『そばとヨコハマとサンタさん』


 「名雪、正真正銘のピンチなんだ。起きてくれ」  ドアを二、三回叩いた後に部屋へと入ると、名雪はベッドの上で至福の喜びをかみ締めるかのような寝顔で寝ていた。  机の上に置かれたものすごい数の置時計の針が差すのはちょうど十二の数字。  普段、休日の名雪が起きるにはまだちょっとばかり早い時間だった。  だけれど、今、この時ばかりは名雪に起きてもらわなければならない。…今、階下では、水瀬家の一大事とも言える事態が起きていたから。  手近にあった目覚しい時計のスイッチを入れる。  『ピピピピピ……』  けたたましい電子音が部屋中に響く。…けれど名雪は、何事も無いかのように寝ている。  「いっちごじゃむ〜いちごじゃむ〜」  くっ……この一大事に寝言でイチゴジャムの歌かよ……。ならば、次の手段っ。  俺は両手で名雪の両頬をつかむと、びろ〜んと音が出るくらいに引っ張った。  「うにょ〜〜〜ん」  ………。  両手を離す。名雪はまだ起きない。  もう一度両手でもう一度引っ張ってみる。  「うにょ〜〜〜ん」  ………。  両手を離す。名雪はまだ起きない。  更に両手でもう一度引っ張ってみる。  「うにょ〜〜〜ん」  ………………やばい、楽しいかも。  「祐一ーーー! 早く助けてーー!」  下から聞こえた真琴の声に思わずはっとする。そうだ、俺が名雪を連れてくるのを真琴が待ってるんだ。遊んでる場合じゃない。  俺は名雪の両肩を掴むと、前後にゆさゆさと揺り動かす。当然名雪を相手にするんだから、俺の全力を持って揺らす。  「名雪、頼むから起きてくれ」  「うにゅ〜おなかいっぱいだお〜」  「台所がすごい事になってるんだ、頼むから起きてくれ」  「うにゅ……イチゴジャムー……」  幾ら揺らしても名雪が起きる気配は無く、このままでは埒があかないと思った俺は、名雪が抱いて眠っているあるものに目がいった。  寝ている名雪から力づくでそれを奪うと、それを持ったままドアへと向かう。  「あれ? けろぴーどこ?」  けろぴーが手元からなくなり、名雪が寝ぼけたまま俺の方に起き上がって歩いてくるのを待って俺は、けろぴーを持ったまま階段を下りる。  「けろぴ〜けろぴ〜」  俺の後を追って名雪も降りてくるが……よく寝ぼけたままで落ちないな、あいつ。  台所まで行くと真琴が、救世主が来たかのような、そんな顔をする。  「真琴、名雪を連れてきたぞ」  「祐一遅い……」  「そう言うな。これでも名雪を起こすのには苦労したんだから。…さ、名雪。援護を頼むっ」  「く〜」  「祐一、粉が多すぎるんだよ。あんなに粉入れたら部屋中粉まみれになっちゃうのは当たり前だよ」  戦力がほぼ寝起きの名雪だけという貧弱なチームだったが、台所一杯に広がったそば粉の霧を払うのにその名雪の知恵が役に立ち、 俺たちはどうにか窮地を脱出することが出来た。  「水の量と粉の量をどの位にしたらいいのか悩んでたら、真琴がそば粉の容器を俺から奪い取ろうとしてな。   容器の取り合いになって中身をぶちまけちまったんだ」  「祐一が悪いんだよ。いつまでも悩んでたら秋子さんが帰ってきちゃうから真琴が入れようと思ったのに強情だから」  「分量を間違えたら良いそばは作れない。丹精込めないと駄目だろ」  「祐一も真琴も、後で片付ける方の身になってよ……」  言い争う俺と真琴を尻目に、着替えてきた名雪がまだ少し眠そうな顔でぼそりと言う。  流石に俺達二ともそれを聞くとぐぅの一言も出ないので、大人しく名雪に従う事にする。  少なくとも料理に関していえば、名雪には俺たちは手も足も出ない。  「で、祐一たちは何を作ろうとしてたの? ずいぶん朝早くから」  「今日って大晦日でしょ。大晦日と言ったら年越しそばなんだけど、手打ちで作るって言ってた秋子さんが急な用事で出かけちゃったの。   だから、真琴たちで作ろうと思ったの」  掛け時計にちらりと目をやって、そんなに朝早くでもないだろう…と思いつつも、名雪に説明する真琴に相槌を打っておく。  「分かった。じゃあ。おそばは私が作るよ。でも、おそば作るのって初めてだから、祐一も真琴も手伝ってね」  「ま、そういう事なら俺達も手伝うさ。……とりあえず、俺達は何すればいい?」  「まず最初に、祐一達がこぼしちゃった分のそば粉を買ってきて」  肉まんを買うために商店街の入り口のコンビニに入った真琴を待つ、俺と、一緒についてきたぴろ。  ぴろを置いて真琴と一緒にコンビニに入るわけにもゆかず、ましてやぴろをコンビニに入れるにもゆかず、寒風の中を一人と一匹で待っていた。  