Twin paradox in Relativity (Yasuo Katayama)

相対論

片山泰男(Yasuo Katayama)
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1. はじめに
2. 慣性系
3. マイケルソン・モーリー実験
4. 同時刻
5. 時間と空間のローレンツ変換
6. ローレンツ短縮と時計の遅れ
7. 双子のパラドックス
8. ローレンツ変換と、短縮と時計の遅れの関係
9. パラドックス
10. 速度の合成則
11. 相対論と、決定論
12. ローレンツ変換と加速度
13. 双子のパラドックス(続き)
14. 時計の公準
15. 相対論における不変量
16. 円筒時空と双子のパラドックス
17. 円筒宇宙の絶対静止座標系
18. 重力と双子のパラドックス
19. あとがき


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1. はじめに

この文章は、物理と相対論を愛好する方々の理解の手助けになることを目的にした。 この世界をできるだけ原理から理解しようという態度こそ、 科学の最も重要で本質的な作業であると私は思う。 相対論は、不思議なパラドックスに満ちている。それは、 経験が頼りにできない非常識の領域の思考を要求するので、 思考実験と、誤りやすい論証のような手法に頼ることが多いからである。

高度な数学的表現は、すばらしく思考の節約になる。しかし数式には必ずその思想なり言葉がある。 それを意識して数学的結果を鵜のみにしないことも重要である。 数式は理解を助けるための方法であるのに、高度な数学が逆に物事を見えなくさせることもありえる。 記述が難しくなると、素人が近付けなくなる。なにか混乱があるとき、見通しをよくするには、 すっきりした初等的な説明が一番必要なものである。数式のもとの考え方のほうが重要である。

一般的に思考は間違うものである。定式化よりも概念を、量的な議論より定性的な性質、 誤差の議論の前に、まず正負の符号をとらえる必要がある。 整合性よりも、基本特性が現実の検証に耐えるかどうかを考えるべきである。

この文章を起こしてみようという気になった発端は、数年前の次の経験がもとであった。 ローレンツ短縮と時計の遅れは、非常にポピュラーで、 相対論の入門書には真っ先に出てくるものであるが、両者は性質が逆であり、 片方は短縮、もう一方は伸長である。


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(まず、両方が同じ方向の変化であるという見解は、初歩的間違いである。 それを問題にしているわけではない。)それに対して、 ローレンツ変換は、時間と空間に対称的な式である。 それらをどう折り合わせるのだろうか、という疑問である。

数日間の混乱のあと、見る条件が違うことに気が付くのであるが、 そのとき、自らの誤りに驚いたのである。勘違いは伝染する。 手持ちの本を調べてみると、相対論の入門書のひとつが本当に間違っていた。 意識的に理解しないとき間違いは入り込む。 自ら考えることを助けることが書物の働きであるはずが、 天下り的な思考方法の押しつけや初歩的誤りが多いことを嘆く。

相対論は、経験を超えた思索が真実の領域に関わるという基本的面白みだけでなく、 電磁気の理解のために欠くことのできない方法である。 相対論なしには、 どうやって飛んでいる電荷が磁場の中で受ける力を電場とみることを説明することができるだろう。

電磁場中を動く電荷は、ローレンツ力 F= q(E + v x B) を受けるが、 電荷に並進する系からみると電荷は静止しているから、力の原因はその系のローレンツ力の内、 電場でしかありえない。磁場は速度をもった系では、 系の速度に比例する電場に変わる。速度 v に垂直な成分は、ローレンツ力と非常に似た式になる。

E'= γ(E + v x B)




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ローレンツ力とローレンツ変換の γ= 1/√(1-v^2) の違いは、力のローレンツ変換が原因である。 電荷のみる電場の力が 1/γ に弱まってもとの系のローレンツ力になっている。 このように電磁場の一体的関係は、相対論によって、はじめて理解できる(電磁場のローレンツ変換)。

磁場自体も動く電荷の相対論的効果ではないかと思わせる。 電流の流れる電線に沿って飛んでいる電荷が磁場の力を受けるのは、 電荷にとっては、電線の中の正負の電荷のもつ速度差、 これは通常の電線と電流の大きさでは、毎秒 0.1 mm 程度の驚く程わずかな速度であるが、 そのわずかな速度差の、 なんとローレンツ短縮の違いで電荷には電線が帯電して見えることが原因である。 これはまさに相対論的現象である。この電線の帯電を別に説明する、 電流の電荷密度へのローレンツ変換も、同時刻が前方では未来にあたることだけから、 容易に説明できる。行き来する定期航路の密度である。

磁場の速度に比例する力とは、不思議なものである。速度は相対的であり、 上限は光速まで存在するからである。そこまでの力を出す真空とは、 いかに硬いものかと驚くべきだろう。 また、電荷の受ける磁場による力は、まるで力学のコリオリの力のような形をとっている。 回転系の角速度にあたる磁場がどうして、電流からもたらされるのだろう。 電磁気には、昔から議論となった単極誘導の議論がある。これの理解のしかた、 回転系と電磁気の関係をうまく説明できれば、この文章は成功である。 それ以外に静止場の運動量という、困った話を付け加えたい。





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2. 慣性系

出来事を、位置と時刻を使って、(x,y,z,t) の座標で記述するとき、 原点と時空の軸をどうするかが重要である。 その基準となる原点がふらつけば、記述は落ち着かない。 重力と外力のない状態で、 回転もなく等速直線運動をする安定した物体の上に、それらをとった座標系を慣性系という。 等速直線運動とは別の慣性系からみて、 という言葉が隠されているため定義はトートロジー(循環論法)ではある。

ニュートン力学において、位置と速度について慣性系間の意見の不一致(相対性)が存在する。 移動点 a から見ると自身は止まっていて、止まっている b は動いて見える。 それは、常識的なものであるが、相対論では、 その座標系のスケール(物差しの目盛の間隔)、時計の刻にも意見の不一致が出て来るのである。

慣性系は対等である。静止した慣性系と、動いている慣性系の中で成り立つ法則は、 同じとする(相対性原理)。物理での原理とは数学における公理のような原理的要請であり、 それ満たさない物理法則は法則に値しないとする考え方である。 K 系からみて、K'の空間軸が K のそれとそれぞれ並行、 K' の原点が空間軸 x の方向に速度 v を持つとき、K 系の事象を K' 系に座標変換する。

x' = x - vt
t' = t

これをガリレイ変換という。


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ニュートンの力学法則 F = ma が、座標系の位置と時刻、速度が違っても成立するのは、 a が加速度であるからである。 それらをずらしても、力と加速度の関係は不変であり、どの系からみても F = ma が成立する。 ニュートン力学とガリレイ変換は、慣性系の対等を満たしている。

