エーテルと相対論

Ether and Theory of Relativity
アルバート・アインシュタイン(Albert Einstein)
訳 片山泰男(Yasuo Katayama)
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ライデン大学で、1920 年 5 月 5 日の講演。1922 年 G.B. Jeffery, D.Sc W. Perret, Ph.D. の翻訳で E.P. Dutton 出版 N.Y.によって出版。1983 年に無省略、無修正で、Dover 出版から 再出版された"相対論への側光" Sidelight on relativity に収録の Ether and the theory of relativity の翻訳である。


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毎日の生活からの抽象によって導入された、重さのある物質というアイデアの脇に、 物理学が設定した他の種類の存在、エーテルというアイデアは、どのようにやって来たのだろうか。 それの説明は恐らく、遠隔作用の理論をもたらした種々の現象の中に、そして、 波動理論へと導く光の特性の中にあると考えられる。 これら二つの主題についての思考に、しばらくの間をささげよう。

物理学の外では我々は、離れたものへの作用はなにも知らない。自然の物体が我々に与える 経験の中で原因と結果を繋げようと試みるとき、まずは、例えば衝撃による運動量のやりとり、 押し引き、炎による熱又は燃焼の誘導などの、直接の接触以外の相互作用は、なかったかのように思える。

毎日の経験の中の重さでさえ、ある意味の遠隔作用のなかで、非常に重要な役割を果たしていることは 真実である。しかし一方、毎日の経験の中では、物体の重量は何か定数のように我々に現れ、 時間や場所のなかの変数という、なにかの原因に結びつくことのないものに思われる。 毎日の生活のなかで重力の原因を思索せず、それゆえ、その特性が遠隔作用ということを意識しない。

重力の原因を、質量から発する遠隔作用に最初に指定したのは、ニュートンの重力の理論である。 ニュートンの理論は、自然現象の因果連鎖の解明に向かう、かつてなされた努力のなかで、 恐らく最も偉大な前進であった。

そしてこの理論は、しかしニュートンの同時代人の間に、ある活発な意味の不快感を喚起した。 それは、残りの経験から出た原理、相互作用は接触を通してだけ存在しえて、 遠方の即時作用を通してではないという原理と相反するように見えたからである。


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知識を求める人類の欲求が、この種の二元論に耐えるときは、不本意とともにだけありうる。 自然の力に対する彼の理解のなかで、統一性はどのように保持されたのだろうか。

例えば、接触による力を観測に許される限りの非常に小さな距離の力とみなすことによってである。 そしてこれが、ニュートンの後継者、完全に彼の教義の言葉の下にある者達が最も好んでとる道で あるが、或は、ニュートンの遠隔作用は、単に "表面的" に遠隔の直接作用だが、真実は空間を埋め る媒体の運動又はこの媒体の弾性変形によって、運搬されていると仮定することによってである。

そのように、力の性質の統一した見方への努力が、エーテルの仮説を導くのである。 この仮説は、確かに、最初は重力の理論または一般物理学に何らの前進ももたらさなかった。 だから、ニュートンの力の法則は、それ以上還元できない公理として扱うのが習慣になった。

しかし、エーテル仮説は、つねに物理科学において何らかの役割を果たすように運命付けられた。 たとえ最初は潜在的な役割だけであったとしても。


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19世紀の前半、光の特性と重さのある物質の弾性波との間にある遠く届く類似性が明らかになったとき、 エーテル仮説は、新たな支持を見出した。光は、疑いを超えて、宇宙を埋め尽くす弾性と慣性をもつ 媒体の振動過程であると解釈されるべきであることが明らかになった。 光が偏光できるという事実から必然的帰結として、その媒体、エーテルは固体の性質を持たなければ ならない。なぜなら横波は流体の中では存在し得なく、固体の中でだけ存在できるからである。 こうして物理学者達は、光の波に相当する変形の小さな動きを除いて、他のものと相対的な運動をなし 得る役割をもたない、"疑似固体"の光エーテルの理論に到達する。