「ねぇ、祐一」  コンビニから包みを持って出てきた真琴が、ぴろを頭の上に乗せながら俺に聞いてくる。  「なんだ?」  「肉まんの本場ってやっぱり、ヨコハマなんだよねぇ」  ずいぶん久しぶりに聞い地名に、自分の故郷に望郷の念を覚える。  「まあ、そうだな。本当を言ったら中国なんだろうけど、ちょっと行くには遠すぎるしな」  うんと頷いた真琴は更に続けて俺に聞いてくる。  「祐一ってヨコハマ、行った事あるの?」  「そうだな。俺も何度もって訳じゃないが、行った事くらいはあるぞ」  「ふ〜ん。ねぇ、ヨコハマってやっぱり、面白い?」  真琴が目を輝かせながら聞いてくる。こいつは肉まんと面白い事には目がない奴だから、やっぱりなとは思ったが。  「公園から海は見渡せるし、やっぱり中華の飯屋が多いしな。もう一度くらい行ってみたいところではあるな」  「あう〜海……」  きっとこいつの頭の中では今、波飛沫がたつ浜辺でビーチソファに座りながら肉まんを食う自分の姿がありありと思い浮かんでいるに違いない。  「祐一。今度、ヨコハマに連れてって」  「まあ、そっちの方まで行く機会あったらな。とりあえず、今はそばだ。いくぞ」  いつまでも海と本場肉まんと旅行に思いをはせる真琴の腕を引いて、俺は商店街へ向かった。  頭の上のぴろは、中華街は何のそのというあいかわらずっぷりだったが。  「あ、美汐だ。美汐〜」  スーパーでそば粉を探して小麦粉の棚を覗いている時に、隣にいた真琴が声を上げた。  見ると買い物かごを持った天野が、しいたけか何かをそのかごに入れているところだった。  天野は駆けてきた真琴の頭を撫でながら、真琴の笑顔を表情に柔らかさを持たせて見つめていた。  「よっ、天野」  「相沢さん」  その柔らかい表情が向けられると、やっぱり俺もそんな表情になる。本当に彼女が下級生なのかが不思議に思う、そんな大人びた表情。  「天野も買い物か?」  「はい。お正月の分の買いだめをしておかなければいけないので、ちょっと多めに。相沢さんと真琴は?」  「ああ、俺たちは年越しそば用のそば粉を買いに来たんだ。買い置きがなくなってな」  そうですかと言う天野の顔を見ていて、俺は一つ気がついた事がある。  「ねぇ、美汐。今日も……一人なの?」  「はい」  俺が疑問に思いながらも口を開けなかったのを、真琴が先に口を開いた。  美汐は俺たちと知り合ってからも、両親は仕事が忙しいらしく、殆ど家に一人で居るらしい。  慣れてますからと天野は言うけれど、それはそれ。俺たちにとってすればおせっかいかも知れないがやりきれない。  「じゃあ、一緒におそば食べようよ。名雪だって秋子さんだって、大歓迎だと思うよ」  それに関しては俺も同感だった。あの二人なら大勢の方が楽しいからと歓迎してくれるだろう。秋子さんなら一秒で了承ものだろう。  でも……と考える天野が、俺のほうをちらりと見た。その意図と言うか、思うところが分かったので、  「俺も歓迎するぞ。飯は昔から大人数で食べた方が楽しいって決まってるしな」  と言うと天野は、そうですねと答えてくれた。  「ただいま〜」  「おじゃまします」  俺の声と真琴の声、それに天野の声が玄関の奥で重なる。  「あ、おかえり祐一。そば粉はって……その声は、美汐ちゃんも一緒?」  廊下の奥からエプロン姿で出てきた名雪が天野の声を聞いていらっしゃいと付け加え、それに天野ももう一度お邪魔しますと答える。  「今、おそばを作ってるところなんだよ。しばらく待っててね」  「あ、私もお手伝いします」  「そう?」  頷く天野に名雪は少しだけ申し訳無さそうに、それでも嬉しそうな顔で頷いた。  「ありがとう。私、おそばって作った事ないからちょっと不安だったんだ」  「私も自分で作った事はないんです。それでもですけど」  「うん。二人でがんばろ。ふぁいとっだよ」  廊下の奥へと歩いていく二人を尻目に、俺と真琴は呆然としていた。  「なぁ……真琴」  「うん……」  正直名雪に加えて天野まで戦力に加わると、料理に関しては俺たちでは足手まといにしかならず、やる事もなくなってしまった。  二人でテレビを見ていても台所から聞こえる声に、どうしても夢中にはなれずに二人が作ってる事に気がいってしまう。  時折台所の方を覗きに行ってみると、名雪と天野が慌しく、それでも楽しそうに作っているのを見ると、何かしら手伝おうという気にもなるのだが……。  考えてると、だんだん……眠くなってくる。  ふと横を見ると、俺と同じく暇を持て余していた真琴はすでに夢の中だった。  普段よりもずっと早く起きたせいで、昼過ぎの今になってくると随分と眠くなってくる。  