もしもこの式に抵抗のような速度に比例する項が含まれるなら、それは成立しないだろう。 そして、ローレンツ力の式 F = q(E + v x B) は、速度の項をもつため、 そのままでは、ガリレイ変換とは両立しないだろう。 速度 v の系からみると電荷は静止し、v x B の項はないから、この法則がその系でも成り立つ (変換に耐える)とは思われない。

電磁場が系によって姿を変える、電磁場のローレンツ変換がこれの帰結であるが、 恐らく誰もが最初にローレンツ力の式に接したとき、 基本公式に速度 v が出て来ることに気味の悪さを感じたことだろう。 これは一体、なにが起こるのだろうか、という感じがあったはずである。 電荷の速度 v は、測定系に対する速度であるが、本当は何に対する速度だろうか、 電磁気はエーテルを要求しそのエーテル(絶対静止系)に対する速度なのか、 磁力線又は磁場に対する速度なのか、磁場源との相対速度なのか、と考えてしまう。

相対論は、電磁気を手がかりにした。 相対論によってニュートン力学は修正を受けたが、電磁気は無傷であった。 電磁気はもともと相対論的であった。マックスウエル (Maxwell(1831-1879)) によって電磁場が定式化され、波動となって空間を一定の速度で伝播することがわかる。 その速度が光速に等しいことから、光も電磁波の一種であるとされる。 火花を飛ばす原始的な方法で、ヘルツ(Heinrich Hertz 1857-1894)によって、 電波が実際に発生され受信される(1886)。この時代は、19 世紀の終りである。 アインシュタインの若い頃には、電波や電話、電灯(1879)すらまだなかっただろう。


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3. マイケルソン・モーリー実験

光が電磁波であることから、真空中にもエーテルという電磁波の媒質が存在すると考えられた。 音のように波は媒質に対して速度をもつ。光速は媒質に対して一定とすると、 地球の絶対速度は、測定できるはずであった。 絶対運動が測定できないのは、後世の哲学者が言うようには、自明ではない。

マイケルソン(1852-1931)とモーリーは、光の干渉計を使って、エーテルの風の速度を測定した。 中央に半透明の鏡をおき、地球進行に対し垂直に往復した光と並行に往復した光とを干渉させる。 精密なこの装置自体を石盤の上の水銀だめに載せて 90 度回転させることで干渉の変化をみる。 歴史的な実験の日には町中がこの実験に協力しすべての交通機関を止めたという(1881)。

図 2. は静止座標からみている。地球の運動と垂直に光が距離 L0 を往復する場合、 光が斜めの距離 L を行く間 t に、鏡は v*t だけ進む。 光速を 1 とすると、t= L とすることができ、 L^2 = L0^2 + (L*v)^2 から、L = L0/√(1- v^2) となる(左の図)。 それに対して、地球の運動と並行な光の往復は、左の壁から光がでて右の壁に到着するまでに、 壁が v*L1 だけ先に進む。 行きは L1= L0/(1-v)、帰りは L2= L0/(1+v)、往復の時間(又は距離)は、L1+L2 = 2L0/(1-v^2)である(右の図)。


図 2. マイケルソン・モーリー実験

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地球の進行方向に垂直な光の往復時間は、2L = 2L0/√(1- v^2) であり、 進行方向に並行な光の往復には、L1+L2 = 2L0/(1-v^2)かかる。 両者の違いは、分母の独特な式 1-v^2 に根号が付いているかどうかである。

地球が空間の中を進む速度、 (太陽の周りを一年で回る公転軌道速度は、太陽地球間が 1 億 5000 万kmだから、 1.5 * 10^8 km * 6.28 /365/24/3600 から、) 毎秒 30 km は、 v=10^-4 つまり光速の 1 万分の 1 にもなり、v^2 があるので、10^-8 程度の測定であるが、 光の干渉を使えば、当時の技術で十分な精度で測定できるはずであった。 ところがこれは種々の測定条件でも測定に失敗した。

これを説明するために、エーテルが地球に随伴して、引きずられるという考えも出てくる。 また、媒質を必要としない粒子のように、光速には光源の速度が加算されるとする W. Rits等のエミッション理論(1908)もマイケルソン・モーリー実験の説明には成功する。

進行方向に垂直な光は、Lの距離を光は同じ時間で行き、往復で 2 L0 である。 進行方向に並行な光は、行きに、1+v 帰りに 1-v の速度をもち、往復は L1+L2 = 2L0、 両者の往復の時間差はない。 しかし、この理論は、反射光との干渉が起こり得なかったり、 媒質だけを運動させた場合のドップラー効果をみるフィゾーの実験の説明も技巧的にした。 また、連星の円運動が楕円運動になることなどで、否定された。(章末の注*1)

ローレンツは、両者の時間差が無くなるようにエーテル中を速度をもって動く物体は、 エーテルによる力学的圧縮を受け、進行方向に短縮すると考えた(ローレンツ短縮)。 光と運動が並行の場合に、L0 が進行方向に √(1 - v^2) 倍に短縮すれば、 往復時間は進行方向に垂直な場合と一致するのである。


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波動現象の媒体に対する速度一定とは違って、特殊相対論の光速度不変とは、 光速が光源の速度によらず一定とするものである。 なお、一般相対論では重力によって場所によって光速度、物差しの長さ、時計の進み方 が変わるが、特殊相対論では重力を考えないため、物差しの長さ、時計の進み方は、 同じ系内で場所と時間によらず一定である。それらは、別の慣性系からみるとき変わるだけである。 また、物理法則一般が慣性系によらないこと(相対性原理)から、光速度は座標系によらず一定とする。



図 1 同時刻の相対性(A から見た B の同時刻線は傾いている。)

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4. 同時刻

相対論では、同じ場所の出来事については、みる系によって意見が分かれることはないが、 離れた場所の時刻は、慣性系によって意見が分かれるとする。

離れた場所の同時刻を次のように決める。B は A から見て速度 vで x方向に移動している(図 1.)。 B 点から A 点へ光を送り、A は即座にその光を B に返すとする。 B は送ってから受けるまでの、ちょうど真中の時刻を A が受けて返した時刻と同時刻とするのである。

A の返した時空点への光の行き帰りの距離は、A からみたこの図ではひどく違っているが、 B にとって等しい距離であり、光速を一定とするから、この定義は理屈にあっているのである。 このように B にとっての同時刻を決めると、B の動きを示す図に B にとっての同時刻線が書ける。 これは A の同時刻(この図の水平線)とは違っている。

B の同時刻線は、B の進行方向、前方では A の未来になっている。

A にとって未来(水平より上)で、B の同時刻線より下の時空点は、B にとって過去である。 このように、時間と空間は慣性系によって違ってとらえられる。 A から見た B の同時刻線が傾いているのは、B の空間が時間と混在していることを表わす。 相対論では、時空は相互に関連した存在となった。