この理論はまた、静止光エーテルの理論とも呼ばれ、特殊相対論においても基本的な重要性をもつ、 ある実験のなかで、さらに強い支持を見出す。それは、フィゾーの実験であり、 光エーテルが物体運動のなかで、何らの役割を果たさないことを人が推論せざるを得ないものであった。 収差現象もまた、疑似固体エーテルの理論を好んだ。

マックスウエルとローレンツによって開かれた道に沿った電気理論の開発は、我々のエーテルに関する アイデアの開発に対して、あるとても奇妙な予期せぬ方向転換を与えた。マックスウエル自身にとって エーテルは、じつにまだ、純粋に力学的な特性をもつものであった。それは、確実な固体の力学的特性 に比べて、よりずっと複雑な種類のものであるが。 しかし、マックスウエルとその追従者達のだれも、それができれば電磁場のマックスウエル法則の力学的 な解釈の成功を備えたかもしれない、エーテルの機械的モデルの開発には成功しなかった。 その電磁場の法則は、明解で単純であった。力学的解釈は、不恰好で反論可能であった。


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殆んど感じられないままに、理論物理学者は、彼らの力学的な方法論から、彼ら自身をその悲観的な状況 に適応させた。彼らは特に、ハインリッヒ・ヘルツの電気力学的研究から影響を受けた。というのは、 そこでは、彼らはかつては、(密度、速度、変形、応力という) 力学論だけに属する基本的概念に整合する 最終理論を要求していたが、次第に電気的、磁気的な力を、それらの力学的解釈なしに力学概念と並ぶ 基本概念として許容することに、彼ら自身を慣習づけたのである。そうして純粋に力学的な自然の見方は、 次第に廃棄されてきた。しかしこの変化は、永くは支持できない基本的な二元論に導いた。

電気の原理から力学の原理を削減することによって、今や、その反対の方向に抜け道が考えられた。 そしてこれは特に、ベータ線と高速陰極線の実験によって揺り動かされたニュートン力学の方程式 の厳密な有効性に対する信任としてであった。

この二元論は、ヘルツの理論のなかの軽減なき形式としてまだ我々に直面している。そこでは 物質は、速度、運動エネルギー、力学的圧力の担い手だけではなく、電磁場の担い手でもある。一方 そのような場は、真空中、つまり自由エーテルの中でも発生し、エーテルはまた電磁場の担い手とし て現れる。エーテルは、通常物質から機能的に区別できないものとして現れる。物質のなかでは、 それは、物質の運動の役割を果たし、空虚な空間ではそれは、どこにおいても速度をもつ。まるで エーテルは、空間全体をひっくるめた速度に割り当てられているかのように。 ヘルツのエーテルと重さのある物質(それはある程度そのエーテルにも存在する)との基本的違いはない。


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ヘルツの理論は、互いに何らの概念的関係にない、一方は力学的状態、もう一方は電気的状態という、 物質とエーテルの割当の欠陥を被っているだけでない。それはまた、フィゾーの重要な実験、動流体中の 光の伝播速度実験と他の確立した実験結果のもたらした変動でもあった。

そのような物事の状態のとき、H.A.ローレンツがこの情景に入って来た。 かれは、理論の原理のすばらしいある単純化の方法による経験をもって、調和への理論をもたらした。 エーテルからその力学的な、物質からはその電気的性質を取り上げることで、 かれはこの、電気理論のなかのマックスウエル以来の最重要な進歩をなし遂げた。

空虚な空間のなかと同じく、物体の内部においても、原子論的にみると物質ではなく、 エーテルが排他的に電磁場の座席を占めている。 ローレンツによれば、物質の要素的粒子だけが運動を実行できる。それらの電磁活動は、 すべて電荷の運搬に閉じ込められている。 そのようにローレンツは、すべての電磁的できごとを自由空間中のマックスウエル方程式に還元した。

