどもとに管
を差し込められ手術の後の血がにじみ、痛ましい感じではありましたが、口が動かせるよ
うになって、水を口に含むこともできるようになりました。食べれるようになったら、何が食
べたいかと訊いたら、「だいこん」と「ヨーグルト」と答えてくれました。8日、9
日と比較的元気そうに見えました。
 10月9日の夕方にその日2度目の病室を訪ねると、今まで見たこともないほど顔
色が悪く、高熱を発していました。右の肺が膿瘍でまったく使い物にならなくなり、
萎縮してしまっているとのことでした。、10日には胸水を採取して検査したとこ
ろ、ついにメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に冒されていることが判明し
ました。いろいろな抗生物質を試してみましたが、高熱は一向に下がらず、目に見え
て衰弱して行くのがわかりました。ほとんど意識もなくなり昏睡状態となりました。
12日朝に病院から子供を連れてくるようにとの連絡があり、医師(悪いことに主治
医は学会のため8日から渡米、18日まで不在)からあと1日か2日の命と告げられ
ました。その日は冷たい雨が時雨模様に降る中、子供達を学校に迎えに行き、病院へ
一緒に向かいました。医師の説明を受けた後、以前から入っていた仕事(新発田市の
ロータリークラブでの講話)をするため私と次男(8歳)は1時間余りで病院を後に
し、長女と長男は夜8時まで病室で付き添っていました。長女と長男を病院へ迎えに行き、
容態が安定していたので、一旦帰宅することにしました。途中で長男と食料品の買出し
をしていると携帯電話が鳴り、血圧が下がってきたので病院へ戻った方がよいとのことでした。
病院へ戻り、そのまま夜が明けるまで付き添っていました。何とか危篤状態から脱することを
願い、妻の手を握り、心臓の動きを少しでも助けるため右足と両足の裏のマッサージ
を続けました。血圧は6時過ぎには、50台を回復し(高めの表示をする機械は10
6まで示していました)、危機を乗り越えたのかもしれないと思い、一旦帰宅しまし
た。帰宅後、携帯が鳴り、また血圧が30台に下がったが、本当に危なくなったらま
た連絡をよこすとの連絡をお父さんからもらいました。子供達は一応学校を休ませ、
自宅で待機(といっても朝ご飯の支度をしたり、万一の事態を想定しての家の清掃に
終始)していたところ、10時に悪夢のような携帯が鳴り、とうとう血圧が20台ま
で低下したとのこと。すぐに病院へ駆け付けたところ、一晩中安定し、朝まで150
前後あった心拍数が70をきるようになっており、もう最期のときを迎えつつありま
した。私達が到着したときは、一瞬心拍数も100近くまで上昇しましたが(意識が
混濁している中でもわかったのでしょうか?)、それもまただんだんと低下、呼吸も
浅くなり10時40分にはどんどん心拍数と呼吸回数を示す数値が低下して行き、も
うこれで死んでしまうのだと実感せざるを得ない状態となりました。子供達はお母さ
んの手を握りおいおいと泣くばかり、私も涙があふれて止まりませんでした。医師は
10時59分に死亡を確認しました。こうして、一ヶ月余りの厳しい闘病生活の果て
に、芳は力尽きて逝ってしまいました。
 まさかこんなにも早く逝ってしまうとは考えてもみず、入院慣れしていたことも
あって必ず退院してくれるものと思っていました。本人も子供達のことなど心残りが
あったことと思います。家の中は芳がいたときの状態のままで、言い残しのメモなど
も無いので、どこに何があるのかさえわからず、ひょっこりとまた現れてくれるよう
な気もします。北海道の両親も葬儀が終わった翌日には遺骨の一部を抱いて帰りまし
た。里塚霊園に納骨するとのことです。(連絡先を記しておきます。石狩市花川xx
xxx、TELxxxx−xx−xxxx)
 妻の死にいたるまでの様子を少しでも詳しくお伝えした方がよいと綴ってみました
が、長くなってしまいました。故人を偲んでいただけたらと思います。しばらくは、
現在の住まいで子供達と暮らして行こうと思っています。改めまして、皆様に御礼を
申し上げます。合掌

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