この B の軌跡は B の時間軸、B の同時刻線は B の空間軸のひとつの x 軸であり、 これらは、B の時空を A の時空上に写したものである。


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5. 時間と空間のローレンツ変換


図 1.1 ローレンツ変換を同時刻の定義から導く


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同時刻の定義からローレンツ変換を導く。 Aの送受の時空点を原点にとり、それを通る +/-1の傾きの光 l_1, l_2 を引き、 l_1 上の1点(a,a)とl_2 上の一点(b,-b)を結んだ線分の中点、((a+b)/2,(a-b)/2)を原点と結ぶと、 その傾きは、(a-b)/(a+b)である。 これは、もとのl_1, l_2 上の2 点を結んだ線分、B の軌跡(これがx= v*t+cである)の傾き、 (a+b)/(a-b)の逆数である。 つまり同時刻線は、t= v*x である。 x= vtが 時間軸 (x'=0)、t= vx が空間軸 (t'=0) から、d, e を定数として、

x' = d (x - vt),
t' = e (t - vx)

これの逆変換を ' を入れ換え v, -v を入れ換えた式とし、 順逆の変換を掛けると元に戻ることを要請して、つぎのローレンツ変換の式になる。

x' = γ(x - vt),
t' = γ(t - vx) 但し、γ= 1/√(1-v^2)

この式は、A の座標系 K(x, t)から、速度 v をもつ B の座標系 K'(x', t') への変換を示す。 速度 v の方向 x と時間 t の 2 次元の座標変換であり、 v に垂直な、y, z は変換に関与せず、y'= y, z'= z である。 この変換は、速度だけによって決まり、加速度を含まない。 ローレンツ変換は、虚数角の回転として表すこともされるように、 x と t について線形変換であるため、大きな値も許される。 一般相対論の座標変換は、微小な dx, dt についての式であり、 大きな x, t について直接言及できない。


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6. ローレンツ短縮と時計の遅れ

動くものは前後に短縮する。また動くものは、時の経過が遅くなる。 このことを相対論の入門書では、真っ先に現象として教えるが、 このことを簡単に説明するのは難しい。しかし、時計の遅れには、 とてもよい初等的な説明がある。 図 2. の左の図のように、光が一定距離 L0 を往復する仕掛を時計として使うのである。 光は延びた斜めの距離 L を行き来する。距離 L を光が行く間 t に、鏡は v*t だけ進む。 光は延びた距離 L を往復するから、 光の往復する時計はγ= 1/√(1-v^2)倍にゆっくり時を刻むのが当然と思える。 高速に移動すると、忙しくて時の経つ暇もない、ということだろうか。

ローレンツ短縮とは、エーテル中の運動物体が、 進行方向にだけ√(1 - v^2) 倍に短縮する現象である。 ローレンツ短縮は、マイケルソン・モーリー実験が測定できるはずの絶対運動が、 決して測定できない理由をつけた。これがローレンツの考えたように力学現象ではなく、 物差しと時計自体が変化する、時空の座標変換であったことが判るのは、 相対論によるのである。しかしながら、これの説明に時空図だけで何とかするのは、 難しい。B のみる時間の目盛、空間の目盛はこの図には、現れていないからである。

相対論には光速の制限があり、光の速度には物体はどのようなエネルギーを費しても到達できない。 しかしそういう悪い側面ばかりではない。 地球から遠方の恒星を目指して旅行する場合、時計の遅れのために、 乗った者の時間の経過が緩慢になり、 10 光年先の恒星系に行くのに、搭乗した人にとって 1 年もかからず到着できるという現象がある。 静止寿命が 2.2 マイクロ秒のミューオンは、 大気上層から地上までの約10km(光速で30マイクロ秒かかる)を通過して、 地上に到達することが観測されるという。


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7. 双子のパラドックス

有名な双子のパラドックスを説明する。双子の一人、兄 A は地球に残り、 弟 B が地球から別の恒星系へと出発する。速度をもって進む B は時計が遅れる。 B が帰ってきて A と出会うと B は歳をとらずに A は歳をとっている。

これがパラドックスとされる理由は、 B からみても A が離れていって帰って来ているということである。 刻々の相対速度は、A から B を見たものと B から A を見たものとは大きさが等しい。 これはどう解決するのだろうか。

B はもう一度 A と会うために、引き返している。 B の引き返しのときに B はロケットをふかし逆向きに推進している。 つまり B は慣性系ではない。行きと帰りそれぞれについては、 B の慣性系からも時空図を書くことができるが、 B の引き返しの加速時には慣性系の時空図は書くことができない。 特殊相対論は、慣性系から見る限り、等速直線運動以外の加速運動さえも含めて、 全ての運動を説明するが、見る系が慣性系であることを前提にしている。

慣性系 A から見た B の動きと B の同時刻線 図 3. を使って説明する。 B が離れていく間と B が帰って来る間の B の同時刻を A の世界線上に記録する。 それらを見ると密集した同時刻線がある。 これは、B から地球の時間の経ち方がゆっくりだと見ることを表す。 帰路も、やはり B の同時刻は密集している。 ところが、B が引き返すための逆推進している間、A の場所の同時刻線は未来に飛んでいる。 そのため、B の時計は、A と比べて遅れるのである。


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引き返しの加速中の B からみる時空は、加速系であり、一様重力中の時空のように、 場所によって時間の経ち方が違うものとなる。B の後方への加速の間、後方、 比喩的には上方にあって放物運動をしている A の時間は、 系の加速度と高さの積に比例した分だけ急速に前に進むのである。



図 3. 双子のパラドックス

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8. ローレンツ変換と、短縮と時計の遅れの関係

ローレンツ短縮と時計の遅れは、性質が逆である。片方は短縮で、もう一方は伸長である。 それに対して、ローレンツ変換は、空間と時間に対称的な式である。 つまり、x' の式と t' の式は全く同じ形をもつ。 空間と時間は同じ処理を受ける。それをどう折り合わせるのだろうか。

ローレンツ変換は、ある慣性系 K からみた(x, t)から、 (光速 を 1とした) 速度 v をもつ別の慣性系 K' からみる(x',t')を与える。

x' = γ(x-vt)
t' = γ(t-vx)  γ = 1/√(1-v^2)

これの逆変換、速度 v をもった K' 系からもとの K 系への変換式で考えよう。 速度をもった物体が元の系からどのように見えるかを表す式である。

x = γ(x'+vt')
t = γ(t'+vx')  γ = 1/√(1-v^2)

このローレンツ変換は、次のように短縮にも伸長にもなりうる式である。 この式に見られる側の空間(同時刻)である t' = 0 をいれると、 x= γx' となりγ= 1/√(1-v^2)が 1 以上であるから、空間を拡大する式である。