ローレンツのエーテルの力学的性質について、すこし遊びの精神でいってもいいのは、 力学的特性はその不動性だけで、それはH.A ローレンツによって、邪魔されていなかったのである。 特殊相対論のもたらしたそのエーテルの概念の全体的変化は、そのエーテルから最後の力学的性質、 つまり不動性をとり除いたことであるといってもいいだろう。 どのようにこれが理解されるかべきかは、直ぐに詳述する。


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時空の理論と特殊相対論の運動学は、電磁場のマックウエル-ローレンツの理論をモデルにしている。 この理論はそれゆえ、特殊相対論の要件を満足する。しかし後者の観点からは、それは新しい側面を 必要とする。ローレンツのエーテルの相対的に静止した座標の系を K とすると、 マックスウエル-ローレンツ方程式は K に関して最初に有効である。しかし、特殊相対論によれば、 同じ方程式が何ら意味を変更することなく、K に相対的に均一な並進運動する、どの新しい座標系 K' についてもまた保存されるのである。ここで心配する疑問が来る。---どうして私は、その理論の なかで、すべての K' 系、それらは K と全ての点で物理的に同等であるが、それらの上に K 系を、 エーテルが K 系と相対的に静止していると仮定することによって区別しないといけないのだろうか。

理論家にとって理論の構造のなかのそのような、経験の系のなかに対応する非対称をもたない 非対称性には、耐えられない。もし、エーテルが K 系に相対的に静止し、K' 系では運動しているべき だと仮定すると、K と K' の物理的同等性は、私には、論理的立場からは、 じつに明白に正しくないだけでなく、それでなくても受け入れがたいようにみえる。

現れた物事のこの状態に直面して、取り得べきつぎの立場は、次の通りである。 エーテルは、全く存在していない。電磁気の場は、媒体の状態ではなく、そしてそれに結びつけられる 担うものを何ももたない。そうでなく、それらは、なにか他のものに還元できない独立した現実性 である。まったくそれは、重さのある物質の原子のようにである。

この考えは、次のようにすぐさま自らを示唆する。ローレンツの理論によれば、 重さのある物質とおなじく、それに伴う衝撃とエネルギーをもたらす電磁放射、 また、 特殊相対論によれば、物質と放射の両者は、単に分布したエネルギーの特殊な形態でしかないので、 その孤立を失いつつあり、エネルギーの特殊な形態として現われてきている、重さのある質量である。


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しかし、さらに注意深い熟考は、我々に教える。特殊相対論は、我々にエーテルの否定を強制しない。 我々はエーテルの存在を仮定してもよい。ただし、我々がそれへ確定した動きの状態を帰するのを、 あきらめるときのみである。 すなわち、我々は抽象でローレンツがまだそれに残した最後の力学的特性を取り去らないといけない。 我々は後にそれをこの視点で見るだろう。何か比較停止のようなもので、より知的にする努力を私が 一度しなければならない概念を。それは、一般相対論の結果によって正当化される。

水の表面の波を考えてみよう。ここにふたつの全く異なることが記述できる。 時間の経過によって変化する水と空気の間の境界を形作る波動の表面がどうなっているかを我々 が観察することと、または他の、例えば小さな浮きの助けを借りて、水の分離した粒子の位置が 時間の経過に従ってどう変化するかを観察することと。

液体の粒子の動きの追跡のためのそのような浮きの存在が、もし物理のなかで基本的に不可能なら、 もし、事実、時間のなかで変化する、水によって占められる空間の形以外に何者も観察できないと すると、水が動き得る粒子でできているという仮定は、基盤を失うであろう。しかし、全く同様に、 我々は、それを媒体と性格づけすることができるだろう。


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我々は、電磁場においてこれに類似するものをもつ。我々は、場を力線による構成のように思い描 いてもよい。もし、これらの力線を普通の意味の何か物質と解釈することを望むなら、 動的過程をこれらの力線の動きと解釈することを試み、 まるで、それぞれの分離した力線が時間の経過に従って追跡される。 しかし、よく知られているように、電磁場に関するこの方法は、矛盾に導くのである。