『名雪に天野も居るし……ちょっとまかせるかな』  俺は目を閉じると、ソファーにもたれかかった。睡魔はすぐに襲ってきた……気がする。  「……相沢さん、手伝ってもらえますか?」  ふと気が付くと、目の前には秋子さんのものらしきピンクのエプロンを付けた天野の姿があった。  ソファで横になっていた俺を見下ろしている。  「ん? もしかして、もう出来たのか?」  周りを見るとまだ暗くなってはいない。そろそろ夕刻になろうかという時間だった。  「いえ……力のいる作業を相沢さんに手伝って頂こうと思って」  起き上がって台所へ向かうと、金ボールの中には薄い灰色のそば生地が出来上がっていて、水色のエプロンを付けた名雪は椅子に腰掛けていた。  「あ、祐一起きた?」  「ああ。これを伸ばせばいいんだろ。麺棒と何か台を出してくれ」  寝起きの頭をはっきりさせながら、俺は生地をこねて麺棒で伸ばしていく。その様子を見ていた天野が上手ですねと何気に言った。  「力だけあれば誰でもできるって。そんな事言ったら、俺は天野や名雪の方がすごいと思うぞ。俺はああは出来ないからな」  「そんな事ないですよ。もし良かったら、今度一緒にやりませんか」  俺が台所に立つ姿と、それを天野はともかく名雪に指導される姿を想像して、一言返す。  「いや……遠慮しとく。それだったら、そこにいるやつに教えてやってくれないか」  俺がぴっと指差した先には、テレビを見ながら肉まんを咥えている真琴の姿が。  「そうですね。今度誘ってみます」  「祐一〜〜っ、おそばまだ〜〜?」  その声に俺たちの顔からは笑みがこぼれた。もっとも、当の本人は不思議そうな顔で見つめるだけだったが。  「祐一〜〜っ、真琴〜〜〜っ。おそば、ゆで上がったよ」  台所から聞こえた名雪の声に、真琴の部屋で遊んでいた俺に真琴、天野が階段を下に下りてみると、ちょうど玄関が開き、秋子さんの姿が。  「ただいま。…あら、美汐ちゃん? いらっしゃい」  真琴の隣にいる天野の姿を見て、秋子さんが笑みをこぼす。天野がお邪魔してますと返すのを、  「大勢の方が楽しいですからね」  と、やはりいつもの笑顔。  真琴は秋子さんが両手に持って帰ってきた紙袋の数々を持って居間へと歩いてゆく。菓子か何かが入ってるとでも思ってるんだろう。  秋子さんと共に居間まで行くと、テーブルに置かれた鍋からは蓋の隙間から微かに湯気が立っている。  「あら、名雪が作ったの?」  秋子さんの声に台所で片付けをしていた名雪が出てくる。  「あ、お母さんお帰りなさい。うん、そう。美汐ちゃんにも手伝ってもらったんだけどね」  そう言って天野を見る名雪。秋子さんも天野、名雪に礼を言う。  「今日はお仕事の人たちで忘年会だったのよ。起こしちゃってごめんなさいね、祐一さん」  「いえ、いいですよ。これはこれで楽しかったですしね。それじゃ、飯にしましょうか。名雪、何か器を持ってきてくれ」  「うん」  「なんか……あっという間だったな」  「確かに、そうかもしれませんね」  居間の柱時計がコチコチと音を立てる中、俺と天野、それに既にうつらうつらとしている真琴は三人でテレビを見ていた。  もうすぐで日が変わって、年も変わる。テレビの画面には何処かの寺で除夜の鐘が打たれる画面が映し出されていた。  「遠い日の事だと思ってしまいますけど、真琴と出会ったのも、相沢さんと出会ったのも、全部この一年の事だったんですね」  「まぁ……そういう事になるけど、なんか意味深だな。その言い方だと」  「そうですか?」  「ま、ちょっとおばさんくさい天野の事だしな」  「……せめて、物腰が上品だと言ってください」  テレビのスピーカーから、再び鐘の音が聞こえてきた。画面の左上に描かれた時計も、もう今年が数十秒しか残っていない事を示している。  「そういえば……名雪。あいつは絶対年越しに立ち会う事はないだろうな」  今日はずいぶん名雪なりには遅くまで起きていたけれど、あと一時間……という所で、ソファーで寝始めたので部屋まで運ばざるを得なかった。 もっとも、真琴もじきに運ばなきゃいけないが。  「でも、いいんですよ。その方が」  「何でだ?」  少し考えた後に、天野は言った。  「そうですね、子供心というものだと思います。クリスマスのサンタクロースとか、本当の事を知らない方が夢があるんだと、私は思います」  「……?」  「ちょっとした例えです。気にしないで下さい」  『ポ、ポ、ポ、ポ〜ン』  「今年も真琴と共に、よろしくな。天野」  「今年もよろしくお願いします、相沢さん」



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