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"ローレンツ短縮"は、そうでなくて見る側の座標系、K 系での空間を表す t = 0 を式に代入する。 これは1/γに短縮することを表す式である。

x= γ (x'- v(vx')) = √(1-v^2) x' = x'/γ

それに対して、"時計の遅れ" は、見られる側の K' 系に付着した時計の経ち方をみるため、 x'= 0 を代入する。これは、t' = 0 をいれた空間の拡大と同じ操作であり、伸長を表す式である。

t= t'/√(1-v^2)= γ t'

つまり、ローレンツ変換自体は、どこを切って見るかで短縮であったり拡大であったりする。 "ローレンツ短縮" はこちら K の空間(同時刻)で切って見ているのに、 "時計の遅れ" は向こう K' の時間(空間=0)で切って見ている。 両者は切り方が全く違う操作なのに、それが感覚的に自然に理解されるのは不思議である。

"ローレンツ短縮"と"時計の遅れ"とを、空間と時間において対称な現象とみるのは間違いである。 向こうの物差を含めて物体の長さが短縮し、その構造が詰まるローレンツ短縮と同じなのは、 向こう側の時計の刻を含めて、時間方向の構造の短縮、つまり変化の高速化現象である。 時計の遅れはその逆である。

また、回転の成分のように、一方が伸びれば他方が縮むのは当たり前とするのも間違いである。 ピタゴラスの定理の平方の和が一定の話ではなくて、 ローレンツ変換は平方の差 s^2= t^2 - x^2 を不変にし、 一方が伸びれば、他方も伸びる変換である。


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9. パラドックス

相対論に特有なパラドックスを考える。光速に比する速度を出せる乗物を作る技術がない現在、 相対論の描像は、明確に知覚できない現象、常識を抜け出た現象のままである。 そこでは、感覚的に検証できないために論証のような手法が有名なパラドックスを生む。 当然ながらパラドックスは、矛盾を指摘し否定する目的に作るものではない。 問題を明確にし、論理の検証のために、相対論が自ら用意したものである。 パラドックスは、相対論が一般常識からいかに隔たった結論を要求してきたか、を知るのに役立つ。

A から見て B が縮むというなら、B から見ると A が延びているのではないだろうか。 ところが、B から見ても A は相対運動の相手であり、同じく短縮しなければならない。 A から見て B の時計がゆっくり時を刻むなら、B からは A の時計は速く動くべきではなかろうか。 しかし、相対運動の大きさは、B から見ても同じである。 相対速度の大きさだけで決まる相対論的現象は、一方が他方を見るとき起こることは、 すべて逆の方向にも起こらなくてはならないために起こるパラドックスである。

ローレンツ短縮は、 見る側の空間(同時刻)によって切断した時空の断面で相手が縮んでいるのであった。 感覚的には見る側から光らしたストロボ写真のように同時刻の描像が見られるとしたときの話である。 もちろんこれは比喩であり、光で照らすのは、相対論的現象の議論では、 同時刻とは程遠いものであるが。 見られる側の空間(同時刻)で切った写真、ロケットの中央からのストロボで照らした猫像は、 逆に延びているだろう。船の先端と末端に付いたライトを電気的に同時に光らすとき、 地上からみたライトの間隔は延びている。


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時計の遅れは、見られる側の空間の一点の時計を、 見る側の多くの時計で調べているために遅れるのであるが、 見られる側に時計を多く配置して、こちらの時計が空間の一点にある一つの時計ならば、 逆に時間は短縮し早回しになる。

このようにこの基本的なパラドックスは、矛盾ではない。 ローレンツ短縮と時計の遅れは A から見ても B から見ても同じく起こるものである。 相対論のパラドックスの混乱させる性質は、驚くべきものである。 しかも混乱は、それだけでは済まない。

地球から見てロケットに乗った者の経つ時間がゆっくりなのは理解したとする。 それなら逆に、ロケットに乗った人にとっては地球や、 遠方の恒星系の方が速度を持っているため、そちらの方が時間の経過が遅いはずだという、 疑問がすぐにでる。これは、前前章の図 3 でも説明したが、 ロケットに乗った人には地上の時間の経ち方が遅くないといけない。それをどう説明するのだろう。

また、乗った者の時間があまり経たないのに、遠方には光速でしか行けないということは、 彼はどこかで時間を失っている。かれは、世界の時間とのずれができているが、 それはどこで発生したのだろう、どこで彼は時間を失ったのだろう、という疑問がでる。

これは相対運動自体ではなくてその前後の加速に関係している。 ロケットが地球の慣性系から離れて速度を獲得するまでの間に、 前方の恒星の(ロケットとの同時刻の)時刻は急激に進み、 到着の直前の時刻になってしまうのである。彼は、この加速時に時間を失っている。 彼がロケットの中で経過する時間は、到達直前の時刻になった前方の恒星の経過する時間よりは、 長いのである。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

ある方向への加速は、同時刻線をその方向が未来になるように持ち上げ、 距離に比例して時間の経過を加速する。 これは一様な重力場では、上方の時間の経ち方が速いのと同じである。 ロケットは、その恒星系に到着する前には減速をするが、 このとき今度は、後方の地球が急速にこの恒星系に合わせて時計を進めるのである。

さらにローレンツ変換の視点から双子のパラドックスを疑ってみよう。 刻々の相対速度は、A から B を見たものと B から A を見たものとは大きさが等しい。 相対速度だけでローレンツ変換はできていて、加速度の項をもたないことから、 刻々のローレンツ変換は、A, B について対称的である。 B だけ時間の経ち方がゆっくりになるのはやはり不合理であると思われる。 これはどう解決するのだろう。

刻々というものが違うために対称的でなくなっているのであろうか。 B からみてもそのことは同じだから、それは正しくない。 じつは、ローレンツ変換は、慣性系での変換法則である。 ローレンツ変換は加速物体の運動を扱えても、加速系ではローレンツ変換は正しくない。 加速系ではローレンツ変換に不変な電磁波である光も曲がり、 マックスウエル方程式も成立しない。ローレンツ変換は A,B は対称的だが、 加速物体の B からみた系でそれを使うことが、間違っていたのである。







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10.速度の合成則

相対論では速度は、単なる加算ができない。 速度 v1 で動いている系からみて速度 v2 である物体を元の系からみると、 どれだけの速度だろうか。v1 と v2 は平行 (v1//v2) とする。 これをうまく初等的に説明できない。いっそのこと、変換式の変形でやる方法を示す。

ローレンツ変換、K 系から、速度 v で動いている系 K'への変換は、
x'= γ(x-vt)
t'= γ(t-vx)
であるが、K' 系から元の K 系への変換は、v の代わりに -v をいれ、' を入れ換えた式になる。
x= γ(x'+vt')
t= γ(t'+vx')
速度v2は、K' 系の dx'/dt' であり、速度 v1 は v である。上下の式を辺辺割算する。
dx/dt= (dx' + v1 dt')/(dt' + v1 dx')
右辺の分母子を dt' で割ると、次の式になる。

dx/dt= (v2 + v1)/(1 + v1 v2)