我々は、一般化してこう言わなくてはならない。動きというアイデアが適用できないものには、 拡張した物理的対象と仮定してよいかもしれない。それらは、時間のなかで分離して追跡できる粒子 で構成されているとは考えられない。ミンコフスキーの言葉では、これは次のように述べられた。 すべての拡張した構成物が四次元世界のなかで世界線を構成するとはみなされない。 特殊相対論は、我々にエーテルを時間をわたる粒子で構成されると仮定することを禁止した。 しかしエーテル仮説自体は、特殊相対論と相反するものではない。 我々はただ、動きの状態をエーテルに帰属させることから自らを防御しなければならない。

確かに、特殊相対論の立場からは、エーテル仮説は、まず空虚な仮説として現れる。 電磁場の方程式のなかで起こるのは、電荷密度に加えて、場の強さだけである。 真空中の電磁過程の担い手は、他の物理量に影響を受けずに、これらの方程式で、 完全に決定されるものとして現れる。電磁場は、究極の還元できない現実性として現れ、 均一等方のエーテル媒体を仮定し、電磁場がこの媒体の状態であると観照することは、 まずもって余分なことである。


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しかし一方、エーテル仮説を好んで証拠としてあげる有力な議論がある。 エーテルを否定することは、究極的には、空虚な空間は何ら物理特性をもたないという、 仮定をすることである。力学の基本的事実は、この見方とは調和しない。 空虚な空間をうろつく物質の系の力学的行動は、相対位置(距離)と相対速度だけに依存するのではなく、 その回転の状態にも依存する。回転は、物理的には、系自身に関係しない特性であるといってもよい。 系の回転を、少なくとも形式的に、何か現実的に見るためには、ニュートンの客観的空間を見ないと いけない。

彼は、彼の絶対空間と現実の物事とをクラス分けしたが、彼にとって絶対空間との相対的な回転も 現実的な何かであった。ニュートンは、彼の絶対空間が"エーテル"と呼ばれる少なからぬ源泉であった。 本質的なことは、単に観測できる物体以外に、もうひとつの知覚できないものであり、 それを現実とみないといけない。加速と回転を何か現実的なものとみるためには。

マッハは、絶対空間に対しての加速の代りに、宇宙の質量の全体性に対しての平均加速という、 代替物を力学に作ることによって、観測できないものを現実的として受け入れるのを、 避けることを試みたということは、真実である。 しかし、遠方の質量の相対的加速に対抗する慣性の抵抗は、遠隔作用を前もって要求する。 そして、現代の物理学者として、この遠隔作用を受け入れるだろうとは、信じない。 彼が再び戻って来て、もし彼が、マッハの継承者であるなら、慣性効果の媒体として 用意しなくてはならないこのエーテルに対して。 しかし、マッハの考えの方法によって我々が導かれたエーテルという概念は、 ニュートン、フレネル、そしてローレンツによって考えられたエーテルとは本質的に異なる。 マッハのエーテルは、慣性的な質量の行動を条件付けるだけでなく、それらによってまた、 条件付けられている。


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マッハのアイデアは、一般相対論のエーテルのなかに完全な開発を見出す。 この理論によると、時空連続体の計量的な量は、時空の他の場所の環境によって異なり、 部分的には考慮する領域の外側の質量が存在することによって異なる。

時間と空間の標準的な、相互の関係の、この時空の可変性、又は、多分、 その物理的関係のなかの"空虚な空間"は、均一でも等方でもなく、10 個の関数(重力ポテンシャル g_ik) によってその状態を我々に表示することを強制するという事実は、 私は思うに、空間が物理的に空虚であるという考えに対する最終的な処理である。 しかし、それとともに、エーテルの概念は、再び知的な内容を後天的に習得した。 この内容が光の力学的波動理論のエーテルのそれからは、広く異なっているけれども。 一般相対論のエーテルは、それ自身、全ての力学的、運動学的性質を欠くが、 力学的(そして電磁気的)な出来事を決定することを助ける媒体である。