速度の合成式は v1, v2 に対称であり、v1, v2 が 1 に近くても、 その合成速度は 1 (光速)を超えない。 速度の合成を、v2 の分がローレンツ短縮分 1/γ倍に小さくなり、 時計の遅れでさらに 1/γ倍に小さくなると考えると、 v1 + v2(1-v1^2) = v1 + v2 - v1^2*v2 になるが、間違いである。v1, v2 について対称でもなくなる。


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11. 相対論と、決定論

同時刻(空間)が系によって違ってみえるということから、相対論は、 過去と同じく未来も実在するという決定論であるという見解がある。 これは、人の行動は未来を変更せず、未来は寸分の狂い無く完燿に最初からある、 というニュートン力学的決定論をさらに強化する観念である。 未来がすでに用意されていないと、別の慣性系からみた同時刻、空間にはなりえないだろう、 と思えるからである。

決定論の観念自体の妥当性は疑ってよい。価値を論じるのはすでに科学の領域ではないが、 通常人は行動で価値判断されるのに対して、それが行動の前にすべて用意されているという観念は、 自由意志と行動の価値を否定するものでしかない。

しかしながら、一方では、相対論は因果関係の起こる範囲を明確に限定した。 全ての物質の移動と通信を光速が制限し、 ある時空点は、その点からの光の円錐以内への影響を許し、 光円錐の中を時間的未来領域としている。

s^2= dt^2 - dx^2 - dy^2 - dz^2 >= 0

光円錐とは、空間を 2 次元に制限した(x,y,t) の猫像である。実際は光の 3 次元的広がり、 光球の爆発の内側をイメージする。 逆に、その反対側の光円錐の内側、時間的過去の領域だけからその時空点は影響を受ける。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

それ以外の領域は、現時点から/への影響のない、みる慣性系によって前後関係が逆転する空間領域である。
s^2= dt^2 - dx^2 - dy^2 - dz^2 < 0

空間領域とは、ニュートン力学では厚さのない薄膜だった、現在が大きな領域になったものである。 この空間領域と原点の時空点とは、光速を超える物体や情報の速度がないために、 因果関係にはなりえないので、座標系によって過去、未来のいずれに見えても、差し支えない。 そのように相対論は、因果関係の許す限りの自由度を時間と空間とに与えている。

遠方の空間の未来が現在の空間にみえる系があってもよい。 原因とそれがもたらす結果からみれば、 その未来はすでにあるという観念はその程度の希薄なものである。

宇宙の果てには、この宇宙の終末がすでにある。 1000億年後の未来に、そこに行くのにひとの一生も必要としないかもしれない。 だから、すでにそれは用意されていなければならないというのである。 しかし地球の1年後からは、その時空点に影響することはできない。 つまり、現在変更可能な遠方の未来は、1年後の便では、 すでに変更可能でないものになる。そのように、相対論の時空概念は、 因果関係を壊さない。因果関係を壊さないということは、 決定論は、一種の誤解の産物かもしれないことを示している。

決定論者が、未来がすでにあるというのは、空間領域であり、 もともと影響の与えられない領域のことである。 時間的未来はこの時空点から変更可能な領域であり、 そこでの出来事は何事も決定されていない。高速な船に乗って変更できるのである。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

空間領域が未来にも延びたことが、ニュートン力学よりも相対論を決定論に思わせる原因である。 すでに用意されている遠方の未来に、本人の一生もかからずに到達できるということは、 本人が単に自動的に凍結されているのとあまり違うことはないと考えることもできる。 より低速な船での冷凍睡眠とどこがちがうのだろうか。 未来が空間になっていて用意されているというのはそのようなことでしかない。

ニュートン力学の決定論は、自分の位置の未来の出来事すら決定できないとするのである。 何事も変更できないなら、自由意志も決定も全て剥奪されているようなものであり、 人権意識のある社会で、このような考え方が受け入れられるはずがないようなものである。 自由意志の剥奪は、人を奴隷にする。 それでありながらこの決定論の風潮は、一体どうしたことかと考えさせる。

ひとは、自由を与えられても十全な自由は与えられたことがないと訴えているのであろうか。 或は、なにか神の意志を感じているのだろうか。独裁者の任意さは許容できないで、 神の自由気ままを許すのは、公平ではない。 宇宙の法則には、存在しない神さえも自由気ままは許されない、 ということを考える方がまだ救いがある。

なお、光円錐は、リエナール・ウィーヘルトの遅延ポテンシャルが示すように、 電磁的相互作用の唯一の場所である。光円錐の中が影響できるわけではなく、 光円錐でしか影響できない。 電荷は、光の速度が出せないため、過去の自分の光円錐の内側にしか存在しない。 そのため自分の出した電場の影響を受けないで済んでいるとも考えられる。 電荷が過去の自分の電場の影響を受けると、自分で自分をどこまでも加速していくだろうからである。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

12. ローレンツ変換と加速度

ローレンツ変換は慣性系の間に成り立つ。 両方の系が慣性系であるためには、加速度の存在は許されない。 しかし、みる系が慣性系ならば、物体が加速度運動するときも、問題なくとり扱われる。 加速度運動をする物体は、慣性系を刻々に乗り換え、物体に付着した時計は、 慣性系の乗り換えにおいて、余分な時間を必要としないという考え方を使う。

その瞬間、物体に並進する慣性系との間のローレンツ変換は可能であるが、 並進慣性系の見る時空は、加速物体のみる時空と同一ではないはずである。 固有時というのは、小物体に付着した小さな時計の経過であり、 それには、加速系の理解が必要ではないだろうか。 一般相対論では、重力の底で時間の経過が緩慢になる。 加速系でも時間の経過が緩慢になるのではないだろうか。

双子のパラドックスの弟 B の引き返しの時点で、B が慣性系を乗り換えるとき、 Bの時計の時間が飛ばないという保証はなぜあるのか。A の方の時間が飛ぶのなら、 B の乗換に B 自身の時間がかかってもいいではないか。これではパラドックスが消えない。

ところがよく考えると、加速系で時間の経過が緩慢になるとすることは、 パラドックスが消えない方向とは、符号が違い、逆方向である。 B の固有時が小さいことを打ち消さない。同じことの別の説明でありうるのである。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

13. 双子のパラドックス(続き)

双子のパラドックスは、逆に、 B の受ける加速度のために固有時の経過が遅れたのではないだろうか、 特殊相対論では時空の幾何学的性質として説明されるものが、 加速度系の性質、または重力のある局所時空の性質として、 双子のパラドックスも説明できるのではないだろうか、という考えが出て来る。

一般相対論の重力の存在する場合に、時空 a 点から時空 b 点までの全ての経路の中で、 測地線は固有時の停留経路、極大の固有時を与える経路である。

時空点には必ず測地線がある。測地線は、重力(時空)以外の力無しに経路を辿るものであるから、 一般に多数ある。高速な測地線、低速な測地線、それから空間の方向によっても多数ある。 重力がないときの特殊相対論の双子のパラドックスの話では、 地球にいる兄の経路を非常に遅い速度の測地線運動と見ることができる。

そこで、双子のパラドックスの時計の違いは、時空点 a から b に至る経路の中で、 加速をする系は、加速をしない系(測地線)より、時間の経ち方がつねに少ないと考えることができる。

それでは、地球上のような一様な重力場で、地上に置いて静止した兄のボールと、 放り投げた弟のボールは、どちらが時間の経ち方が速いのだろう。 これは放り投げるときの加速がないとすると、つまり最初から速度を持ったボールなら、 測地線運動である放り投げた弟のボールの方が時間の経ち方が大きいとわかる。 これは、双子のパラドックスの逆の現象となることに注意すべきである。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

では次に、弟の運動を重力の無い平坦な時空の中での加速運動と捉えて、 兄の住んでいる地球の重力と同じ、1 g で遠方まで減速し、 帰りは加速する放物運動をさせるなら、これは兄と弟の時間の経過は等しいのだろうか。

これはそうではない。地球上の時空の時計の遅れは、 平坦な時空と比べてさほど大きく違わない(太陽表面でも1/100万の差しかでない)。 それに比べて、1 g での減速と加速の放物運動では、 十分遠方にまで出かけると、時計の遅れは明確にでる。 同じ 1 gの加速系と重力でありながら時間の経ち方は違うのである。 等価原理からいえばこれは同じでよさそうだが、違うのである。

一般相対論は、ある時期のアインシュタインがそうしたように、 一様な重力場は、加速系と原理的に区別できないとするわけではないのだろうか。 いや、固有時が経路によって異なることは、この等価原理に矛盾することではない。 重力が原因で、ある時空点から別の時空点まで複数の測地線があるときにおいてさえ、 所用時間は一般に違うと考える。

また、時計の遅れは、重力加速度GM/r^2には依らず、重力ポテンシャル-GM/rに依る。 4倍の質量の半径が2倍の大きな惑星では、表面で同じ重力加速度であっても、 重力ポテンシャルは、2 倍低く、そのため、時計の遅れは大きい。 電磁気もそうだが重力も、ポテンシャルの方が重力場自体より実在的なのである。






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14. 時計の公準

しかしながら、特殊相対論の理解に一般相対論を持ち出すのは順序が逆であり、 特殊は特殊として成立すべきである。加速系の時計の遅れは、特殊相対論から説明できるのである。 そこには欠けている前提があった。特殊相対論は、加速度の効果を考慮に入れず、 加速物体の時計と並進慣性系の時計とは等しい経過をもつと仮定しているのである。 これは、特殊相対論の相対性原理、光速一定につぐ第三の公準(前提 postulate)として、 "時計の公準"と言われる。 γの係わる時計の遅れには、加速の無効の前提がある。 これが明確にされないため、混乱したのである。

その前提を受け入れるなら、速度を変える物体の固有時も平気で扱うことができる。 (t,x,y,z) において s^2 = t^2 - x^2 - y^2 - z^2 の固有時 s は不変である。 そのとき、ds^2 = dt^2 - dx^2 - dy^2 - dz^2 という微分固有時 ds を考える。 固有時の経過とは、微分固有時 ds の経路による線積分∫_a^b dsである。 時空点 a から b までの複数の経路において、兄の A と 弟の B とでは、 経路が違うためその値が違うのであると思ったが、これは間違いである。

経路で線積分すると、経路は平方の和の分長くなっており、固有時が平方の差の分 短くなるのを、ほぼ打ち消してしまう。∫(1/γ)dt だけに止めるべきである。 時空図では空間的に移動した B の経路はピタゴラス的に(√(1+v^2))斜辺がのびるが、 ほぼその分だけ(1/γ = √(1-v^2))、固有時が減少する。長い経路には、短い固有時である。




≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

あのランダウでさえ、時空図の世界線上での積分∫_a^b ds と書いているが、 ふつう線積分は、経路を細分した dl を使い、定数の線積分でさえ経路の長さに比例する。 ds を積分するこの式は、時空の直線経路が最短でなく最長になるような、 図示の困難な固有時の時空での積分である。

B が一定速度 v で距離 L の恒星まで往復するときの A の経過時間は、単純に 2L/v である。 B の固有時の経過は、その 1/γで 2L/v/γである。その固有時の差は、(2L/v)(1-√(1-v^2)) = 2Lv/(1+√(1-v^2))となる。v≪1 では分母は約 2 で速度 v と距離 L に比例する。

相対論の否定論者にとって双子のパラドックスの最も深い本質は、 時空の経路による固有時の違いを認めるかどうかである。 物体がその歴史によって時間のずれを得るというのは、常識を外れていて認めにくい。 しかしこれが相対論の要求する驚くべき結論である。これで相対論が実証性を失う事はなかった。

似たようなことが、アインシュタイン自身にもあった。ワイルの理論が出たとき、彼は、 物体がその歴史によって、時間の経過が異なることを理由に否定したのであるが、それは、 本当に正しかったのだろうか。原子のスペクトルの均一さを証拠にしたのである。

双子のパラドックスには、まだ相対論の否定論者の付け込むすきがあるだろうか。 一般的な当時のニュートン力学的世界観の慣性系の対等と電磁気学からの光速一定を原理として、 相対論は、時間空間の理解の変更を強いた。 もし慣性系の対等を否定し、空間、時間の絶対性を原理におくと、 困難はマイケルソン・モーリー実験の結果の理解にくる。 また、相対性原理を認め光速一定を否定するのは実験事実に合わないだろう。 高校生でも理解できる相対論だが、原理的な部分の理解は、決して容易とは思わない。


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15. 相対論における不変量

特殊相対論は、光速一定と相対性原理を使い、時空理解を根底的に変革した。 時間と空間は相対的で、みる慣性系によって違うものとした。 それらは別々のものでなく、時空一体のものとして理解するようになった。 相対論の要約はローレンツ変換であるといえるが、さらには変換における不変量 s である。

s^2 = t^2 - x^2 - y^2 - z^2

光速は s = 0。s^2 > 0 の場合を固有時、s^2 < 0 の場合を固有長という。 固有とは、どの慣性系でみるかによらないからいう。系によらずこの量は保存され、 ローレンツ変換によって変化を受けない。

s'^2 = t'^2 - x'^2 = (γ(t - vx))^2 - (γ(x - vt))^2 = γ^2 ((t - vx)^2- (x - vt)^2 ) = t^2- x^2 = s^2