一般相対論のエーテルが、ローレンツのエーテルに対して基本的に新しい点は、 前者の状態は、質量と近傍の場所のエーテルの状態の結合によって、 全ての点で決定されるということにある。それらは、微分方程式の形式の法則に従っている。 一方、ローレンツのエーテルの状態は、電磁場の不在のなかでは、そとの何者によっても 条件付けられず、どこでも同一である。

一般相対論のエーテルは、もし、その状態を条件付ける原因を無視して、 前者の表現する空間の関数を定数に代替すると、ローレンツのエーテルに概念的に変化する。 このように我々はいうことができる、と私は思うが、 一般相対論のエーテルは、相対性を通して、ローレンツのエーテルから出て来たものである。


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新しいエーテルが将来の物理に果たす役割については、我々にはまだ明解でない。 我々は、それが時空連続体の計量的関係を決定することを知っている。 例えば、固体だけでなく、重力場の構成的な可能性を。 しかし、物質を構成する電気的な要素粒子の構造のなかで本質的な役割をもつかどうかは知らない。 また、重さをもつ物質への接近において、ローレンツのエーテルとはその構造が本質的に異なること だけであるかも知らない。宇宙の広がりの空間の幾何学が近似的にユークリッド的であるか。 しかし、相対的重力の方程式の理由によって、規模が宇宙的オーダーの空間において、 もし宇宙の物質の正の平均密度が存在すれば、それがどれほど小さくても、 ユークリッド関係から離脱しなければならないことを主張することはできる。 この場合、宇宙は必然的に空間的に際限がないが、有限の大きさである。 その大きさは、平均密度の値によって決定される。

もし我々が、エーテル仮説の立場から重力場と電磁場を考慮すると、両者には顕著な差異が見出される。 重力ポテンシャルの存在しない空間または空間の一部はあり得ない。 なぜなら、これらは、空間にそれなしでは決して想像できないその計量的性質を与えるからである。 重力場の存在は、空間の存在と不可分に結合している。 一方、空間の存在は、電磁場なしでもよく想像できる。そのように重力場と対比して、電磁場は、 エーテルとの二次的なリンクでしかないと思える。電磁場の形式的性質はまだ、 重力エーテルのそれによって決して決定されない。

理論の現在の状態からは、電磁場がまるで重力場に対して、全く新しい形式的 "動機" を待っているように見える。例えば、電磁型の場の代りに、スカラーポテンシャルの場を与えるように、 自然は単に重力的エーテルと場に別の型を付与したかもしれないようだ。

一方我々の現在の概念によれば、物質の要素粒子はまた、そのエッセンスでは、電磁場の濃縮以外 のなにものでもない。宇宙に対する我々の見方は、因果的に結合しているが、互いに完全に分離した 二つの現実性を与え、それは、重力エーテルと電磁場である。または、それらはこう呼ばれてもよいが 空間と物質である。


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もちろん、もし、我々が重力場と電磁場の両者をひとつの統一した同一型に理解を進めることができ たなら、それは偉大な進歩であろう。そのとき初めて、ファラデーとマックスウエルによって創始された 理論的な物理学の時代は、満足すべき結論に到達する。エーテルと物質の対比は消え去り、一般相対論を 通して、幾何学、運動学、そして重力の理論のような物理学のすべてが完全な思考のシステムになる。

この方向に非常に優れた試みが数学者 H. ワイルによって成された。しかし私は彼の理論がその基盤に 現実性との関係を保持しているだろうとは信じない。 さらに、理論物理の直近を凝視すれば、量子論に含まれる事実が場の理論の越えてはならない限界を 設定する可能性を無条件に否定するべきではない。

要約すれは、一般相対論によれば、空間は物理量を付与されていて、この意味でそれゆえエーテルは存在する。 一般相対論によれば、エーテルなしの空間は考えることもできない。 そのような空間では、光の伝播もないだけでなく、時空の標準(物差しと時計)の存在の可能性もない。 物理的な意味でのいかなる時空の間隔もない。 しかしこのエーテルは、時間のなかを追跡できる役割をもつ、重さのある物質の性質を備えると、 考えてはならない。動きのアイデアは、それに適用できない。