不変量は、この変換のもつ性質を最も端的に表す。その物体に伴う時計による時間の測定、 その物体に沿う物差しでの長さの測定、そういう局所的事実は、 みる系によって変わらないという原理的要請である。

重力場、回転系、加速度系などの座標系間の一般座標変換を扱うことができる一般相対論の 一般座標変換における不変量は、ローレンツ変換における不変量 s^2 の式を一般化し、 局所化、微分化したものである。

ds^2= Σ{j,k= 0,0}^{3,3} g_{j,k} dx^j dx^k


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

特殊相対論では一定であった不変量の式を決める g_{j,k} をメトリック(尺度)とよび、 時空の一点の性質を決める物理量とする。場所と時間によって、g_{i,k} が変化する。 メトリック自体は不変量ではなく、見る系によっても変わる。 例えば、どの時空点にもある自由落下の局所慣性系は、重力の無い平坦な時空、 ミンコフスキー時空のメトリック g_{0,0} = 1, g_{i,i}= -1(i= 1,2,3) と同じになる。 一般相対論の重力方程式は、この時空の尺度を物理量として扱い、 それで記述できる時空の曲率が物質によって決まるという非線形微分方程式であり、 これに境界条件を与え、時空間で解くという方法論である。
















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16. 円筒時空と双子のパラドックス

ここでパラドックスで読者の頭を悩ませてみよう。円筒時空での双子のパラドックスである。 B は出発してからそのまま直進を続けると、 止まっていた A ともう一度出会うような閉じた宇宙での双子である。 そこには引き返しが必要でない。

円筒時空とは、空間的には等方的で時間的には静的な宇宙である。 これは宇宙項をいれたアインシュタインの定常宇宙でも近似的に同じだろうが、 平坦なミンコフスキー時空(不変量がs= t^2-x^2である時空)が、 トポロジー的に閉じている場合であり、このような宇宙が生成するかどうかは別としても、 一般相対論からは、宇宙項がない場合に存在が許される解である。 また、平面を曲げるだけで伸縮無しに作ることができることからわかるように、 円筒の表面には曲率が無い。それと同じく、円筒時空も重力のない平坦な時空であるから、 特殊相対論が成立する宇宙である。

この円筒宇宙では、双子はどちらも引き返すことなしに再会する。 A も B も慣性系であり、互いに速度を持っている。 このとき相手の固有時が自分のより経過が少ないことを、互いに主張することは、 困難を引き起こす。 つまり、円筒時空では、双子のパラドックスは実際のパラドックスになってしまう。 A, Bは、通常の双子のパラドックスでは B は、加速してまた戻って来るため、 慣性系とは言えないが、 この円筒宇宙では A も B も慣性系という点では区別する方法がないのである。




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動いている系の同時刻は前方で未来になるということもこの宇宙では、 根本的な問題を引き起こす。この動いている系の中で時計合わせをすると、 世界を一順して来ると違う時刻になっている。 この系では系の中で時計合わせ自体ができない。 これは一般相対論の回転系で任意の閉曲線上での時計合わせができないことと似ている。 特殊相対論の慣性系と閉宇宙だけでこれと同じになる。



図 4 円筒時空と双子のパラドックス

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17. 円筒宇宙の絶対静止座標系

円筒宇宙での双子のパラドックスに関連して、 そのような空間では絶対静止系が区別できることを示す。

円筒宇宙で、A 点から前後に光を出すと両方の光はもう一度 A 点に同時に戻る。 ところがそれと相対的に動いている B では、受けるまでに B 点が移動するから同時でなくなる。 前方に出した光は、後方から追い付こうとして遅れるし、後方に出した光は、 前方からくるから早い目に到着する。

この前後に出した光が同時に到着する系が絶対静止座標系である。

A と相対的に動く物体 B は、光を前後に出し、 待つだけで自分が動いているかどうかがわかるのである。 相対論によって完全に無用とされた絶対静止系は、円筒宇宙では存在する、 または少なくとも区別できる座標系である。

A の乗る宇宙を取り巻く帯と、B を含む動く帯を考えると、A の帯の長さと、 B の帯の長さは、どちらが長いのだろうか。 B の帯はローレンツ短縮し、宇宙の直径は、静止系で最大というのは間違いである。 短縮した物差しで計測するBにとって宇宙は長く、宇宙の直径は静止系で最小である。 B の帯は短縮してはじめてAの帯と同じ長さだから、B にとって B の帯は長いのである。




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B の帯は元の地点の違う時刻までを含み、螺旋の形で無限に延びている。 それでも、因果の流れは、光円錐の内側にしか影響しないので、 螺旋の一部でしか因果は起こらない。一周回った同時刻は、 タイムパラドックスを生み出すわけではない。

では、B からみて A は短縮していないのだろうか。 もしそうなら、Bからみても先の議論は成り立ち、帯の長さは確定できないことになる。

この宇宙に絶対静止系が存在するなら、 A にとって宇宙は静止していて B にとってはそうでない。 B からみて A が同様に動いているとかは、無視するしかない。 動いているのは BであってAではないからである。 特殊相対論を発見した二つの原理である、 光速度が慣性系によらず一定ということ(光速度一定)と、相対性原理(慣性系の対等)の内、 少なくとも後者の方を捨てるのである。慣性系の対等性はない。 相対性原理はない。しかし、局所的には慣性系は対等でないと特殊相対論は成立しないので、 局所的には対等だろうか。短縮は局所現象である。

時計の遅れについても、A は円筒の軸(時間)方向に並行に移動し、B は螺旋を描くので、 B の固有時に時計の遅れを生じ、A にはそれがない。 B における同時刻(または、空間軸)が傾いていて、一周すると違う時刻の同じ場所に戻ることは、 同時刻という言葉が意味を失っている。時空の図の中で傾いたものを B の見る空間だと、 Aはいうが、これは B の帯の中で大勢の人が手をつないだものとは別のものであろうか。





≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

ロケットに乗って、鏡像の地球を目指していくとき、加速の直後に鏡像の地球は、 到達の直前の時刻になっているだろう。それは場所が元の位置というだけであって、 遠方の恒星と何ら異なることはないだろう。

以上の議論で納得できないのは、局所的には対等と言いながら、 大局的には対等でないことを前提にしていることである。 B からみて自分が静止しているとみて、A が運動して来る螺旋の世界線をみるのを、 何が禁止するのだろう。上の議論では、パラドックス自体が禁止するみたいである。
















≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

18. 重力と双子のパラドックス

重力のある場合は、特殊相対論は取り扱わない。重力場の理論は一般相対論が扱い、 任意の時空点での測地線運動をする系を局所慣性系という。特殊相対論は、 一般相対論の中では局所慣性系の間での局所の現象として、近似的に成立すると普通考えられる。

現実の宇宙空間では、双子のパラドックスはどうなるだろう。 A と B が、同じ軌道を描く人工衛星同士ですれ違っている場合、 相対速度はあっても両者に時間の経過の違いがあってはならないと、 普通考えるだろう。なぜなら、両者は、完全に対称的であるからである。

人工衛星の軌道上の時空は、重力を遠心力が大半を打ち消して、一見無重力だが、 潮せき力のある平坦でない時空である。これがその原因だろうか。 これは、そうではないのである。

まず、これは、どこまでも拡張できることに注意して欲しい。 30 km/secで太陽を公転する地球から、 60 km/sec のロケットを公転軌道上を反対方向に公転させるときも、 ロケットと地球で時間の経過(時計の遅れ)は同じであろう。 銀河系の中心を、220 km/secで周回する太陽系から打ち上げた、 440 km/secのロケットも、方向によっては引き返しなしに再会する。 さらには、どんな速度をもつロケットも、 宇宙の不規則さによってどこかを中心とした周回軌道をとり、それらはいつかは再会するだろう。

宇宙にこのようなエルゴード仮説をおくなら、離れて行った慣性系は必ずいつか再会する。 そのとき、双子のパラドックスは、どうなるだろうか。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

それは実験誤差を問題にしているだけではないか。重力を考慮すれば良いではないか。 単に実験家が注意すべき事だけではないかという批判は、当たっていないかもしれない。 その時空点のメトリックg_{ik}をよく知ればよいということではないのである。 それは円筒宇宙と、全く同じ症状を呈するからである。 つまり、その場所がどれだけ平坦であっても、 局所慣性系が引き返しなしに再会するような状況になっていれば、 特殊相対論のパラドックスは生き返るようである。

局所的に、引き返せばそれが成立するということは確かであり、 引き返しなく再会するとは、ぐるりとまわって来るという位相幾何学的な部分が効いているのである。 双子の固有時の差は、幾何学的な経路によるものだからである。

局所的、開空間では、A から見て、B の時空経路が曲がっていて、空間的移動がある分、 固有時が小さいと考えるが、ある時空点から別の時空点への、複数の経路がともに直線、 測地線であるなら、相手の時間の経ち方を正しく推定する方法は、(特殊相対論には、) もはやないと考えるべきなのかもしれない。










≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

19. あとがき

相対論とは、一体なにだろうか。なにから話すべきだろうか。 双子のパラドックスは、身近に感じられるものでないし、光速度の制限も、 天下り的にあるべきものではない。 ニュートン力学の力と運動の法則から相対論までを、 連続的につなげるのも大変だし、そうすべきでもない。

相対性の原理は、どうだろうか。 すべての慣性系は対等でありその中の物理法則は一致するということ、 そして光の伝播に必要と考えられていた、絶対静止系というものが必要でなくなるということ、 それが最も核心をついた相対論の本質なのだろうか。 しかし、当時は、それほどいま必要でない、 エーテルという仮想の真空充填物質を考えなければならなかったこと自体が、 理解しにくいことであろう。

時間の空間化、時間を系に附属したものとして扱うこと、 空間もそうだがとくに時間が、系によって違ってみえるということ、 これは、時間の相対化であり、空間の相対化である。 それが相対論の本質だろうか。これは帰結であり、本質ではない。

相対論という表題がとられたのは、当時の風潮に従ったもので、実は相対論とは、 時空の絶対化であるという人がいる。 ある時空の性質は、どこから眺めてみても変わらない性質であり、 それが重力の説明になっている。 g_{ik}は、 慣性系によって異なるが系によって消しさることのできない部分を問題にしているのである。 時間は相対的で、空間も相対的である、 しかし、時空は絶対的であるというのが相対論の基本的姿勢ではなかろうか。


≪=BACK TOP∧ NEXT=≫

マッハの原理は、すべて相互作用は、物体が作っているということであるが、 ある点の時空、物体の慣性、重力定数、そのようなものも宇宙の物質をすべて取り除くと、 消えないといけない。そのような原理が相対論の中に保たれてはいないのである。 マッハの原理は、実現されなかった理想であった。

一般相対論で、周囲のすべての物体を回したとき、 回転系と全く同じ遠心力とコリオリの力が発生することを、示すのは難しい。 一般相対論は非線形の微分方程式である。無限遠の境界条件の困難を避けるために、 弱い近似での解だけ示されていて、そこでは、 静止系に弱い遠心力とコリオリの力があることは示されたが、 回転する周囲の物体を増やして行けば、そのうち回転系が静止系と 入れ替わることを示しているわけではない。 アインシュタインの目指すマッハの原理からいえばこれはまだ、不十分な到達地点であった。

最後に、相対論を学んで最終的に絶対静止空間を信じるようなことになってしまった人達に対して、 なにをいうべきか、 ああ地球平坦論者たちよ、"世の中に確かなことがひとつだけある。それはエーテルの存在だ。" 1902 年にケルビン卿(W.トムソン1824-1907)がいってる。君達も頑迷な学者の類である。 疑いは解明の母、大いに疑うことはよい。それらが十分に理解され常識となり、 その上に立って全ての考えが形成されるほどの重要な考え方の変化には、 抵抗があって当然であるからである。






≪=BACK TOP∧
(注*1) W. Rits の理論について

光速に光源速度が加算され、光速が一定でないとすると、まず天体現象が違ってみえると思う。 今仮に、連星を主星が太陽で、伴星が地球軌道とすると、伴星速度は地球速度と同じく光速の10^-4である。 この伴星をその軌道面内で 2500 光年先からみると、近付くときと遠ざかるときの光は 0.5 年ずれて届く。 伴星は、半年は主星の両側に 2 個になって見え、半年は全く見えなかったりする。 このような現象は知られていない。この 2500 光年は遠すぎると思われるかもしれないが、 連星の速度は、もっと速いものが多い。通常は、数 100 光年でその現象が現れるだろう。 そのような現象の傾向が少しでもあれば、知られているはずである。

また、太陽光の光源は、約 6000 度の熱運動による雑多な速度をもつ。 皆既日蝕から最初に光がくるダイヤモンドリング現象では、月の距離 38 万 km からの光速が雑多なら、 最初青い光りが見えて、その後赤い光りが届くだろうか。全ての遠方の光の遮りの現象で、 これが起こらなくてはならないが、そういう現象はないのではないか。

深部宇宙のドプラー効果の赤方変移を受けた光は、実はずっと古い光ということになる。 宇宙がプラズマ状態から原子を形成し、電磁波と相互作用を失った宇宙の晴れ上がりの時期、 宇宙のサイズが 1/1000 の時代の数千度の黒体放射の名残と言われる 2.7 度の宇宙の背景放射は、 今言われる 150 億年の千倍の過去の事件になる。 背景放射のマイクロ波が、他のマイクロ波とは違って、光速の 1/1000 の速度になるが、 信じられるだろうか。すこしでも速度の違う光があれば、測定できないはずはないように思える。